⑥
前回の続き。
電話はあれこれ十分くらいしていた。長く感じたが、この爺さんは悪い人には見えなかった。最初は疑う目で見てしまってもいた。話をしていくうちに、親近感も湧いてきた。今も、俺のために何かしてくれようとしている。
どうやら誰かを呼んだようだ。野球に関係する人だろうか。推測していると、爺さんは俺に話しかけてくれて、農業の話や最近の岩高の話もしてくれた。校章や校歌が変わったことは知っていた。高校野球のファンであることも教えてくれた。
話が丁度途切れたところで、突然パッと球場が明るくなった。背を向けると、外野の大型照明に光が灯っていた。目を細めて外野席の緑色の芝生とスタンド席に目をやる。この球場は、あの時のままだったのだ。黄色のポールも、水色の平たい座席も。俺はあの一塁側のスタンドで部員たちと応援していたんだ。懐かしい気持ちで胸が熱くなる。
「お疲れさん、ビックリしたよ。こんな時間に電話してくるんだから」
二人の男性が三塁側のベンチから出て来て、そのうちの一人の男が爺さんに話しかけていた。
「おお、ありがとう。長屋は?」
「斎藤が車で迎えにいったよ。あいつが下戸で良かったよ。でなければ、遠くて呼べなかった」
爺さんはにこやかに頷いていた。
「あの、照明は」俺が来た男に訊く。
「今つけてきたんだ。ナイターやるなら、必要だろう。君がピッチャーか」
「はい」
四十代くらいの男は、俺の返事に相好を崩した。
年代が似ていそうだ。この人たち、一体誰だ。もしかして俺のことを知っているのか。
ワンワン!
犬の鳴き声に皆反応し、その方を向いた。男二人と一人の若い女性が、またベンチから出てきたところだった。二人の男は話ながら、ピッチャーマウンドに向かって歩いてくる。もう一人の若い女性は子犬を連れていて、ベンチ付近のネットに紐を結び、その犬の頭を撫でていた。
二人のうち一人の男は、マウンドにやってくると笑顔で「こんばんは」と言ってきて、皆それに鸚鵡返しに応えた。もう一人の男は、会釈をしただけだ。体格は大きく、片手にバットを持参していた。
「この男、分かるか?」
爺さんは嬉しそうな表情をして、無口な男に親指を立てて俺に訊いてきた。
体格の良い男と目を合わせる。ごつくて無表情。直接会ったことはないが、誰かは何となく推測できた。
「米崎高校の四番」
「ビンゴ!」
側にいた四十代のメガネを掛けた男が、酒臭い臭いを口から出して言った。
こんな夜になるなんて、想像もしていなかった。ここにいる人たちは、もしかして。
さっきまで子犬を撫でていた女性もマウンドにやってくると、爺さんは掌をパンと合わせ、輪になった六人に向けて俺が話したことを説明した。
「けじめか。だったら俺たちは必要かもな」
メガネを掛けた四十代の男が言うと、ポケットから取り出し、それを被った。それに倣い爺さんと女性以外の男たちも帽子を被った。
どうして。その帽子一つ一つを見て、俺は唖然とした。口が半開きになり言葉が出てこない。米崎高校の校章が、四つ並んでいたのだ。
心に眠っていたあの時の思いが、どくどくと湧き出てくる。血液に乗り身体中を駆け巡る。手が微かに震え、怒りにも似た感情が出てくるのをこらえた。
「残念ながら、君のことは知らないんだ。ただ俺たちは、あの試合に出場したメンバーだ」
「俺はベンチだったけどな」斎藤が両手を天秤のようにして舌を出した。周囲が笑い、俺は少しだけ気が散れた。
「夜も遅い。そろそろ始めようかの」
爺さんの一言に俺以外の男たちは笑顔で返事した。各々話し合いした後、それぞれのポジションについていく。一塁から三塁までのランナー、そして四番長屋はネクストバッターサークルで素振りを始めた。知らない間に、爺さんの姿は消えていた。
「坂木さん、ワンアウト満塁からで良いのかい」
肩をびくつかせ三塁側に首を向けると、酒臭い男が俺に訊いてきた。俺は大きく二度頷いて「どうして俺の名前を知っているのですか」と、普段より大きい声になって訊き返した。
「岩高で真っ直ぐ一番速かったの、誰だったか今思い出したんだ。けじめ、果たそうな」
男の笑顔に俺も笑顔で応えた。意外だ。米崎高校にまで自分の力を知っていた人がいたなんて。速球が一番早いのは俺だというのを認めてくれていたことに、白い歯を隠せなかった。岩高代表としても、やってやるという気持ちが高ぶってきた。
帽子を被り、グローブをはめると掠れた声が聞こえた。
「ボール持ってきたぞ」
ベンチから爺さんと女性が出てきた。爺さんは何と、キャッチャーの防具をつけていた。左手にミットをはめて拳で強く叩いたりしながら、ゆっくりとマウンドに向かってくる。女性の方は片手に籠を持っていた。その中に、十個ぐらい白球が入っていた。バックネット直ぐ側の地べたに置いて、ホームベースの後ろに徐に立った。
「声だして行こー!」
「ウェーイ!」
若い女性の声高に、ランナーとしてベースに立っている三人がそれぞれ声を上げた。球場内に響く声。夜だからか、木霊しているようにも俺の耳には聞こえてきていた。
爺さんは一瞬その反応ににやけていたが、歩を進め俺の前に来る頃には引き締まった表情になっていた。俺がここへ来た時、爺さんの声に驚いて投げ損ねた白球を片手に持っていた。
グローブを開くと、爺さんは白球をポンと乗せた。それから少し会話をした。
最後にお互い頷いて、ホームベースの方に爺さんは戻っていく。その背中は、頼もしく俺の目に映った。
じゃあ。と小さな声の後に、「ワンアウト満塁で、バッター長屋さん。ヒット一本でサヨナラ。内野ゴロはゲッツー、インフィールドフライもありで、それでいい?」
女性はセンターにいる人でも聞こえるくらい大きな声で、集まった人たちに訊いてきた。
「ツーアウトになったらどうする?」女性の側で聞いていた長屋が反応した。
「一塁の斎藤、下戸が打席だな」ミットを被った爺さんが周囲に聞こえる声量で言うと、ランナーの三人は可笑しそうにしていた。
女性の前でしゃがむ爺さん。ミットを下に向けたかと思うと、来いと言わんばかりに構えてきた。
投球練習。確り取れるのかな。不安半分、俺は振りかぶって、力半分で真っ直ぐを投げてみた。
白球はミットに見事収まる。間髪いれず、力のあるボールを俺に返球してきた。
慌てて捕球する俺。マスク越しから、爺さんがにやけているのが分かる。心配無用ってことか。
数球投げていくうちに、身体も少し温まってきた。投げやすいマウンドだな。傾斜が良い。角度のついた力のあるボールが投げられそうだ。
更に爺さんのフィールディングも良い。元野球部なのではと思うほどだ。柔道をしていたからか、どっしりと構えてくれる。条件は揃った。今夜を機に、俺は変わる。
「よし、そろそろいいか?」
「はい、宜しくお願いします」爺さんの声に俺は応えると、呼応するように、「よろしくー」と言う声が周りからも聞こえてきた。
青春時代に戻った感覚が、胸に広がっていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。