6/ 聖と、翠と、雨模様 1
第六話です。今回は翠と、聖の幼なじみ・涼斗のお話。
なにも、食事処『憩い』だけが聖にとって勤労にいそしむ、たったひとつのアルバイト先だというわけではない。
店の、すぐ傍。『憩い』の脇に続く長い石段を上がったところにある、叔父夫婦の宮司を務める神社──柊宮神社。
必要に応じて、そこで聖は、白と赤の巫女装束に袖を通す。
それはほんとうに、叔父夫婦にとって人手が必要なときでもあるし、一方で彼らがひとり日本に残された姪を案じて、その平穏無事を確認するため、また聖自身も同様に報告をするためにその業務に都合をあわせるということもある。
「──なんか、曇ってきたな」
今日も、そんな日のひとつだった。言い出したのは、どちらからだったか。
白と赤のツートンカラー。巫女服には二の腕のあたりにすき間があって、風がときどき吹き抜けると心地いい。なにしろ、肉体労働。季節はまだ暑さが本格的になるより少し前だけれど、真夏はこういったちょっとした涼しさがないと、参ってしまう。
そんな、梅雨入り前の空の、雲の広がり始めた様子を、聖は横髪のひと房に結んだ、紅い紐の小さな鈴の髪飾りを鳴らして見上げる。
「雨、降るかも」
その髪飾りは、神社を手伝うとはじめて言ったとき、叔母さんが贈ってくれたものだ。
普段使いの髪留めと比べると大きくて、確かな重みをそこに感じさせる。巫女装束だからこそ似合うんだろうな、という、そんな本格的なつくりのものだ。
叔父夫婦には子どもがいない。よかったらつけて、と差し出されたときは手伝いひとつくらいでと大げさにも思ったけれど、それだけ聖の申し出を喜んでくれたのかもしれない──……。
竹ぼうきの、掃除の手を止めて、雲の色の薄暗さに目をひそめる。
もうすぐバイトは終わり。そのタイミングで、氷雨が休日のスイーツバイキングに誘いに、この神社まで迎えにきてくれることになっている。
「今日。涼斗のやつ、予備校だっけ」
そして脳裏に描くのは、幼なじみのこと。
何度言っても「コンビニで買えばいい」と自説を曲げない、折りたたみにしろビニール傘にしろ、なんにしろ傘を持ち歩く習慣のない、そのくせ結局面倒がって買わずにずぶぬれになった着の身着のままで走って帰る──そういう面倒な、少年のことだった。
* * *
雲行きの怪しくなってきた空を見上げて、夕飯の買い物帰りの途をゆく足取りが、知らず早くなっていた。
生憎と、傘は持ってきていない。てっきり、いらない天気だと思っていた。
はやく、帰ろう。
そうやって帰路を急ぐ翠の、その道すがらである。
売地、と赤文字の描かれた立て看板と、紐の渡された柵とが目立つ空き地を通りかかったときだった。
隣家のブロック塀に、ひょいと軽業でもするように向こう側から飛び上がってきた一匹の猫と、翠は目が合った。
「あっ」
──と、いうか。ほぼマウス・トゥ・マウスというくらいすぐ眼前で、突然すぎて。思わず翠は声をあげてしまった──そしてどうやら、予想だにしない距離に、予想だにしない相手を眼前に突き出されたのは猫の側も同じであったらしい。
猫は咥えていた「それ」を取り落とし、泡を食った鳴き声をあげて、そのまま一目散に逃げていった。
猫の取り落とした「それ」が、翠の足許に、転がった。
「え。……スズメ?」
それはまだ、生きている。
首筋から、噛みつかれたその傷口の出血を流している、一羽のスズメ。
その頬を地面にこするようにしながら、しかし首から上を持ち上げんと。しかしその力なく、羽ばたくこともできず、傷ついたそのスズメは地面にもがく。
それは、まだ生きている命だ。
「えっと。……っ」
本来ならばきっと、そのまま消えゆく命だった。
猫に襲われ、逃れられなかったスズメは自然のなりゆきに任せるならばそのまま息絶えるか、それほどの重傷ではなかったとしても、飛べないままならば別の猫か、それとも他の要因で永くはなかっただろう。
「……ごめんなさいっ」
誰にともなくぼそりと「謝った」のは、翠の中の罪悪感によるもの。
まさに具体的に誰に対して、ではなく。自然だとか、神様だとか、自分のモラルだとか、そういういろんな複雑なものに向けての、「ごめんなさい」。
周囲をきょろきょろと見まわし、思わず両掌にスズメを載せ、持ち上げた翠はつまり、その摂理に逆らったことになる。
翠自身、己の能力のことはわかっていた。だから、身内の軽いけがなんかであればともかく──こういったことにみだりに使うべきでもないと、自覚もしていた。
でも、だからといって。自覚していても抑えられないものというのはある。
これはもう、性分だ。それもまた、自覚できる。
ああ。これは、ララのときと同じだ。あのときも、放っておけなかった。
聖と出会った夜のこと。子猫の傷を癒したときのことを思い出しながら、両手に小鳥を載せ、翠は小走りに駆け出す。
ひとまずどこか、人目につかないところに。私服のワンピースが、ばさばさと風にたなびく。
この子を癒すのだと、治療してやるのだと、この時点で翠は決めていた。
* * *
閉店中の、個人商店の軒先に駆け込んだとき、既に涼斗の全身は降りしきる夕立の豪雨に打たれて、びっしょりと濡れ鼠になっていた。
シャツも、ズボンも。なにもかもぐしょぐしょ。幸い鞄は防水だし、しっかり口の閉じるやつだから、予備校の参考書やら、テキストやらは中で悲惨なことになってはいないだろうけれども。
傘を持ち歩かないから、やられた。
一向に止む気配のない雨脚を見上げながら、どうしたものかと、背後で冷たく閉ざされたシャッターに体重を預けて途方に暮れる。
結局のところ、強引に突っ切っていくしかないのだけれど。
涼斗はそういう思考をするタイプの人間だった。
ほかの人間を、彼は待つことができる。
しかし物事や事象を、じっと待つのを彼は不得意としていた。
ずぶ濡れになっても──既になっている、──とっとと帰って、拭けばいい。着替えればいい。そういう妙な合理性があるのが、涼斗だった。
雨脚がこころなしか、ほんの少しだけ弱まったように思えるその瞬間を見計らって、涼斗は雨の中を飛び出していこうと身構える。
「──えっ?」
そうして、まさにその意志の通りに両脚に力を込めた、そのときだった。
「──涼斗せんぱいっ?」
涼斗自身がそうであったように。
ひとりの少女が、ずぶ濡れのその着の身着のまま、雨露から逃れて同じ軒先に、駆け込んできた。
その少女は──涼斗にとってよく知る、後輩の女の子だった。
「雪村?」
灰白色の美しい髪に、重そうに水分を吸わせて。
頬に張り付いたそれを払いのけながら、少女は涼斗の存在を意外そうに、雨粒だらけのその顔の中心で、両目をぱちくりさせていた。
* * *
「どうしたの、こんな雨の中」
それは、お互い様だ。
ハンカチで袖口や、首元や。頬をぐっしょりと濡らしていった雨粒を拭いながら、慌てて飛び込んだ屋根の下にいた先客に、翠は内心、苦笑交じりに思う。
まさか、先客がいたとは──しかもそれが、涼斗せんぱいだったなんて。
正直、びっくりした。偶然というのも、あるものだ。
「わたしは、その。お買い物帰りで。ちょっとスズメさんがきちんと飛び立てるか、見守ってたら──急に雨、降りだしてしまって」
「スズメ?」
「ああー……あの、その。怪我してるのを、見つけたんです。たまたま出会って、拾ってしまって」
小さな公園で、木のベンチの上に載せて、様子を見ていた。
──もちろん、翠が翠である以上は、ただ見ていただけということもない。だがせんぱいは知らない。翠の持っているちから、翠だからこそ、傷ついたスズメにしてやれたこと。
みだりに言って広めるようなことではないから、その部分は濁して伝えなくてはならない。この年上の、作家志望の少年のことだからあるいは、翠の持つ不思議な魔法のちからを伝えたところで、創作のネタが増えたという程度に冷静に受け止めるという可能性も大いに否定できないけれども。
両掌に抱え上げたスズメは無事、傷を癒して、翠のもとから飛び立っていった。誰にも、傷を癒してやるその瞬間は見られていなかったと思う。
夕立の、スコールの直撃を食らったのは、その直後のことだ。
買い物袋の、エコバッグの中身は幸い無事。濡れて困るような食材も入っていないし──問題は、それを抱えていた翠自身のほう。
この軒先を見つけて駆け込んでくるまで、とっさに雨を逃れることのできそうなそれらしい場所を見つけられず。走っているうちにすっかり、全身ずぶ濡れになってしまった。
「──……?」
そこにいたのが、このせんぱいである。
すぐ隣に佇む、やはり濡れ鼠のせんぱいをちらと眺めて、なにか変だ、と、ふと違和感を抱く。
会話が途切れがちなのは、もともと無口なせんぱいと、受け身な翠の組み合わせだから、とくに不思議はない。
ただ、その途切れ方がなんだかぎこちないというか、不自然というか。なにか、ずれた感覚があるというか──……、
「あっ」
「雪村?」
そこまで考えて、気付く。
彼の向いている視線の先と。自分が今おかれた、着衣の状況のこと。
「あ、い、いえ。なんでもないです」
その。雨でずぶ濡れになったせいで。
初夏が近い季節にあわせた、薄手の春夏服といった感じのコーディネイトだったから、……その。
透けて、いる。
うっすらと、その下に着込んだものが。お気に入りの、淡い桜色が。
きっとせんぱいはそのことに気付いたのだ。だからまじまじと見つめることもなく、高校生という年頃の彼の中の品位として、視線をこちらに向けないことを選んでいるのだろう。
そのことを理解して。状況に、頬が紅くなった。
つい、片手をエコバッグから離して、透けているそこを隠すように胸元に拳を当てる自分がいた。
どうしよう。……この状況。胸を押さえた掌に、少し早鐘となった鼓動が、とくん、とくんと伝わってくる。
「──あの。傘は」
雨は降り続ける。ちょっとした覚悟もなしに飛び出していくのは憚られるくらいに、その勢いを強めながら。
「……持ってない。持ち歩くの、苦手なんだ。あんまし好きじゃない」
正面を向いたままふたり、ぽつぽつとした会話を交わす。
「塾帰り、ですか?」
「──ウン。予備校」
一分。二分。
たぶん、体感ほどにはそれは大した時間じゃあない。
けれどひどく、そのときその場においては、時間の流れが遅く、ゆっくりすぎるように思えてしまう。
面と向かって言葉を交わしあえない、微妙な空気と。
いつまで降り続くのかわからないこの雨に対し、自分たちが自分たちだけでは対処し得ないといううんざりとした感覚によって。
このまま、どのくらいこうして待っていればいいんだろう。──隣にいる相手は、待っているんだろう?
やっぱり一層ずぶ濡れになるのを承知で、駆け出していくしかないのだろうか?
「あ」
「っ?」
少年の横顔を窺おうと、翠は一瞬視線を彼の方向へとずらす。
と同時、何かを見つけたように少年が小さく声を上げて、思わずびくりと翠は肩を竦める。
意外なものを見る、少年の表情だった。
雨開けを待っているばかりではこのまま風邪でも引きそうに、ふたり雨脚に体温を奪われていくだけであったろう。
駆け出そうにも、スニーカーの涼斗はともかく、翠はといえばここまで走ってくるのもなかなか難儀であった、バンド止めの、ヒールのサンダルである。
だから正直、助かった。
彼女たちが、来てくれたから。
「……びっくり。なんで雪村ちゃんまでいるの?」
小柄と、ふつうと。人影が、ひとつずつ。
発せられた声は、小さいほうから。
「やっぱし、傘持ってなかったんだ」
呆れたような声は、もう一方から。
「聖せんぱい。氷雨せんぱい」
びしょびしょに、頭の先から爪先まで濡れきったふたりを見やり、やれやれという感じに苦笑しているコンビがそこにいた。
「傘。入れてあげよーか」
いたずらっぽく、ちょっと意地悪に笑いながら。
軒下の限られた屋根で雨露をしのぐふたりに、そう言った聖は傘を差しだした。
(つづく)
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