7/ 聖と、翠と、雨模様 2
降りしきる雨の中を、相合傘がふたつ、行く。
ひとつは、聖の紅い傘。傍らに、涼斗をともに。
そしてもう一方は──翠がお邪魔させてもらっている。氷雨の、ビニール傘。
三人の「せんぱい」とともに、翠は雨道を歩いていく。
「それにしても。こやまんはどーせずぶ濡れだろうなーって思ってたけど。まさか雪村ちゃんまで同じクチだったとはねえ」
ふたつの背中を見遣りつつ、せんぱいの──氷雨の声に、翠は目線を移す。
頬に当てるのは、彼女が貸してくれたタオル地のハンカチ。生憎と、もともと自分で持っていたものはそうするまでもなく、全身ずぶ濡れになったのにあわせるように、ぐしょぐしょになってしまった。
「いや、その。なるべく降ってくる前に帰ろうとは思ってたんですけど。間に合わなくって」
「んで、こやまんと一緒に雨宿りしてたわけかー」
降られるつもりだったら、持ってきていた。と、思う。
正直、ふたりが来てくれて助かった。
「でも、よくわかりましたね。わたしのことは想像してなかったと思いますけど、涼斗せんぱいのこと。よく、あそこにいたって」
「うん? ああ、そりゃあね。だって、せっちゃんだし」
「?」
聖せんぱい、だから? ……とは?
「だって、付き合い長いから、あのふたり。幼稚園からの付き合いだもん。こやまんの通ってる予備校も知ってるし、そりゃどの道を通って帰るかくらい、予想もつくよ」
うちは、それについてきただけ。
せんぱいは、ふたりの背中を眺めながら、苦笑を見せる。
そういうものか、と。不思議な納得を感じて、翠もまたその表情に返すように微笑を浮かべ、小さく頷きを向けた。
背中を向けた彼と彼女は、男女という差はあれ、それぞれの身長の面ではほぼ同じふたりだった。
赤い傘がときどき、聖の手の中でくるくると回る。少しだけ離れているから、ここからはふたりがどんな会話をしているのか、仔細までは聞き取れない。
ただ二度、三度。時折、聖のなんだか愉快そうな声が漏れ聞こえてくる。
一瞬、ちらりと見えた涼斗の横顔も、濡れ鼠のままではあったけれどその不快より、幼なじみとのやりとりの悪くない気分のほうが勝っているようだった。
その光景は、素直に微笑ましい。
そんな思考が、どうやら翠の表情にも出てしまっていたらしい。
「どうかした?」
「──あ、はい。仲良しなんだなって、ふたりとも。お互いの付き合いが長いから、長いぶんだけ。その積み重ねがあって」
そういう相手が、生憎と翠にはいない。
男の子にしろ、女の子にしろ。
隣にいるのが当たり前の、少なくとも周りから見ていてもそう思える、そんな相手が──だからこそ、見ていて思う。
「なんだか、お似合いですね。あのふたり」
ほんとうに、深く長く繋がってきたことがわかる。……と、そう評することが既に偉そうな視点であることを承知で、翠には思えたのだ。
「ああ、やっぱそう思う?」
「氷雨せんぱい?」
翠の漏らしたその感想を聞いたとき、氷雨は先ほどとはまた、ほんの少し違う色の苦笑を、その表情に浮かべてみせた。
「とっとと付き合ってしまえー、って。雪村ちゃんも、思う?」
「えっ?」
そして向けられたのは、想像力の範疇を超えた問い。
付き合う、って。確かに、後輩という立場に対してふさわしくもなく、お似合いだ、なんて言ったのは翠のほうだけれど。
さすがにそれは飛躍しすぎではないだろうか?
「いやいや。まー、みんな思ってることだから」
「みんな?」
そ、みんな。
うちもそうだし、中学の頃からの、あのふたりを知ってる、それなり以上に仲のいい連中はみーんな。
歩いていくふたりの背中にもう一度苦笑を投げかけて、せんぱいは言う。
「なかなかじれったくて、面倒だよね。両片想いってやつはさ」
◆ ◆ ◆
恋のひとつでも、あなたはすればいいのよ。
──ココが不意に向けたその言葉は、レイにとって突拍子もないといっていいくらいに、まるきり想定も、受け取る準備もしていなかったもので。
「……え」
一瞬、反応が止まる。湖畔のバルコニーの、手すりに乗ったココはなにも自分はおかしなことなど言っていないとばかりに、じっとこちらを眺め続けている。
「尤も、あなたの生活の中でその対象となり得るのはとても、とても限られた相手しかいないでしょうけれど」
「それって、どういう──……、」
「だって。そうでしょう」
こんなひっそりとした別荘に引きこもって。身体的ハンディはたしかに、あるのだろうけれど。それでも。
「なにか熱烈な感情でも芽生えれば、閑散と独り、こんなキツネ一匹を相手にとりとめもない話をばかり、することはなくなるでしょう」
レイ自身より遥かに年輪を重ねたところの古ギツネである彼女は、時たまこういう風に、レイを突き放すような──あるいは諭すようなことを、投げかけてくる。
恋なんて、したことがない。
そういう相手を思い描いたことさえ。
悠久の、長い年月を生きてきたこのキツネにも、そういった淡い経験が、レイの想像もできないような出来事がかつて、あったのだろうか?
◆ ◆ ◆
「……なんだか、しっくりこない」
そこまでにノートパソコンのキーボードを叩いて入力してきた文章を読み返して、どうにも嚙み合っていない感覚ばかりが胸のあたりに揺蕩っている。
自分自身の選んだ言い回し。自分自身の中から出てきて、自分自身が執筆した表現の数々なのに、「なんか違う」。
それがなんだか、気持ち悪くて。すっきりしなくて。椅子の背もたれに体重を預けて、天を仰ぐ。
もともと、そういうやりとり自体は翠自身、レイとココの間にやらせるつもりではいた。レイの周りの人間関係の薄さと、それに対するココの指摘──今この部分だけでなく、少しずつ何度も塗り重ねて深みを出していくべき要素だとして、考え書いてきたのである。
だけど根本的に、だれかと付き合ったことなんてない翠である。
作中で言えばレイの心境にはなれても、ココの言葉の意図や、彼女の深い部分にある感性をそれらしい、間違いのない投影など、できるはずもなかった。
なにしろ作中におけるこのキツネは人間などよりずっとずっと長く生きていて、そのぶん経験も豊富で。翠やレイの知らない、体験したこともない甘く淡い出来事も、何度も重ねてきたのであろうから。
「どうしよう」
帰ってきて、シャワーを浴びて。冴さんとの夕食を済ませてから、こうしてパソコンを開いて、執筆をはじめたのだけれど。
その、登場人物と作者との間のズレを、翠は今感じてしまっている。
嚙み合ってない……自分が咀嚼しきれていないものを文面に起こそうとしているのがわかって、もやもやする。
自室の勉強机。深い息とともに背中を更に預けた椅子の背が、ぎしりと鳴る。
恋。付き合う、か。
友だちと呼べる友だちすら、未だうまくつくれない自分にはなんだか、すごく遠くにあるものに思える。
「翠ー」
と、物思いに耽りつつあった。そこに、居間のほうから、保護者である冴さんの声が翠を呼ぶ。
「冴さん? なんですか?」
自衛官が仕事である冴さんは仕事柄、家を空けることが多い。たまたま、今日は早く帰ってきて、家にいる。一緒に夕飯の冷しゃぶを食べて──軽く晩酌をそのあと、リビングでしていたはずなのだけれど。
開け放した部屋の扉からそちらに向かい、声をかける。
ほどなく、もう一度彼女の声が返ってくる。
「いいや、あのさー。雨止んだしさー。……アイス、食べたくないー?」
元手とお駄賃、出すから。買ってきてよ。
時計はまだ、夜の七時を少しまわった程度。このくらいの時間なら未成年とはいえ、任せても危険はないだろうという、保護者としてのそれは判断なのだろう。
「いいですよ」
お駄賃、というほんの数百円、数十円程度のその響きに釣られたわけではない。
季節柄、もうすぐエアコンの涼しさが欲しくなってくるような、そんな時期だ。夜長にアイスというのもなかなかに魅力的に思えて、椅子から翠は腰をあげる。
「できたらハーゲンダッツがいいなー。イチゴー」
それに。こういうとき、大人が財源でいてくれたほうが、選択肢が豪勢になるものだ。
ハーゲンダッツ。素敵だよね。高いけど。
見慣れた、小さなカップのアイスクリームを脳裏に描きながら、翠は振り向きざまにパソコンを閉じた。
行き先は──最短の、コンビニでいいか。
* * *
「あれ、翠?」
そうして向かったコンビニには、よく見知った先客がいた。
……なんだか行くところにせんぱいが待ち受けている、そんな偶然の重なる日だな、と思う。
「聖せんぱい」
タンクトップに、ホットパンツだけという、ほんとうにご近所を出歩く程度のお手軽な服装。ショートヘアのせんぱいがアイスクリームのクーラーへと向き合ったまま、こちらに気付き手を振っている。
「ひょっとして、せんぱいもアイスですか?」
「うん、そー。あ、ひょっとして翠も?」
お手軽衣装という点では、こちらも似たようなものだ。
膝下丈のゆったりとしたスカート、Tシャツ。サンダル。踵を鳴らしつつ、横長のクーラーの前で、せんぱいの隣に並ぶ。
「だいじょーぶ? 昼間あんなびしょ濡れになって。アイスまで食べて身体冷やしちゃわない?」
ガラスケースの扉をスライドさせて開きつつ、せんぱいはちょっとだけ意地悪げに、表情と声とをつくって言う。皮肉屋さんを、このときだけはせんぱいは気取っている。もちろん本来はそんな性質の持ち主ではないというのに。
「平気です。もうすっかり乾きましたから」
シャワーも浴びて。すっかりあたたまった。──そもそも、何時間も前の話なんだから。わかっているから翠も、わざと口を尖らせたように言って返す。
せんぱいが手に取るのは、最中のアイス。シンプルで、安いけれどしっかり中に挟まれているのが濃厚な、バニラのアイスクリームになっている定番商品だ。
「翠は? なに買うの?」
「冴さんに頼まれたもので。ハーゲンダッツがいい、って言ってましたけど」
保護者から渡された千円札を指先に挟んで見せながら、アイスクリームクーラーをのぞき込む。
クッキーサンド。ソーダアイス。チョコミントもある──冴さんには、ハーゲンダッツを買っていくとして。
どれにしようかな。
そうやって、悩んで。考えて。選ぼうとした。
「──はい?」
身につけた服の裾を、なにかが引っ張っている。その感触に、気付くまでは。
アイスのことしか正直、頭になかったのだ。
「……翠?」
その相手に、聖せんぱいも気付いていた。
翠が振り返り見たそこにいた、小さな影。
茶色の髪の、短いポニーテール。
「えっと……え?」
どうみても、小学生。見覚えはない。見ず知らずの女の子が、翠の洋服をその指先で引いている。
ちらと目を移せば更にその向こう側に、少し離れて、よく似た顔立ちの、──こちらは赤毛の、翠や、聖と同年代ほどの──長いポニーテールを揺らした少女が、おそらくは妹であろうその小学生の様子を見つめている。
少女の姉と思しきそちらには、どこか見覚えがある。どこかで、いつか──。
その組み合わせを、交互に見比べる。
いったい、なに。このうえなく、困惑をしながら。
「お姉ちゃん、光ってたよね」
「え」
次の言葉に、息を呑む。
「雨の中、光ってた。見間違いなんかじゃない」
それは紛れもなく、今日。
昼間、ありすぎるくらいに身に覚えのあるその光景。
言われればすぐに思い当たる、自らの行動だ。
「お姉ちゃん。いったいなに。──魔法使いなの?」
魔法使い。
小学生にとって精いっぱいの想像力の発露だったのだろう、少女は翠をそう表現した。
なにもそれは、間違ってはいない。
雨曇りの空の下。泣き出した雨粒たちがぽつり、ぽつりとその激しさの足音を近づけてゆく中。彼女が目にしたものは、すべて事実であったから。
小鳥を癒す翠の姿を、その女の子はきっと目撃した。
そのちからの輝きを、目にしたに違いなかった。
(つづく)
ご意見・ご感想お待ちしております。