①
誰もいないってのに、足音を殺して颯爽と立ちたかった場所へと急ぐ。もう少しで、あの日叶えたかったことを達成することが出来る。歳を取ったからか、はたまた高揚してきたからか、息切れが矢鱈激しくなってきた。
走る速度を緩めて、土の盛り上がりを一歩一歩噛み締めるように踏んでいく。俺にとっては、ここが聖地だったんだ。
俺は白いプレートの上で立ち止まり、胸に手を充てた。そして、口を尖らせて大きく深呼吸してみた。冷たい空気が喉を湿らす。高ぶった気持ちが少しだけ落ち着いてきた。
良い景色だな。たまんないや。
鼻を人差し指ですすっていると、自然とにやけてきた。気分上々で足を開き、夜空に向かって拳を突き上げた。
「アッハッハッハ、とうとう夢が叶ったぞー!」
点々と輝く星に向かって叫んだ。
洗濯仕立てのユニホームの袖を手でさすってから、ポケットに入れていた白球を握り抜き取った。左手にはめているグローブに投げる度に、乾いた音が周囲に響く。
三百六十度。マウンドから下がり見渡してみる。誰もいる気配はない。三塁側、一塁側にもベンチが並んでいるだけだ。客席も同様だ。人一人としていない。
何気なく腕時計に目をやる。十時七分を指していた。
目も大分慣れてきた。再びマウンドに上がり、白いプレートを靴の裏で擦る。
この場に立とうと夢見て、随分と時は流れた。東京に就職して失敗し、実家に帰って来た。県内で就職するも、数ヵ月から数年で退職し仕事は長続きしなかった。そうこうしているうちに、近場での仕事が無くなり、県外へと行かなくてはならない状況になってしまった。
いつまた、ここへ戻ってくるかは分からない。ならばせめて、過去に抱いた夢を叶えておきたい。テレビで野球中継を見るたびに、思い出していた。あの時何も起こらずに、このマウンドに立てていたら、俺のその後は変わっていたかもしれない。
時は随分流れたが、漸く達成出来ることになった。残念ながら試合ではない。目を瞑ると、あの日スタンドから見つめた光景が浮かんでくる。生徒たちの熱い応援、スコアは二対一。九回裏ワンアウト満塁。米崎高校の四番打者が、ネクストバッターサークルで素振りを二回して、バッターボックスへと歩いてくる。ヘルメットを軽く浮かせて被り直し、肩の力を抜いて腰を若干落とし構える。
真夏の炎天下。太陽はギラついていた。
俺は帽子を脱いで空を見上げてみた。太陽ではなくて満月が照らしていた。ピッチャーマウンドを照らしてくれる照明にも思えた。その周りには星が幾つか見える。生徒たちの応援だと受け止めた。
執念と書かれた帽子の裏を見つめ、帽子を被った。バッターボックスには誰もいない。キャッチャーももちろんいない。あの日を思い出すことで、残像ではあるが浮かんでくる。この球場のピッチャーマウンドから見る光景は、始めてのことだ。憧れの場所。ハートマークが大小してるかの如く心臓は高鳴る。高鳴る。高鳴る。気持ちを抑えるため胸に掌を充てて、再び深呼吸をした。
力んで暴投なんてしねえからな。
そう言い聞かせて、グローブから白球を握り、ストレートの握りをした。
それは、振り被り左足を上げ、身体を弓のように反らし球の縫い目にかかった手の指先から、離れるか離れないかの時だった。
「うおーい、そこで何してる!」