②
宜しくお願いします。
静まり返っていたグラウンドに響く男の声。
突然の事に驚き力み、俺は投球を回避しようと左足で踏ん張ろうとした。歯を食い縛り全力で投げようとしていたのを、体勢を整えようとするための力みに自然に切り替わっていた。結局はバランスを崩し、マウンドを下るようにして前のめりにぶっ倒れた。
ってえ。険しい顔を先に向けると、ホームベースからは程遠い位置に白球は落ちていた。
「そこで何してるんだ」
同じ男の声だ。さっきより近いところから聞こえる。落ち着いたトーンだが、声は掠れていた。聞こえた方へ顔を振ってみると、焦げ茶色のグラウンドに黒いサンダルが近付いてきていた。男は俺の側で立ち止まった。見下ろしているのだろうか。僅かな沈黙。
こいつ、ごつい足の指をしているな。何しに来たんだ。邪魔しやがって。
男の汚い指を一瞬睨んで、俺は膝を付き、ゆっくりと立ち上がった。男は俺の動作を、目で追ってきているように感じた。右手の掌に、湿った土が付着していた。そういえば、夕方に小雨が降ったのを思い出した。真っ白いユニホームにも、膝や胸の辺りに茶色く色を塗ったように付いていた。
俺はグローブを外し脇に挟んで、掌同士を擦り合わせ土を払った。その動作を黙って見ている男。時間をかけてゆっくり行うことで、俺は気分を害された心の苛立ちを冷静にしていこうとした。
小さく息を吐く。俺は脱帽し、男に軽く頭を下げ顔を合わせた。どこのどいつだと言わんばかりの、不思議な顔を向けていた。濃い緑色のジャンパーを着て髪を七三分けにしていた。白髪も結構混じっている。還暦間近か、見たままに解釈した。
「勝手にグラウンドに入ってしまい、申し訳ありません」改めて頭を下げる。
「こんな夜遅くに、一人で何をしている」
喉に痰でも絡んでいるような声だ。いきなりやってきたお前に、何故話さないといけないんだ。嘘も方便。
「暇なんで、適当に遊んでました」
「夜十時を過ぎているんだぞ。さっさと家へ帰らんか」
俺は高校生か。そもそもこの男は誰だ。あなたこそ、こんな時間に何をしていると訊きたいくらいだ。面倒臭いことになったな。
俺は脇に挟んだグローブを手に持ち変えた。
「もう少ししたら帰ります。すみません」
「だったら、お前がいなくなるまでワシもここにいる」
「いえあの、大丈夫なので気にしないでください」
「そうはいかん」
話を切るように言って、男はポケットから銀色の懐中時計を取り出して、これ見よがしに俺に向けてきた。
あなたにとっては夜遅くでも、俺にとってはまだ今日なんだ。また今度というわけにもいかない。
男から目を反らし俺は視線を落とした。目を瞑り、あの時を振り返る。駄目だ。この雰囲気ではリアルに思い出せない。形だけの出来事になってしまう。
黙って俺の顔を見ていたのだろうか。ハッとして視線を上げると、男は小さく笑みを見せてきた。
「お前、岩高のOBか?」
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