⑦
宜しくお願いします。
長屋。俺はお前をはっきり覚えているよ。正直お前が、あの日あの打席でバックスクリーンにでも一発かましてくれていたなら、俺はこれ程引きずることもなかったかもしれない。時は流れて、今お前と対峙している。残像ではなくて、現実として。勝手に運命だと思っているよ。
俺は一度帽子を脱いで、唾の裏に書いていた執念という言葉を見つめた。字は薄くなっているが、はっきりと大きく書かれた字を目に焼き付けた。改めて帽子を被りホームベースに向かって、視線を伸ばしていく。
意地でも抑えてやるよ。過去を取り返す。そして俺は、新しい未来へと向かうんだ。
「プレイボール」女性が拳を突き上げて大きな声を上げると、長屋はバッターボックスに立ちマウンドに強い視線を向けてきた。
挑発にも受け取れるその目を反らして、俺は右手に白球を握ったまま、爺さんの出すサインに目を向けた。
サインの話はさっき会話でしていた。初心者ではないよな。長い人生の中、何処かで経験したんだろう。まだ終わっていないけど、感謝するよ。ありがとう。
爺さんの股の下に覗かせたサインに頷くと、俺は振り被り、一球目から全力で投げた。
カキーン!
金属音が球場に響くと、白球はバックネットに勢いよく当たり、下へ落ちた。
「ファール」女性が両手を上げて示した。
長屋は強振の後、バッターボックスを離れて、肩を二度三度上下していた。リラックスしようとしているのか。
長屋、良いスイングしやがる。白球がグローブに戻ってきて、俺は夜空を見上げた。
ここへ来た時思ったことがあった。そう、あの星星は皆の応援のようだと。星一つ一つと目を合わせているうちに、心臓のバクつきは少し収まってきた。励まされているようだ。長屋を抑える。俺は怯まないよ。二球目も真っ直ぐでいく。
強気な姿勢でサインを覗くと、爺さんは真っ直ぐのサインを出してこなかった。長屋のスイングにびびったのか。体型を見てみろ、当時の引き締まった身体など何処にも見当たらない。俺よりも草臥れた身体だ。抑えられるに決まっている。
爺さんのサインに首を何度振っても真っ直ぐのサインは出てこない。スライダーよりも真っ直ぐに自信があるんだ。向かっていきたい。目で訴え続けていると、爺さんはやむ無くか、真っ直ぐのサインを出してくれた。
俺はにやけて、爺さんみたいに口の端から息を勢いよく漏らした。
長屋が構え、俺は振り被り腕を振って投げる。
白球はアウトローに外れ、危うく後ろにいくところを、爺さんは辛うじてミットに納めた。
「ピッチャー力んでるぞー」
下戸の斉藤の高い声に、他のランナーは手を叩いたり、「長屋、コンパクトにいけー」などと、マジでサヨナラを決めたい気持ちが伝わってくる。
プレートを少し離れて、俺は後ろに身体を向けた。あの位置から、俺はナインを応援していた。九回裏からマウンドに上がった木村に対して、俺は何故なのだと疑問符を投げていた。応援する気持ちと、何故だどうしてだと思う疑問符を木村に投げ掛けているうちに、俺だったら抑えられるという気持ちも湧いてきていた。そんな気持ちであったからこそ、木村を心から応援できなかったんだ。
今思えば、あいつはあいつで戦っていた。俺も今戦っている。
自分自身と。
咳払いをして、長屋はどっしりと構えた。体型は崩れても、あの頃を彷彿とさせる雰囲気は顕在していた。
爺さんのサインに頷き、三球目を投げた。
長屋の強振してきたバットの先を逃げるようにして、キャッチャーミットに吸い込まれた。
ワンボールツーストライク。俺が右手を狐の形にして前に突き出すと、「ナイスボール」と言って、爺さんは俺のグローブに向けて白球を投げてくれた。
これで長屋に迷いが出る筈だ。真っ直ぐか、スライダーか。試合前に一人と会話をしたが、当時米崎高校の俺の印象は、真っ直ぐが速いということ。
スライダーは頭になかったかもしれない。
四球目。爺さんのサインに従うが見逃された。これで、ツーストライクツーボールだ。
満塁の場面。スリーボールにすれば致命的な局面にもなる。
抑える。執念で抑えてやる。
帽子の唾に触れ、軽く帽子を被り直し、顔を半分隠すようにグローブを出した。爺さんのサインと俺の意思は一発で合致した。
長屋の睨んでくる表情に屈することなく、俺は身体を弓のように反らし投球した。
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