8/ 聖と、翠と、「クラスメイト」 1
背中に視線を、感じている。
今日、この『憩い』に出勤をしてきてからずっと。
それよりもっと、前から。日中、学校に──教室にいるあいだもずっと、それと同じ視線が向けられ続けているのを、翠は自覚していた。
「大丈夫? 翠。顔、疲れてるけど。元気?」
「……どうでしょう。あんまり自信、ないです」
その、圧を感じている。
注がれる視線。眼差しに。
それは店内、座席の片隅から。
オーナーが気まぐれに新メニューへと追加した、マンゴーパフェの置かれたテーブルから、じっと翠へと向けられている。
「あれ、昨日のコンビニの子だよね。翠のこと呼び止めたちっちゃい子と、一緒にいた」
それは、少女。
訝しげに。怒っているような、疑っているような──そんなけっして好意的でない目線を、その少女は崩さない。
赤毛。ポニーテール。やや吊り上がった眦の、気の強そうな眼をしたその面立ちは、聖の言うとおりにあの夜、翠の袖を引いた少女とともにいた人物のそれに、ほかならなかった。
「あれ、ウチの制服じゃん。翠の同級生だったんだ」
そう、そしてそれ以上に──その身を包む服装が物語る。
と、いうか。とっくに翠は思い知っている。
自分の観察眼のなさとか、記憶力の曖昧さとか。
──ひと目見て、「気付けよ」という話。
「……同級生というか。完全にクラスメイトなんです」
「は?」
まだ翠自身、馴染みきれていない学級である。それでもその姿は、見覚えがあって当たり前のものだった。
ひと目見て、気付くべき相手だった。
いかに翠が、慣れない環境に身を置いていたとはいえ。
そしてその少女自身が頻繁といっていい割合で、学校を欠席することが多い人物であったとはいえ──……。
同じ、教室。クラスで学ぶ間柄だったのだから。
繰り返す。「気づけよ」。そのひと言に、尽きる。
「彼女。わたしと──同じクラスです」
ようやくひと口、みずみずしいマンゴーをひと切れ、スプーンでアイスクリームとともにぱくりと口に運んだ彼女は、そう。
ポニーテールを揺らした、彩咲 葉月というその少女は、友人とまではいかずとも、知人の域をまだけっして脱しない程度の交流しかなかったにせよ、間違いなく翠にとって、同じ教室に学ぶという双方の立場だけであれば級友と呼べる互いの立場であり、関係性であった。
同級生で、クラスメイトで。一応知っていて。でも、友人と呼ぶには遠い。
級友、という表現のほかに一番近しい言葉を、翠は生憎と思い至らない。
「──まさかぁ」
「その、まさかなんですよ」
まさか。
小鳥を癒すその瞬間を目撃した少女が、……その姉が、クラスメイトだっただなんて。
誰より思いもよらなかったのは、ほかの誰でもなく、翠自身であった。
「朝から、ずっと。目を離してくれないんです」
* * *
時刻は、今朝というその時間にまで遡る。
その相手をはじめて認識したのは、なにか些細なきっかけがあったとか、瞬間があったわけではない。
「雪村さん」
「──? ……えっ?」
なにも、身構えて飾り立てることなく。
なにか、これだという瞬間を窺うでもなく。
その相手は、鞄を置いて着席をした翠の真正面に、静かに佇む。
無論、知らぬ顔ではなかった。──ふたつの意味で見覚えのある、見たことのある、見知った顔。
それはひとつには、クラスメイトとして。
「──昨日の。えっと」
そしてもうひとつは。昨晩、起こった出来事の、対象として。
自然、その成分を含んだ反応が翠の顔色には表われ、「そういう」声が喉の奥から漏れる。
つまりは相手がその行為をするにあたって想像をした対象が自分であると、……語るに、落ちる。
「やっぱり。昨日の、雪村さんだったんだ」
ポニーテールの少女。よく顔立ちの似た、幼い女の子を連れた──彼女の連れたその女の子が、昨日の夜、翠を呼び止めた。
彼女は確かに、その場にいた。
翠も、そこにいた。
「まだ覚えてないんだ。……彩咲。彩咲、葉月。──昨日、うちの妹が呼び止めたの、雪村さんでしょ」
開け放たれた教室の窓から、朝の風が吹き抜けてくる。
彩咲さんは、胸元のリボンタイをしていない。翠のよく知る聖せんぱいが暑がって、よくそうしているのと同じに、第一ボタンをはずしている。はずされたリボンは自身の、右の髪を押さえた手の、その手首にそれは巻かれ結ばれて、彼女の赤毛とともに風に揺れる。
怜悧で、鋭いその視線が頭上から。探るように、翠のことを見下ろしている。
「悪いけど。あたしも、見たよ。雪村さんの光ってるところ」
それでいて言葉は、遠慮もけん制もない、核心をまっすぐに突いてくる。
彼女の妹も──翠の袖を引いた少女も言っていた。翠の、光っている、ところ。
それは考えるまでもなく、翠にとって身に覚えのありすぎることであり。
どきりと、鼓動が跳ね上がる。誰にも見られていないと思ったのに。もっと注意して、辺りを確認するんだった。
別に、どうしてもという強固な意志のもと、絶対に知られてはいけないと隠しているわけではない。しかしどう説明したらいいのか、あるいは──……。
認めるか、とぼけるか。混乱とともに翠は逡巡する。
「見間違いなんかじゃないよね。だってあたしも、妹も見てるんだから」
その逡巡の間を、ひと足先に制された。
ポニーテールの少女、……彩咲さんは前のめりに、翠の机に掌を置くと、顔を近づけて囁くように言う。
「あれはなに」
「あ……、その、……っ」
「妹が、きれいだったってあたしに言うんだ。あれが見間違いや幻だなんて言わせない。妹を──嘘つきとは、言わせないからね」
だから聞かせて。教えてよ。あれがなんなのか。
「クラスで誰かと話してるとこ、見たことないから。時間はたっぷりあるでしょ」
一見失礼にも思える、ふつうであれば言いにくかろうこともずばずばと、彼女は言ってくる。
「あなたの時間、あたしに頂戴」
これは、中途半端には逃げられない──その瞳に、なにがそこまでさせるのかと思える強い眼差しを見て、翠は息を呑んだ。
どうしよう。
どうしたら、正解なんだろう?
* * *
「聖」
アルバイトの、帰り道。ひととおりの事情を伝えてくれて、先に帰っていてくれと告げた翠と別れて、聖はひとりだった。
隠さなきゃ、いけないことなのかな。やっぱり基本的には、隠さなきゃいけないことなんだろうな。私のときのようなことがレアケースで。
翠はクラスメイトの子、……彩咲さんだっけか。彼女と今日これから、どうするのかな。
私のときみたいに認めて、教えてくれるのかな。それともとぼけて、隠すのかな。翠のことだからどちらにせよ悩みそうだ。
そんなことを思い、歩いていた。
「涼斗じゃん。そっか、予備校帰り?」
そうして、幼なじみと出くわした。
そうか、そういう時間か──スマートフォンの画面を立ち上げると、たしかに想像通りの時刻がそこに表示される。
「聖も、バイト帰りだろ」
「うん、まーね。お互い多忙ですなー」
涼斗は、文芸部の活動……小説と、予備校通いとで。
聖自身も、ふたつのアルバイトのかけもちで。
学生としてはなかなか忙しい日々を送っていると思う。聖としてはその日々が楽しくあり、やり甲斐もありで、気に入っているのだけれど。
幼い頃ほど、この幼なじみと全く同じ時間を過ごすことが多くはなくなったのも事実である。だからこうして、ばったり帰り道にて出くわすこともある。
常に一緒なら、それはないことだ。
「りょーとはさ、受験するんだよね。……どう? 調子は」
「調子って。べつに、ふつうだよ」
いつもとなにも変わらない。無感動な表情のまま、ぽつりと彼は返してくる。
「父さんや母さんの望む完ぺきな成績じゃないってことはわかってる。俺は、ふつうだから」
彼の言った、その二度目の「ふつう」が、一度目とは異なる意味合いであることを聖は察していた。そこに、……彼自身の自嘲が大分に含まれている。
彼の得意分野と、苦手分野を聖も、付き合いが長ければ長いぶんだけ、よく知っていたから。
作家を夢見る彼はその志望のとおりに、文系科目が極めて得意だ。それこそ見据えるその将来は、彼にとって天職なのだろうな、と思う。
だけれど、彼の望みにその技能が合致しているとして。
彼に「望まれている」未来とそれは些か合致しない。それも、知っている。
「医学部、受けるの」
「──……どう、かな」
彼の表情が陰るのを承知で、会話の自然さから聖は、軽く、そう問うた。
そう、彼の両親の職業と。
ひとり息子であるという彼の立場から──彼の望むと望むまいとに関わらず、その選択は常につきまとうことだった。
夢を諦めないと、追い続けると誓ってくれた彼を知りながら同時に、聖は彼のそんな難しい立場を理解する。そして応援したくなる。
「私はさ、夢がないけど。やりたいこともなくて、追えないけどさ。追い続ける涼斗のことは、好きだよ」
うらやましくって。
こういうやつが身近にいるんだって、誇らしくって。
面と向かって、言葉には出せないけれど──かっこいいと、思う。
彼が自分自身の夢を追い続けると言ってくれて、嬉しかった。嬉しかったんだ。
家族の期待を裏切れず、文系と異なり苦手分野の理数系教科を捨てず受験勉強にいそしむ彼は、それでも聖にとってそういう尊敬の対象だった。
「すごいよ。すごいと思う」
聖の向けた言葉にしかし、涼斗は無言で頬を掻く。
すごくなんかない、どっちつかずなだけだ──こころのなかでひょっとしたら、そのように彼は否定をしていたのかもしれない。
「……きちんと大学に行けば、それにふさわしい点数をとっていれば。父さんたちもひとまず大きな文句はないかな、──って。それだけ」
遅れて、切れ切れにそう呟くように発するばかりだった。
彼の両親の厳しさは、聖も知っている。
小学生の頃。百点満点でないからと、試験結果ひとつをとっても、どれほど学年で上位であっても、叱られている彼を見ていた。
中学に入っても。高校生になってからも、それは変わっていない。
医師になるのだから、それは生命を扱う職業なのだからと、完ぺきを求める両親のもとに彼は生まれた子だった。完ぺきが当然の世界で、彼は生きていくことを求められている。
だから誰かに褒められれば、この場合は聖がそうしたように──賞賛を受ければ、それが些細な、身構える必要のない程度のものであっても彼の反応はぎこちなくなる。
誇らしく思える彼について、聖が歯がゆく思う僅かな瑕疵がそれだった。
賞賛を、受け慣れていない。
賞賛の受け止め方がわからない。
完ぺきが喜ばれるのではなく、当たり前でなければならない。
彼は、そう在るべく育てられてきたし、そう在ろうとする以外の身の置き方を知らない。しかし人間という存在がこの年齢ともなれば完ぺきなどそうそう達成し続けられるものでもないとわかってもいる。
「──聖?」
そんな矛盾を、少年は抱えている。
否、きっと矛盾しているのは自分だって一緒だ。……聖は思う。
彼の抱えているものを寂しく思う資格なんてない。
私だって、同じだ。切り替えているようでいて、まだ心のどこかで切り替わっていない自分がいる。煮え切らぬ、矛盾をしている。
もう、野球ができないことはわかっている。そういう打ち込むべきなにかを、追えないことは。
一度すっぱり、諦めたことだ。
そう、諦めた──あのときはっきりと、諦めたのだ。
なのに時折思う。ノイズのように、現れる。そういう矛盾がある。
怪我がなければもっとやれたんじゃないか。やりようは、あったのではないか。
いや、もともとついていくのがやっとだったじゃないか。
そんな噛み合わない、相反しては打消しあう感情を未だ、消しきれずにいる。
諦めたのに、だ。
あれが自分の夢だったのではないか。
諦めたんだろう。諦めたんじゃないか。そんな、自分自身の心の内側からの波状攻撃が、時折聖自身へと訪れる。
ふとした瞬間にやってくるその両端の幻影を追いながら、生まれたもやもやを振り払うようにアルバイトに精を出し、前を向き進む妹たち、家族と離れ独り暮らしを過ごしている──……。
「私は、見てるよ。見てるから、涼斗のことを」
だから似たもの同士、彼のことを見守っているのだ。彼の、傍で。
不意に足を止めて、鞄を握る涼斗の手にそっと、触れて。振り返った彼にただ、視線を送る。
聖が願うのは、ささやかなこと。このくらいは許されるだろうと、思う祈り。
彼にどうか、諦めがやってこないことを。
そして、そんな彼を傍で、見守っていけたなら。
聖には今、夢がない。だからせめて、夢へと折れずに進んでいけるよう、少年に対し祈りを向けたかった。
そう、願っていたかった。
それだけで、よかったのだ。
(つづく)
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