⑩
最終回
しまった。力の入った白球はホームベース付近でバウンドして、爺さんのミットをすり抜けてしまった。
ワイルドビッチ。
俺がホームベースに向かい走るのと、三塁ランナーがホームベースに向かうのはほぼ同時だった。
後ろに反らした白球はバックネット側に置いていた籠に当たり止まっていた。爺さんはそれを手に取り、素早いフィールディングで、振り向き様にホームベースに向かう俺に投げてきた。とても還暦とは思えなかった。
俺は白球をグローブにおさめると直ぐ様ダイブして、ホームインしてきたランナーの足にタッチをした。
「セーフ、セーフだろ」ホームベースを踏む男はセーフを連呼した。俺は立ち上がって、グローブに入った白球を女性に見せた。
「アウト! ゲームセット」
女性の甲高い声に唖然とするランナー。口を半開きに不安顔の爺さんの表情が緩む。同じように俺もホッと胸を撫で下ろした。
肩で息をしていると、爺さんがマスクを頭に乗せて、近付いてきた。
「すみません。力が入ってしまって……」
「いや、良い球だったぞい。コントロールはこまったものじゃが、魂の籠った一球を投じてくれた。ミットにおさめられなくて、こっちも悪かったわい」
二人照れ臭そうにしていると、ランナー三人が集まり、「なーに二人で謝ってるだよ」
「そうそう、ナイスゲーム」笑顔で二人を囲んでくれた。
「坂木さんは、球が速いのは有名だったけど、コントロールが良くないのも有名でしたね」斎藤がバットを長屋に返してから言った。
「そうじゃったな」爺さんはにこやかに答えた。
そうか、爺さんは高校野球のファンだった。俺のことも知っていたというのか。
「坂木、お前さんの球を受けられたのは、ワシとしても今宵はサプライズだったわい」
「いつ俺が坂木だということを?」
「キャッチャーとして投球練習をした時じゃ。岩高の試合は、バックネット裏からも見たことがあった。良いストレートを投げるなと思っていたんじゃが、コントロールに難があるというのも、実はそれで知っていた」
そんな昔のことを記憶していたというのか。あの日から数十年が経ち、岩高だけでなく、この地区からは沢山の投手がいた筈なのに。
「この地域で、あれだけ真っ直ぐが速かったのは、坂木ぐらいだろう」酒臭い男が隣で俺の目を見て言ってきた。
「速いといっても、当時恐らく百四十五位だったし、何よりコントロールが良くないのは、三年掛かっても、エースには敵わなかった」
「良くも悪くも、その個性がワシの心にずっと残っていたんじゃな」
俺以外の人たちがこぞって首を縦に振っていた。
「最後のシーン。当時のピッチャーは固まって動けませんでしたよね」
あの試合に振れてきたのは、審判をしていた若い女性だった。
そう、二人のランナーが次々とホームインし、劇的な幕切れを食らってしまった。あのコントロールの良い木村が何故。最初カーブが抜けたと思っていたが、実はさっきの俺と同じで、真っ直ぐが転で違う方へと投げてしまい、はっとした時には白球はキャッチャーの背後にあった。
「偶然とはいえ、あなたは懸命に走り、三塁走者をさした」酒臭い男がまた俺に向けて言う。
「俺の力で抑えたというより、爺さんの力があってアウトに漕ぎ着けることが出来ました。大事な時にへまをする。そんなやつです」
頭を垂らし視線を落とすと、「それがチームって奴じゃないですか」と後頭部に向かって太い声が聞こえた。頭を上げ聞こえた方に目を向けると、長屋がバットを片手に肩に乗せ、真顔で見ていた。
「そう、坂木さんは走った。あそこで動けたからこそ、アウトに繋がったのよ」女性の声。いつの間にか子犬を連れていた。
女性は子犬を抱き上げ、話を続けた。「家のお父さんはね、あの試合のことを今でも話すことがあるの。お酒を普段より多く飲んだ時とかね。あの暴投までは最悪許す。でも二人返したらいけなかったよ。坂木より俺を選んでくれた監督やチームに申し訳ない気持ちがある。あの試合勝っていれば、岩高はベストエイト以上が最高だったって」
思わず俺は天を仰いだ。あいつもあいつで、今の今まで心に残っていたのか。
「木村さんは責任感じてたと思うよ。でもチームが後一点取っていたら、またゲームは変わっていただろうし。木村さんのせいではない。相手チームの俺がいうのもあれだけどな」
酒臭い男は腰に手を当てて、チームについて自分なりの思いを解いた。
「これで、二人ともつけられたのじゃないのか?」
爺さんは俺と木村の娘それぞれに目を向けてきた。
娘は頷いて「お父さんに良い報告が出来ます。坂木さんが今日、けじめをつけてくれたよって」
「そうだな」酒臭い男が一言いうと、「そろそろ帰るよ、斎藤」と、長屋が言った。
周囲の皆は、こぞって俺の方を見てきた。斎藤もまだ帰る気はなさそうに見えた。
そう、今夜は俺がけじめつけたいなんてところから、思いがけない夜になった。過去を引きずり、あの時に対してこうだったら、ああだったらと不満を漏らし、日々後悔の雨を浴びたかのようなダサい暮らしをしていた。そんな俺と似た男がもう一人いて、そいつのせいにもしていた。
「今日はありがとう」
俺は皆に向けて頭を下げてから、首を木村の娘の方に向けた。あいつに伝えてくれと前置きして、俺は小さく息を吐いた。
「過去など引きずらなくてもいい。どうか未来に向かって生きてってくれ。俺はあいつを信じることは出来なかった。今夜を通して、あいつの未来は過去を引きずらない日々になることを願うよ」
「ありがとうございます」娘は素直に頭を下げた。
「爺さん」
視線を向けると、にやけて頭をくしゃくしゃと掻いていた。そして、口の端から息を吐きながら笑いだした。
「ありがとう。けじめつけられました。今、未来、向かうべき場所で、また頑張ります。あの日々のように」
爺さんは何度か頷いて、「良かった」と一言口にした。
皆ぞろぞろとベンチへと向かい歩き出す。斎藤が長屋とそそくさと先にベンチ裏へと歩いていった。
酒臭い男が、「そういや爺さん、何でまた此処へきたんだい。普段の散歩で来てたのか? もう歳なんだから、夜遅くの散歩はやめた方が……」
「歳ではないぞよ。まだ還暦前じゃ」それから爺さんは振り返り、親指を俺に指した。
「坂木の大きな声が聞こえたからじゃよ」そう言い、犬の散歩の続きをするのか、犬に引っ張られ先へ先へと行ってしまった。それに続いて女性も球場を後にしていった。
そういえばこの球場に来た時に、つい大声で喜びを夜空に向かって叫んだことを思い出した。何事かと思いやって来てくれたことが、今夜をこれほどまでに熱い出来事にしてくれたのだと思うと改めて驚いてしまう。
「坂木、お前の真っ直ぐは思わぬ方向に行くこともあるよな」
酒臭い男が歩きながら呟くように言ってきた。
俺はまあそうだろうと、ただ首を縦に振った。
「その思わぬ方向が、こうした結果を生むこともある。だから、先ずは信じろ。周りも、それとお前自身も」
あの日の木村のピンチも、今日の俺の投球も、そう、俺はどれだけ信じることが出来ていたか分からなかった。爺さんに対しても、良い感覚で投球していたが、信頼関係を確り結べたのは、もしかしたら最後の一球だけだったかもしれない。
「信じることを、恐れずに生きていきます」
俺がそう言うと、酒臭い男の横顔は表情を崩して笑った。酒臭い匂いが、微かに俺の鼻を擽った。
球場を出ると間もなく照明は暗転した。夜空には幾千の星と満月が照らしていた。
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