22話 村月李冴
メイドの朝は早い。
いや、実際はさほど早くもない。ただ、劇場での公演時間が夜間に傾いているため――朝七時、しとれは布団の中で目を覚ます。食事の支度を――自分の分のついでに、他のメンバーの分まで用意するために。別段彼女が担う必要もないし、任されたわけでもない。が、成り行きで作ることになっていた。
自他共にそう認知しているからこそ。
「…………」
しとれはアラームを止めて上体を起こし、枕元のカーテンを開く。今日の空模様は如何ほどか。すると、そこには。
「…………ッ!?」
天気は良い。だが、地上三階の出窓に張り付いた大きな褐色肌が爽やかな朝陽を遮っている。しとれの驚愕とは裏腹に、屋外の笑顔は実に晴れやかだ。
「うんッ、起きてきたゾッ!」
両腕両足を広げて窓枠に掴まっているため、しとれは同性の裸体を隅々まで見せつけられる格好となっている。が、それも束の間――早朝の来訪者はひょいと飛び去ってしまった。しかし、ここは地上三階である。
「蘭さまッ!?」
しとれは慌てて窓を開け、目下の地上に向けて身を乗り出した。そこはいつもの大通りであり、白いふたり組が道の真ん中でクネクネと陣取っている。これから仕事が始まる時間帯だけに、人通りは少なくない。だが、皆の進路の中央が円状にぽっかりと避けられていた。
よくある新歌舞伎町の風景である。
蘭が転落した様子もないし、この高さであれば普通に着地できたと歩からも聞いていた。この街に住まうものとして、この程度のことは驚くことでもないのかもしれない。気を取り直して、しとれは出立の準備にとりかかる。
用途に合わせて様々なメイド服を着用しているしとれだが、メイド服風パジャマは所有していない。かといって、西洋風のネグリジェを着こなすこともなく、普通に近所の量販店で売っている柔らかな長袖である。メイド服の中であれば下着まで気にするしとれだが、メイド服以外に別段こだわりはないようだ。
手早く身支度を――作業着ともいえる日常仕様の綿製紺色メイド服を身にまとう。夜もまたメイド服でステージに上がるが、そちらはサテン織りのつややかなものだ。世界広しといえども、メイド服からメイド服に着替えるアイドルは彼女くらいのものかもしれない。
そんな彼女を受け入れられるのは、この新歌舞伎町という街の懐の広さによるものだろう。人と人のつながりが疎である都心であっても、この姿で出歩けるのはここか、もしくは、古巣である――……
そんなことを考えながら一時間後、しとれは自宅を出た。同フロアの他の二部屋には朱美と――もうひとりはさっき窓の下で見ている。朱美が大学に出るのはもう少し後なので、朝食は独自に摂るはずだ。
今日の食事人数を思い出しながらしとれは階段を下り、マンションのエントランスをくぐる。築四〇年の一〇戸五階建て――ただし、一階は空きテナント――元々、この街の風俗店に務める女性のために法人契約されていた建物だったらしい。
とはいえ空きもあったので、先ずは未兎がここに移り住んだ。自分に松塚芸能の監視がついていると知って、表社会の人間が手を出してこないように。そして、いまも原則としてこの街の中だけで生活している。一応、一通りの機能は揃っているとはいえ、窮屈であることは否めない。だが、もう一撃、松塚に下すことができれば――未兎は、そう信じている。
松塚芸能期待の星、人気男子高生アイドルグループSAQSのリーダー・吉坂稔――ファンムードに司法のメスが入ったことで、そのつながりも明らかになった。彼はデビュー前からアダルトメーカーのスカウトとして暗躍していたらしい。未来の人気アイドル男子に誘われた将来有望な女子たちが、何人もハードなマニア向け作品で消耗させられてきたという。
稔本人もそのことを悔やみ、ずっと手を切りたいと願っていたのだが――まだ若いということもあり、彼自身も被害者だったとして事務所側は処理したいようだ。しかし、ここに何らかの別件が加われば、今度こそ――ライブネットの情報網も駆使して、目下調査中である。
それはさておき。
未兎が元の家を引き払い、こちらに移り住んだのを機に――そろそろ、カラオケボックス九階のメンバールームも手狭になってきた。そこで、未兎に続いて丘薙家のお嬢様・糸織と、萩名家令嬢・里美――そこは元々萩名グループ率いるライブネット系列の店舗の所有であったため、元の居住者については里美自身が調整し――あと、晴恵も自分用に一戸購入し――『メゾン・ニュー』――フランス語で『裸の家』を意味することになったのはある種の偶然。元々『メゾン・ニュー・歌舞伎町』という建物名だったが、萩名グループから完全に買い取った際に、元の名前は嫌だと里美が漏らし、その際に建物の表札変更を最小限に済ますため『歌舞伎町』の部分を別の単語に変えよう、と糸織が提案した際、『ニュー』はフランス語で『裸の』という意味だと知っていたため、ならば、と取るだけ取って、新たな文字は加わらなかった。不自然に空いたフロントの屋根のスペースに薄っすらと『歌舞伎町』の文字跡が残っているのはそのためである。
こうして――名実ともにこのマンションはTRKメンバーのための城となった。とはいえ無料提供ではなく、家賃は出演料から天引きされている。
新歌舞伎町内にTRKのための住居が設けられたことによって、晴恵も蘭も全裸で生活することができている。先程窓の上から見かけた操とルミノもここの住人だ。おそらくふたりは朝食の時間まで暇を持て余し、悪い遊びに興じていたのだろう。
だが、彼女たちは失念していた。今日は朝一でミーティングの予定が入っているため、秘書たる霞も劇場に向けて出勤していたことを。
***
ただ、服を着るのが面倒だから。
むしろ、服を着たくないから――
彼女たちが道端で裸になっている理由は様々である。
だが、その中でもこのふたりの理由は悪質だ。
痴態を見せつけることで相手をドン引き“させたい”ルミノ。
自分の“カワユさ”を“魅せつける”ことで通勤中の男性を妨害したい操――
もちろん、霞の前に正座させられて、そのようなことを口にできるはずもない。
「そ、そのぅ……家の前で、ホスト……? の人たちに声かけられちゃって……」
何故劇場控室の床にウレタンマットが敷かれているのか――当初は、ストレッチや振り付けの確認など、舞台に備えるためだと思われていた。しかし、その本当の目的は、リノリウムの床の上に直接座らされると痛いからかもしれない。なお、全裸徘徊していたという点については、蘭も同罪である。が、このふたりのようにあえて魅せつける趣味がないのと――そもそも、その桁外れた行動力により所在が捉えづらい。ということで、今回は霞によるお説教を免れていた。なお、当の蘭は先程しとれの作ったサンドイッチを確保しに来たようだが、その後どこへ行ったかは誰も知らない。
さて。
ルミノは動画流出が原因で退学処分になっている。本来通学すべき時間帯に、このような繁華街で学生と思われる年頃の女子を見かけて、朝帰りの男たちがナンパしてきたらしい。いつものルミノであれば、そのような相手から声をかけられれば恐怖して泣き出してしまったことだろう。だが、幸か不幸か、彼女はちょうど操が出てくるのを待っているところだった。何より、自分たちの住居の正面玄関前である。もうすぐ頼もしい女空手家も来てくれるだろうし、逃げ込める先もある――そんな安心感があったからこそ――
肌に刻まれたこれ見よがしな刺青を魅せつけてやると、男たちは驚いてすぐさま逃げていった。しかし、ルミノの変態性はその程度では収まらない。遠巻きに窺っていた人々のおののく視線に気分を昂ぶらせたことでさらに激しい行為に興じ、遅ればせながらやってきた操も目の前で“カワユさ”を見せびらかしている同僚に負けじと脱ぎ始め――そして、霞により捕捉されたのである。
「いくら直接連行されることがないとはいえ、通報があれば事務所に苦情が来るのよ。その度に社長自ら頭を下げなくてはならないし、いつまでお目こぼしがもらえるかわからないし」
『萩名の乱』にて兵哉社長から口添えを得たことで、営業活動を伴わない露出行為については警察にも目を瞑ってもらえている。とはいえ、締めるところで締めなければ余計なトラブルになりかねない。実際、都度プロデューサーが出頭し、誠心誠意許しを請いてきた。
それでも、責任者自身が本人たちを強く諭すことはない。むしろ、そのような現場を発見した場合は、秘書を通さず自分に直接連絡するよう頼んでいたほどだ。如何なる理由があろうとも、彼はこのような形で女のコがしょげているのを見ると悲しくなってしまう。かといって、この叱責を下手に止めようものならプロデューサーであっても飛び火は免れず、状況は悪化するだけだ。
成すすべのないプロダクションの最高責任者は、パーティションにて区切られた応接スペースの中で、秘書に代わって静かに書類の整理をしている。この業界は何かと闇が深い。足のつきやすい電子データよりアナログな書類を好む商習慣が未だ残っている。合法違法の線引きは警察の胸三寸によるところが大きく、できる限り形跡は残しておきたくないようだ。
プロデューサーは、なるべく無心で手を動かそうとしている。だが、やはり霞たちの様子が気にかかり、こっそり衝立から覗いてみた。そこから見えるのは、女性にしては大きい霞の背中と、元々小さいところからさらに縮こまっているルミノ。そして、普段は強気な操の萎縮した姿だった。どんな大男にも物怖じしない空手有段者であっても、貫禄ある大人の女性には頭が上がらない。
「……霞さんだって昨晩……」
「何か言いたいことでもッ!?」
「……何でもねぇ」
眼鏡とウィッグを外し、全裸で正座したまま操はボソっと反論を試みる。だが、霞の圧に押されて黙り込んだ。納得していない表情で。何故なら、霞自身も昨晩やらかしている。急に花子が出られなくなったため、まこと共に代役を務めたところまで良かった。が、その勢いのまま、全裸で劇場の外まで繰り出してしまったのである。そして、道端で酔い潰れていた彼女をおぶって戻ってきたのは他ならぬ操だった。ならば、多少の恩赦があってもいいのに、と不貞腐れている。
霞は、泥酔してもその記憶が飛ぶことはない。なので、その詰問は自分に都合の悪いことを秘書として封殺しているだけで。ゆえに、あまり説得力がなく、『霞が怒ると怖いので』という以上の理由での抑止力にはなっていない。
プロデューサーはチラリと腕時計に目を下ろす。時刻は八時五〇分。あと一〇分でミーティングが始まってしまう。いつものしとれならそろそろ席に着いていてもおかしくないのだが――おそらく、部屋の外で説教が終わるのを待っているのだろう。共に参加する糸織と共に。
今朝の議題は週末に開催される『サブカルティア』について。何らかの有益な情報が得られると期待できるが、そのイベントに参加するには事前に登録が必要だった。申込みはとっくに終わっており、どうにかして潜り込めないかについて検討する予定となっている。
が、プロデューサーは整理していた書類の中に不審な封筒を見つけた。一度封を切られており――そこに貼られていた付箋を見てぎょっとする。
「たっ、高林さん……っ」
重要事項ゆえに、プロデューサーは霞たちの間に割って入った。それで、彼女もまた部屋の掛け時計の方に首をもたげる。
「……そろそろ時間ね。仕方ないわ。ともかく、今後は不用意な露出行為は控えること。いいわね」
「は……」
「はい……」
話が終わったところで、部屋の扉がコンコンと敲かれた。やはり、他の面々は廊下で待機していたらしい。
だが、プロデューサーから見て、霞の反応には違和感がある。何故ならば。
「高林さん、助かります。すでに“入場チケットをご用意いただいていた”とは」
これから議論しようとしていた問題が解決済みとなれば、その説教が九時で終わる保証はない。ゆえに、危険を承知でプロデューサーは止めに入ったのである。このチケットの使い方を新たな議題として提起するつもりで。
だが。
「用意……?」
霞は立ち上がって振り向くと、プロデューサーからその封筒を受け取る。その脇を通り、すごすごと操たちは退室してゆき、入れ替わる形でしとれたちが入室してきた。
その封筒にはサブカルティアのロゴが印字されているが、宛名は記載されていない。住所氏名を中から透かすための窓は設けられているものの、入っていたのは未使用のチケットだけだった。そして、付箋には『TRK事務所の皆様にてご参加下さい』と明らかなる譲渡の意思が示されている。このイベントは入場券の転売が横行しているため、すべてのチケットにはIDが振られている。が、無償による譲渡は推奨こそされていないが禁止もされていない。
このようなとき、先んじて手を回してくれるのはいつも秘書である霞だった。けれども、今回ばかりは彼女も把握していないらしい。
ともあれ、渡りに船とはこのことである。プロデューサーの意図せぬ形ではありながらも、結局このチケットの扱いについてが今回の議題となった。
「IDは偽造や転売の際の追跡に利用されるだけで、入場時に本人照合を行うほど厳重ではありません」
各々会議用の長机の席に着いたところで、しとれがイベント運営に対する印象を述べる。自分たちで使っても問題なさそうとはいえ、このチケットが正規品である保証はない。だが、付箋のメッセージもあるので、乗ってみるしかない、という結論に至った。
封入されていたチケットは一枚のみ。ここで、誰が使うのかと問われれば。
「それでは、檜さん、お願いいたします」
「はい、店長の仰せのとおりに」
唯一の参加経験者ゆえに異論はない。だが――
「……?」
プロデューサーは、ゾクリと背中に不気味な視線を感じる。が、ホワイトボードが立っているのみで、そこに何ら異変はない。
***
現状、TRK事務所を取り巻く環境は様々な問題を抱えている。松塚芸能との確執はもとより、このままではアイドル業界全体が転覆しかねない。今回、しとれがサブカルティアの会場に足を運んだのは、その元凶ともいえるテレビホープに対抗するための糸口を掴むためだ。
が、しかし。
番組制作からの学生排除宣言――その直前に蛯川局長と会談し、姿を消した――ライブアイドルであり、アイドルグループ・PASTプロデューサーでもあった憐夜希氏――ファンムードとの抗争の末、表舞台で辱めを受け、そのまま消息を絶っている。
だが、手がかりは残されていた。
今回のイベントに直接参加できるのはしとれひとりとはいえ、適当に歩き回るわけにはいかない。事前にカタログベースでミーティングを重ねてきた中で、“それ”は発見されたのである。サブカルティア当日、入場したしとれは真っ先にそこへと向かっていた。
「……Cの、14……15……」
各参加サークルの配置は無作為ではない。その出展物の内容によってひとかたまりにされていた。しとれが目指しているCエリアは――映画批評や旅行記、工作改造のためのノウハウ本――いわゆる、論評と呼ばれるジャンルである。
その中に、目当てのサークルはあった。
「どうぞー、見てってくださーい」
カタログには各サークル名がカットと共に掲載されている。参加サークルは数千にも及ぶため、見つけることができたのはたまたまにすぎない。
サークル名『パラノイア』――
先月、歩が希の代理人として出逢った女性はこう名乗った。『パラノイア』の『きの子』とでも呼んで下さい――『パラノイア』という単語自体は一般語だ。偶然の一致かもしれないが、無視もできない。
売り子の女性から呼び止められる形で、しとれはそこで足を止めた。そして、希氏の足跡を求めて出展作品に目を通してみる。論評エリアに配置されているだけに、その内容は論評だ。『男女にまつわる育児と労働』『表現の自由を取り戻すまで』『セックスとドラッグと』そして『児童労働の近代史』――まるで、申し込みの時点でこの事態を予測していたかのような一冊である。だが、その本に手を伸ばしてみて気がついた。隣に陳列されているのは『ナマイキJSを洗脳アプリでわからせてやった』――いわゆるロリペド本――方向性としてはあまりに両極端なラインナップである。
「や、や、や、や、もしかして常連さん?」
指先に戸惑いの色が見られたからか、売り子の女性が話しかけてきた。年齢はしとれよりもやや上と思われる。ゆえに、ふわりとした明るい髪の色とフリルたっぷりのガーリーな装いは、むしろ若作りという印象を否めない。イベント出展の経験も豊富らしく、実に堂々としている。
「最近、テレビ業界がきな臭くなってきたじゃないですかー」
思った通り、この事態を重く見ていたのは芸能事務所だけではなかったらしい。
「……テレビホープの件、ですね」
しとれの答えに、相手は深く頷く。
「そ、そ、そ、そ。政治家擁立して踏み込むとなると……この手の規制は次々潰しにかかってくるでしょうからねぇ」
歌舞伎町クライシス――その法規制の狼煙となったのが、このサークルでも取り扱っているような子供を題材とした成人向け作品群だった。それが規制されたところで、次は性表現だけでなく暴力表現を中心としたあらゆる違法行為が――挙げ句には、合法であるはずの成人の飲酒や喫煙――しかもそれは法が成立する以前の作品の公開にも及び――この頃にはキー局三社を残して放送局も滅んでおり、あらゆるフィクションは法の規制の及ばない海外サーバへ離脱していた。
ならば、と海外とのネットを寸断しようとしたことで外交問題となり――これに乗じて萩名兵哉らによる働きかけによって、すべての規制は白紙に戻されたのである。それが、『創作暗黒時代』の終わりであり、『自己責任の時代』の始まりだった。
『創作暗黒時代』の到来によって、同人誌即売会という文化は一度潰えている。だが、表現の自由の復権と共に『サブカルティア』という形で蘇った。おかげで、こうしてナマイキJSを洗脳アプリでわからせることもできる。もちろん、フィクションの中に限ってだが。
だからこそ、その作者も同じ過ちを繰り返さないよう警戒しているのだろう。
「それで、知り合いの作家の本を置かせてもらったんですよー」
話の流れからして、このサークル本来の活動内容は“わからせる”方で、今回はこの危機を察して参加ジャンルを変えて申し込んだらしい。
そして、論評本の作者は――『この きの子』――おそらく、きっと――
「もしや、貴女は――」
目の前にいるのは、残念ながら歩が会った本人ではない。けれど、間違いなくパラノイアのきの子と名乗る女性の関係者――それを確認しようとしたところで、しとれはすぐ隣に寄ってきた男の気配に気づく。展示物の閲覧を邪魔しては良くない。なので、少し端に寄っておいた。
「お、お、お、お、良かったら見てってくださいねー」
早速その男性に声をかけるパラノイアサークル主。だが、相手は何やら迷っている。そして、意を決した。
「あ、あの……っ」
その視線は作品でもサークル側でもなく、まっすぐしとれに向けて。
「もしかして……『メイド☆スター』……」
ざわ――周囲の空気が張り詰めていく。どうやらそれは、誰もがかけたい一声だったらしい。確かに、しとれはメイド服を着用している。とはいえ、往来している参加者の中にはコスプレイヤーの姿も少なくない。この会場では目立つ理由にはならないはずだ。そう考えていたしとれだったが、ふと隣のスペースに目を落として、この状況の原因に気づく。
『メイド喫茶へいこう Vol.6』――表紙はかつてしとれが務めていたメイド喫茶『|Cheese O'clock』――煽り文は『徹底議論・メイド☆スター不在のメイド・ライブ』――この本を求めてやってきた参加者たちであれば、メイド服姿のしとれに気づかないはずがない。
「む、む、む、む……もしかして、貴女が噂の……」
パラノイアの女性もしとれの正体を察したようだ。とはいえ、彼女の言う噂というのがメイド喫茶にまつわるものとは限らない。彼女は、きの子とのつながりを持つ者なのだから。
しとれの話はまだ終わっていない。ゆえに適当にはぐらかして場を離れるわけにもいかず――どうしたものかと思案していると、メイド喫茶本の作者が勢いよく立ち上がった。
「しとれさんっ、何卒この本を受け取って下さい!」
それはまるでラブレター――さもなくば、嘆願書のようなものかもしれない。だが――急なことで少し戸惑っていたが、しとれはすぐに気を落ち着かせる。メイド喫茶の常連客であれば、その対応も難しくない。
「恐れ入ります、ご主人さま」
メイド喫茶に勤めていた頃から、この手のプレゼントには慣れている。丁寧に受け取り、会場内で無料配布されていた布製の鞄にそっとしまったが――メイド☆スターによるご主人さま発言――これに、周囲の“ご主人さま”たちの気分は静かに盛り上がっていく。
「し、しとれさん……是非とも写真を一枚……」
「後ほど広場の方にまいりますので、そちらにて」
軽い撮影ならともかく、いまこの場で一枚でも許してしまえば人集りによって通路を塞ぎかねない。しとれはやんわりと断ってみたものの、これ以上ここに留まっていてはサークルに迷惑がかかりそうだ。
ゆえに、本来の目的のために。しとれはパラノイアの冊子と改めて向き合う。
「すべて一冊ずつ、いただけますか?」
しとれもまた、同人誌を求めてやってきた一参加者として。
「わ、わ、わ、わ。これはこれはありがとうございますーっ」
今回のジャンルである論評も、従来のジャンルであるロリペドも、何らかのヒントになるかもしれない。パラノイアのサークル主が本をまとめている間に、しとれは尋ねる。
「貴女は……何者なのですか? パラノイア、とは一体……?」
その質問に、主はピクリと手を止めた。しかし、それ以上動じることはない。
「おねーさんのことは……ま、『パラノイア』の『はるも』……とでも呼んでちょー♪」
「!?」
突然口調が砕けたことにしとれは少しだけ怯んだ。が、訊くべきことは訊かねばならない。
「きの子さんとは……どのようなご関係で……?」
時間的猶予もないため、単刀直入になってしまった。それでも嫌な顔ひとつせず、はるもは笑って答えてくれる。
「ふ、ふ、ふ、ふ、きの子ちゃんとは……サークルの仲間、とでも思ってくれればいーよん」
そう言って、五冊の本を差し出した。しとれはその間に用意していた小銭でお釣りがないよう支払いを済ます。本と現金を交換したところで。
「――ま、サークルっつーより、“敗残兵の寄せ集め”って感じだけどねー」
「っ!?」
最後の最後で意味深な言葉を付け加えられたことに、しとれは完全に虚を突かれた。しかし、これ以上は教えてくれそうにない。
「ほら、コスプレ広場に行っといでー。……元々、そこが目的だったんじゃろ?」
はるもは手を振り、しとれを送り出す。目的はコスプレ広場――衣装を着ているからか、それとも、事務所としての意向を知っているからか――はるもはすでに、他の参加者の対応に追われている。憧れのメイド☆スターが『大人買い』したのを受けて、そのファンたちも積極的に物色を始めたようだ。作品が手元にあれば、今後も連絡は取れるかもしれない。しとれは一先ず、この場を後にすることにした。彼女のご主人さまたちを引き連れて。
コスプレエリアは建物の外にあり、元々そこは原っぱのような広場だった。が、今日は柵に囲まれ、その内側では様々なキャラクターの衣装に身を包んだコスプレイヤーと撮影機材を携えたカメラマンがごった返しになっている。
ただし、そこにまっすぐ向かうわけにはいかない。しとれの目的は、テレビホープの学生締め出しについて、ここの参加者たちがどのように受け止めているかを探ること。ならば、大きな影響を受けていると思われている音楽関連のエリアを無視することはできない。
何らかの意思表示をしているサークルがあれば声をかけてみようかとも思っていたが――これといって触れている者はいないようだ。これは、出展者たちの作品の多くが録音媒体であることに起因する。仮に作曲者が締め出されたところで、作曲者自身が表に出なければ、学生であることを隠して活動することはできなくもない。ここで天に唾するようなことをしても、自分のデビューを妨げるだけだ。
これは対抗勢力にはなりそうにない、としとれは結論づける。やはり、本命はこれから向かう先になりそうだ。そこにはモデルや俳優に志願する者たちが集まっている。我が身をもって表現しているため、身元を隠して活動することはできない。テレビホープを発端とした規制が進めば、夢を諦める者たちも出てくることだろう。
さて。
メイド喫茶のメイドとして、もしくは、劇場のアイドルとして、本来写真撮影は有償のサービスだ。しかし、今日のしとれはサブカルティアの一参加者として来場している。撮影自体は慣れたものだが――純粋なメイドとして被写体になるのは、しとれにとって久々のことだった。TRKに所属していると、何事にも必ずヌードがつきまとう。それについて、しとれに異存はない。頭頂を架けるヘッドドレス――メイドの魂があれば恥じることはないし、何だかんだで男性客たちは裸になった方が喜ぶ。むしろ、このままではしとれ自身さえ物足りなく感じるほどだ。
それでも。
メイド喫茶が自分を育ててくれたことには違いない――しとれは、懐かしさの中で感謝する。かつてのご主人さまたちからのフラッシュを浴びながら。
しとれは、やはり『メイド☆スター』だったらしい。二次創作ではないオリジナルのメイド服だとしても、アイドルとして輝くものを持っている。次から次へと撮影希望者が連なり、その流れは途絶える気配がない。
そのうえ。
「失礼します。わたくし、マツダ・プロダクションの佐藤と申しまして……」
スーツ姿の女性が近づいてきたのでおかしいとは思った。なるほど、確かにこのようにスカウトはやってくるらしい。うっかり名刺は受け取ってしまったが、対応に困ってしまう。
「えーと、私は――」
すでに事務所に所属していると言ってしまえば手っ取り早い。が、調査は秘密裏に行うべきだろう。ゆえに、咄嗟に、悪いとは思いながらも。
「PASTというグループに所属しておりまして……」
本来ここに、事務所に所属している人はいない。が、PAST自体がデビュー前であるため、参加条件は満たしている。
ゆえに――私はPASTの橋ノ瀬湊――二代目メイド☆スターであれば混同してくれないだろうか――そんなつもりで、しとれは後輩になりきろうとする。
だが。
「え、あ、もしかして、憐夜希の……」
スカウトの態度は一変。引きつる口元を愛想笑いで隠しながらすでに及び腰だ。
「で、では、検討だけでもしていただければと……」
佐藤と名乗った女性はそのまま速やかに場を離れていく。どうやら、希の関係者というだけで印象はすこぶる悪いようだ。『ライブハウス・ゲリラストリップ事件』――やはり、根強く尾を引いているらしい。
とはいえ、無関係の者にとっては興味津々だ。
「憐夜希と知り合いなんですか?」
カメラを構えながら、男のひとりが声をかけてくる。
「だとしたら、あの噂って……」
あの事件については本当だ。何しろ、本物の湊とあんにゃも直に目撃しているのである。
だが、カメラマンの関心は他にあった。
「ほら、『サークルクラッシャー』として、数々のサークルを潰してきたっていう」
「……え?」
それは、完全に初耳である。サークルクラッシャーとは、サークルの人間関係を掻き乱し、組織を崩壊させる者のこと。希が、サークルクラッシャー――?
「あの人、すごくモテるって話でしょ。サークル内で一番いい男を見定めては関係を持って、そしたらすぐに捨てちゃうとか。いわゆる、キャッチアンドリリースってやつですかね」
と、笑っている。無関係な他人にとっては滑稽に聞こえるのかもしれない。だが、壊されて泣いている人たちが少なからずいることだろう。そういえば、先程はるもは自分たちのことをこう言っていた。敗残兵の寄せ集め――と。まさか、『パラノイア』もまた、希によって――?
さすがに、ここで不確かなことは言えない。
「……すいません。本当は私、芸能界には興味がないだけで……」
ああ言えば相手もすぐに諦めてくれる――そのためにホラを吹いた、という体で何とか誤魔化そうとする。囲んでいたカメラマンたちはそれなりに納得してくれたようだ。
「あー……上手いですねぇ。新人担当に希さんは荷が重いでしょうし」
そう言いながら、角度を変えてシャッターを押す。ここでの撮影で、しとれは思ってもなかった情報を手に入れてしまった。サークルクラッシャーの噂が流れているくらいなのだから、このような同人イベントでは良くない印象を持っている者も多いことだろう。湊のフリをして断っていくことも難しい。
そろそろ打ち切ろうと思っていたところで、別のカメラマン男性がしとれに声をかけてきた。
「芸能界に興味ないって、ルカさんみたいですね」
「ルカ?」
初めて聞く名に、しとれは問い返す。レイヤーと会話できたのが嬉しいらしく、そのカメラマンは満面の笑顔で少し離れた人垣を指差した。
「男レイヤーなんですが、彼もスカウトを突っぱねることで有名なんですよ」
人垣ができるほどの存在感を放ちながらデビューに関心を持たないのは確かに珍しい。何か特別な訳があるのか、純粋に興味がないだけか。
「すいません、一旦こちらで打ち切らせて下さい」
会話を交わしながらもポージングだけは続けていたが、やはりその情報は気になる。打ち切られはしたものの――話を耳にしていた人たちにとって、しとれが終了する理由は明らかだ。ゆえに、それを歓迎する。もしかすると、より良い絵が撮れるかもしれないと期待して。
その人垣の中心で黒髪の戦士が大剣を構えていた。上半裸で腰から下のみに西洋甲冑をまとい、襟元にはボロボロに加工されたマフラー、とワイルドな装いだが、肉付きは男にしては細い。ただ、獲物はハリボテのようで、軽々と頭上に掲げて見せている。ウィッグか自毛かはわからないが髪は長い。まさに美剣士といった様相で、ここだけは男のレイヤーに女のカメラマン、と他所と比べて性別が逆転している。ちなみに、いきすぎた表現規制の名残で男女ともに公共の場での乳首の露出は禁止されており、男であってもニップレスを貼らねばならない。乳首の上に、男の色褪せた乳輪色のものを。いささかナンセンスではあるが、その程度のことであればいまさら気にしている者も少ない。
剣士とメイド――これは鉄板の組み合わせである。ルカ側も、歩み寄ってくるメイドが自分と合わせたいのだとすぐに察した。
「美しいお嬢さん、俺と一枚……どうかな?」
このキザっぽい言い回しは、元ネタになっているゲームキャラそのものである。これに、女子たちからは黄色い悲鳴が上がった。しとれのメイド服に特定の元ネタはない。それでも、ファンタジーモノであれば、スタンダードなメイドは誰とでも合わせられる。
しとれは撮影に応じながら、ルカの事情をそれとなく聞き出すつもりだった。しかしそこに、ズカズカと中年男性のふたり組が割り込んでくる。
「おっと、その前にちょーっと、いいかい?」
この雰囲気は、また芸能事務所のスカウトだ。これから撮影が長くなると察したのだろう。
「俺たち、とある芸能事務所のもんでさぁ」
といっても、男性アイドルに力を入れているところは多くない。ルカは出された名刺を一目で一蹴する。
「また松塚さん? もう何度も断ってんだけど」
松塚芸能といえば、男性アイドルの事務所としては最大手だ。それを袖にするのだから、本気で芸能界に関心はないのだろう。
ただ、何度も断られてきた上でのスカウトである。松塚たちも簡単に退くつもりはないらしい。
「いやいや、話だけでも聞いてくれよ」
「ホント、いまのうちに事務所に所属しとかないと大変なことになるぜ~?」
ふたり組の口調はどこまでも厭らしく、脅しの色まで孕んでいる。
「テレビホープの件は知ってるだろ?」
「あくまで、あれは第一歩なんだってさ」
それは、はるもと同じ見解。
「テレビ製作に限らず、こういうイベントへの学生の参加も難しくなるだろうよ」
「そしたら、こうやって人集めて“ごっこ遊び”なんて開催自体できなくなるだろうなァ」
楽しそうに囃し立てるスカウトマンたちとは裏腹に、コスプレイヤーもカメラマンも顔色が悪い。やはり、ここにいる者たちにとって、蛯川局長の方針は歓迎できないようだ。
「つまり、そういう“変な”カッコすんにも、プロとして事務所の後ろ盾が必要ってこと」
「ルカ君くらいになれば、身の振り方も……わかってるよねぇ?」
ここは、コスプレを愛する者たちの集まりだ。その中心で、ふたりは何度も挑発的な発言を繰り返している。明らかに、彼らの態度は相手に頼み事をしている者のそれではない。その不快感が――しとれの記憶を呼び覚ます。それで、そっと自分の手荷物からスマホを取り出した。その間も、勧誘という名の脅迫は止まらない。
「キミさぁ、せっかく名前も売れてんのに、コスプレできる場所がなくなるなんて残念だろ?」
「っつーか、松塚に歯向かったアイドルがどーなったか……知ってるかい?」
スマホを操作していたしとれの指がふと止まる。未兎のことを言っているのであれば――事によっては黙っていられない。
そして、その男たちは地雷の真ん中を踏み抜いた。
「場末のストリップ劇場で裸踊りだってよぉ!」
ゲラゲラと笑う男たちに、しとれの怒りが心頭に発する。開いていた右手を振りかぶるが――
「なるほど、そりゃあ大変だね」
その気配を察して、ルカがかばうように割って入る。それでしとれも我に返り、冷静に感情を内に収めた。そもそも話し相手はルカである。その対応は、本人に任せた方が良い。
「事務所に所属してなきゃコスもできないなんて、不便な世の中になりそうだ」
そう言って、ルカはスカウトマンたちに手を差し伸べる。これに男たちはニヤリと笑った。
「そーゆーこと。長いものには巻かれとけって」
名刺を差し出すと、ルカは今度こそ受け取る。だが、その刹那――グチャリと手の内に握り潰された。その所業に、最も驚いたのはスカウトマンたち。一方、ルカは清々しく言い放つ。
「――だとしても、アンタんとこはゴメンだね」
これには、ワーッと喝采が上がった。完全にコケにされ、今度はスカウトマンたちの怒りが心頭に発する。
「て、てめぇ……下手に出てりゃいい気になりやがって……」
グッ――スカウトマンは締め上げるようにルカのマフラーに掴みかかった。その剣幕に、女性たちから悲鳴が上がる。このままでは暴力事件になりかねない。
だが、ここでようやく――しとれの確認が取れた。
ピロリン――それは、携帯端末のシャッター音。
「オイ、ナニ勝手に撮って――」
怒鳴るふたりにむけて、しとれは負けじと指を差す。
「その人たち、指名手配犯の金山勝蔵と花木竜麻です!」
当時の事務所名は吉座――TRKプロデューサーの名刺を改造し、その連絡先を使って暗躍していた。彼らに対抗する際に、メンバーの間で写真は共有されている。少し前のことだし解決済みと認識していたため、画像を探すのに手間取ってしまった。
これにはさすがに、スカウトマンたちも白を切れない。フルネームで指摘するほどだ。よほどの確信と情報を持っていると考えて間違いない。
「どけッ!」
金山たちは逃げようとするも、混雑を極めるコスプレエリアともなれば容易ではない。
「あいつら指名手配犯だってよ!」
「逃がすな! 捕まえろ!」
男性カメラマンたちは果敢に行く手を遮っていく。
「間違いないぞ、そいつ、金山勝蔵だ!」
しとれの指摘に実際に調べてみる者も続出し、もはや言い逃れはできそうにない。あっという間に指名手配犯たちは取り押さえられた。
「てッ、てめェら、こんなことしてタダで済むと思うなよッ!?」
金山・花木両名は地べたに這いつくばりながら呻く。しかし、ここには彼らの敵しかいない。
「できるもんならやってみやがれ!」
「俺たちゃ規制なんかに屈しねぇよ!」
やはり、アイドルの味方はここにいる――しとれは確かな手応えを感じていた。が、いまは状況が良くない。ここから先はイベント運営と警察の領域である。
「私たちは、場を離れた方がよろしいかと」
「お、お……そうか」
しとれは裏社会の人間だ。できる限り警察とは関わるべきではない。あとはスタッフに任せることにして、しとれは素早く人混みに紛れていく。それにルカも続くことにした。彼もまた、好んで事情徴収に付き合う趣味はないらしい。
詳しい話は、帰りのタクシーにて――敷地内の乗り場であれば、コスプレのまま自宅との間を往復することができる。騒ぎが大きくなれば、会場の出入り自体が難しくなるし、警察にルカを引き渡す前にTRKとして協力を仰いでおきたい。
「これからお連れいたしますので……はい、はい……よろしくお願いいたします」
事務所に断りを入れて、しとれは通話を切った。その様子を見て、ルカは――つまりこの女性は、個人ではなく組織として自分に接触している――思いのほか大きな事態に巻き込まれてしまったのだと察した。
「ホント……アンタら一体、何なんだよ」
着替える間さえなく車両に詰め込まれた剣士は問う。
「……松塚芸能の逆鱗に触れたアイドルがどうなったご存知ですか?」
「キミの口から聞かせてほしいね」
松塚に対して良くない感情を持つ者から。
「……絶えず監視をつけられ、関係者を巻き込んで圧力をかけられております」
「まったく、そいつは大変だ」
このあたりのことも、黒い噂としてネット上で出回っている。だからこそ、ルカの声色は軽くない。
「で、俺もそうなると?」
「わかりません」
しとれは視線を落としながら答える。
「SAQS・吉坂氏の件で、松塚側は社会的信用を毀損しました。それに加えて、指名手配犯との関係が明らかになれば――」
「古竹未兎も救われるかもしれない、と」
未兎の件は積極的にネットに触れる物の間ではすでに知れ渡っていた。ゆえに、決して自分だけの身を案じてくれているのではない、とルカもまた理解している。
「キミと古竹未兎ってどういう関係? ただのファン、ってわけじゃなさそうだけど」
タクシードライバーもおり、ここは決してプライベートスペースではない。ゆえにしとれは言葉を選ぶ。
「未兎さまは我々にとって……大切な方ですので」
「……そっか、なるほど、ね」
そして、この手の中にあるものこそ希望――ルカは、じっと自分の握り拳を見つめていた。そして、それ以上何も訊くことはない。訊く必要はなかった。車両が新歌舞伎町内に入っていったことから何となく事情は察していたし――タクシーから降りたところで確信する。目の前の建物を見上げてみれば、しとれの正体は疑いようもないほど明らかだ。
「キミって……見かけによらないね」
国内のストリップ劇場は他にない。つまり、ここに未兎は所属しており、このメイドもまた――ルカはそのように理解した。
予告なくこのような場所に連れてきてしまったことにしとれは少々気後れするが、ルカに浮ついている様子はない。女子からの人気も高く、それなりに遊び慣れているようだ。
幸いまだ時間も早く、夕方の部の準備も始まっていない。まだ来客のいないエントランスを通り、関係者用通路を通って控室へ。中からは、きゃいのきゃいのと楽しげな女のコたちの声が聞こえてくる。嫌な予感はしながらも、しとれは丁寧に戸を敲いた。
「店長、先程ご連絡しましたルカさまです」
しずしずと扉を開いてみたが――申し訳なさそうに無言のため息をつく。
「ひのっきー、お疲れー」
「あれ? Pちんがゆってたちんぽってその人?」
桃は上半裸、紫希に至っては全裸である。
ちゃんと、車から来ることは事前に伝えておいたのに――いや、むしろ伝えたのは失敗だったか、としとれは反省していた。
「これから男のコに協力してもらうのなら、ちゃーんとカワユイカッコでおもてなししなきゃね❤」
操は眼鏡にウィッグまで着けたうえに全裸――完全なるステージ仕様である。だが、肝心のルカの反応は薄い。
「へぇ……さすがは堂々としたもんだ」
むしろ、ルカの方が堂々としている。あの古竹未兎さえ“ステージ衣装”で出迎えているというのに。
「す、すいません……やっぱり普通の服の方が良かったですか……?」
恥部を放り出していることが申し訳なくなってきたのか、未兎は胸と股間を両腕で隠している。
「いえいえお構いなく。けど……噂は本当だったんですねー」
その声に悪い印象がなかったので、未兎もまた両手を下ろした。
「ええ、ここで唄えてアタシは幸せだし……見どころあるコもいるしね」
ちらり、と応接スペースを見ると、パーティションの陰からひょこっと歩が顔を出す。
「あ、オーナー、もういいみたいだよ」
どうやら、先ずは女のコからサービスするつもりだったらしい。プロデューサーとしては止めたかったが、こういうとき、強く言えないのはいつものことである。ルカにとりわけ喜んでいる様子もないが、未兎と普通に接しているので気分を害することもなかったらしい。それを確認したから、歩はプロデューサーに声をかけた。
それに応じて、プロジェクト責任者は席を立つ。
だが、しかし。
「…………ッ!!」
応接の間から現れ、その来客と対面した瞬間、プロデューサーは驚愕して固まる。そして、慌てて名刺を取り出した。
「私は、TRKというアイドルグループのプロデューサーを務めている者でして」
芸能界に興味はないと豪語するルカだが、それを断ることはない。
「これはご丁寧にどうも。えーと、松塚芸能の件で協力する、ってことでしたっけ」
しかし、プロデューサーが答えた言葉に皆は耳を疑う。
「いえ、是非ともこの劇場の舞台に立っていただけませんでしょうか!」
「!?」
これに最も驚いたのは、連れてきたしとれだった。
「店長!? まさか男性のストリッパーを……ッ!?」
誰もが一様に驚いているが、むしろ桃は嬉しそうだ。
「えっ、メンズもオッケーなん!?」
もちろん、日本中探せば男性によるそのような催しも一部で行われている。
「うふふ、おねーさんは嬉しいかなー♪」
朱美は同性も抱くが、レズではない。男女混合でハグり合えると期待に胸を膨らませている。
だが、ざわつく室内で、状況を正しく理解しているメンバーがいた。
「ナニゆってんの。その人、“ちんぽ生えてない”じゃん」
ぎょっとして、メンバーたちは紫希の方を振り向く。そんな中で、プロデューサーは静かにルカに問いかけた。
「……貴女は……女性ですね」
これに、ルカはニヤリと笑む。
「お、よくわかったね」
薄暗いニップレスを剥がすと、その下から現れたのは綺麗な薄桃色。乳首もまた、授乳に向けてしっかりと発達したものだった。
ルカはまだプロデューサーからの最初の問いに答えていない。だが、目の前で乳首――いや、“乳房”を露出している時点で改めて確認する必要もないだろう。
「ふふっ、初めて声をかけてもらえたよ。女のコとして、女のコのための事務所から、ね」
唖然とする仲間たちに囲まれて、ルカはクスクスと笑っていた。その笑顔は可愛らしく、女のコであることは疑いようもない。
***
コスネーム・ルカ――その本名は村月李冴――れっきとした女性である。
彼女は幼少の頃とあるアニメのキャラクターに憧れ、コスプレにも興じていた。しかし――そのキャラクターは妖艶なセクシーレディ。自分も大人になればそのようなプロポーションになれると信じていたが――現実は残酷だった。
様々な豊胸トレーニングを調べて回っていたものの、どれもこれも効果がない。そんな中で、李冴はとある情報を入手した。身体は視線を浴びるほどに育つと。そこに、自身のコスプレ趣味が重なった。自分の厚みなき胸を活かし、堂々と胸を人前に晒すことのできる上半裸の男装――しかし、彼女の男装は完璧すぎた。本気で男だと思われ、松塚を始めとして様々な事務所から何度も声をかけられたらしい。
とはいえ、この姿はあくまで胸を育てるためのもの。男として活躍することが目的ではない。ほとほとうんざりしていたところで、あのスカウトである。松塚に対する敵対意思は完全に固まった。
吉座のふたりはあのまま警察に突き出され、現在取り調べを受けている。身元は明かさず提出された名刺から容疑者本人の指紋も検出された。先日の吉坂稔の件に続いて、今度は指名手配犯の雇用――もはや裏社会との関与は疑いようもない。所属アイドルたちは活動自粛を余儀なくされ――おそらく、他の事務所への移籍を検討していることだろう。
もはや、未兎に制裁を加えるどころか、自社が社会的制裁を受けかねない。サブカルティアから数日後、打ち合わせに向かう道すがら霞からその後のことを聞く。
「丘薙さんのエージェントからの報告によると、古竹さんの撮影の際に監視の目はなかったそうです」
昨日、未兎をあえて新歌舞伎町の外へ連れ出し、公園にて撮影を行った。もちろん、正式に許可を取り、着衣で。これまでであれば、街から離れた時点で松塚関係者の追跡が始まっていた。が、今回はそれがなかったらしい。
「つまり、それは……!」
「残念ですね」
霞は楽しそうにニヤリと口の端を歪める。
「尻尾を掴み、さらに追い打ちをかけようと思っていたのですが」
この状況で未兎に圧力をかけていることが知られれば、松塚芸能は再起不能になっていたことだろう。とはいえ、プロデューサーにそこまでする意思はない。少なくとも、未兎を含めたメンバーたちの営業活動が普通に行えるようになれば充分だ。
「では、先ずは音源の配信から、ですかね」
未兎は何より自分の歌を発したがっている。これまで松塚に忖度していた配信サイト勢とて、もう恐れるものはない。
「はい、写真集と共に進めておりますが――」
霞もまた、営業制限が解かれるのを待ち望んでいたのだろう。これから行うミーティングも、それを前提として進められるはずだ。が、しかし。
「……あ」
偶然通りがかった喫茶店の前――窓際のカウンター席に座り、カップ片手に寛いでいる李冴とプロデューサーたちは目が合った。しかし、そこから視線を少し落とせば目に入るのはふたつの乳首。さすがにパンツは穿いているが、上半裸の時点でかなりの場違い感だ。
「また、あのコ……ッ!」
霞は早足で正面口に向かうが、その隙に李冴は裏口の方から逃げていく。その際に、パンッと両手を顔の前で合わせて。プロデューサーに取り持っておいてほしい、ということなのだろう。そのウィンクはアイドルらしくとても可愛い。コスプレとして男装こそすれども、李冴にとってそれはあくまで演技のひとつ。同性に性的執着もなければ、異性になりたいという性的憧憬もない。
このユニットで、女のコたちが裸になりたがる理由は様々だ。そして李冴の動機は中でも厄介な部類に入る。人々から見られることで胸の育成を――男であっても、成人が上半裸でうろついている姿はあまりない。そこに、膨らんだ乳首が鎮座していればなおさらである。
そして、視線を集めたがる操とルミノと意気投合するのはすぐ後のことであり――露出狂三人娘によるユニット『Trident Flasher』――まるで弾道ミサイルのように街中で脱ぎ散らかす彼女たちをどうやって止めれば良いものか、日々頭を悩ませつつも、それを止めることができないのがプロデューサーであった。
李冴の姿が人混みに消えたところで、霞はズカズカと戻ってくる。苛立っている視線を携えて。それに、申し訳無さそうに頭を下げるプロデューサー。この対応に、諦めたようにため息をつく。
「……社長に期待した私が愚かでした」
霞とて、もうひとつの扉の存在を把握していなかったわけではない。とはいえ、ふたりで両側から塞げば簡単に捕獲できたはずだ。けれど、この男は女のコにどこまでも甘い。
「何かあれば、また謝りに行きますので……」
「謝って済まなかったらどうするのですッ!?」
街中で部下から叱られる責任者というのも対外的なイメージが良くないため、霞は渋々矛を収める。
「まったく、来月には“大イベント”が控えているというのに……」
「大イベント? ……まさか――」
問いかけて、プロデューサーも思い出した。それは、未兎の加入を検討していた時点で立ち上げられていたもの。ただし、松塚芸能の出方次第として、ペンディングとしていたはずだ。が、霞により秘密裏に進められていたのである。
「――映画館での、ライブビューイング……『TRK FIRST-VIEWING』……っ!」
未兎の動員力は既存メンバーの比ではない。それを収容するには、いまの箱では小さすぎる。かといって、プロデューサーにも未兎にも、ひとりだけ街の外でコンサートを催す意思はない。この新歌舞伎町で最大客席を誇るのはその中央にそびえ立つ映画館・トーキョーシネマ新歌舞伎町――一〇のスクリーンから成り、その中でも最大となる第七スクリーンひとつでも、その座席数は五〇〇――ざっと計算していつもの五倍。さらには他の九つのホールに対しても同時上映――すべて合わせれば集客総数は二〇〇〇にも及ぶ。文字通り、桁違いだ。
「前売り券は本日より販売を開始しましたが、すでに売り切れとなっているようです」
ストリップゆえに成人限定――それでも、ドームを埋めるほどの未兎の復活ライブともなれば即日完売も不思議ではない。
「ゲストも多数依頼しており、週末には打ち合わせも入っておりますので」
相変わらず霞はプロデューサーの予定を勝手に入れてしまっている。だが、それに頼っているところも否めない。
「ありがとうございます。必ずや成功させましょう」
「ええ、必ず」
これまで集めてきた光たち――その輝きを人々に伝えるため、彼はこれまで尽力してきた。きっとそのライブはこれまでの集大成となるだろう。プロデューサーも、霞も、そして、メンバーの誰もが、その成功を疑っていない。
だが――
***
その女は、男の足元に跪く。そして、恭しく。甲斐々々しく。
「ん、ん、ん……」
頭を懸命に揺する女の髪を、男は撫でる。だが、急に。
「――んッ!?」
強い力の込められた腕に女は掴まれた。薄暗い茅へと鼻先を埋め込むように。
「ん、ん……ん……」
少し辛そうに目尻が歪む。それでも女は抵抗することなく、大きな手に委ねられていた。
そして男は嬉しそうに問う。
「欲しかったのだろう? 全部飲んだか?」
強く閉ざされた女の瞳は決して嬉しそうには見えない。が、顔を離すと目元を緩め、ぱっと大きく口を開いた後、笑顔を作る。
「ありがとう……ございました……」
だが、少し疲れたらしい。苦しそうに目を伏せつつ――それでも女は礼を述べる。そんな女を満足そうに見下ろしながら、男は自分の身なりを整えていた。
「では、頼むぞ。うまくやれるな? ……水裏」
そう呼ばれた女は笑顔を作ることはない。ただ、淡々と。
「……はい、ご意向のままに……局長」
もうここで、彼が労ってくれることはない。ゆえに、彼女は立ち上がる。欲するものを“取り戻す”には、やるしかない。
ゆえにここで、女が男に求める言葉もない。