5/ 聖と、翠と、物語
<ちょっとした事前説明>
作中における登場人物たちのやりとりとは別に、登場人物たちの描いた物語も、この作中には登場します。
登場人物たち同士のやりとりは「* * *」の記号で区切られている部分になります。
作中作の物語部分については「◆ ◆ ◆」で区切られた部分になります。
「──『ケンは、繊細に笑う。格闘技の、アスリートという夢を目指しているとは思えないくらい、体育会系の豪快さを感じさせず、細面に笑い、物思いに沈み。他者の言葉に耳を傾け思慮をする』」
はじめてその物語を読んだとき、なんだかうまく言えないけれど、それは自身の書こうとしている作品とはどこか、対照的なものなのであろうと、翠には漠然と思えた。
それは、涼斗せんぱいの綴る物語。プリントアウトされた用紙の束をめくり、翠は独り、ほかにすることもない授業間の休み時間、その物語を読み耽る。
主役と呼べる人物は、ふたり。
ごくありふれた体格で、ごくありふれた性格で。どこまでも一般人であることを自覚する青年・紘一。教師になることを志望する、就職浪人のアルバイターだ。
学生寮を引き払うことになった彼は引っ越しを画策し、そのための準備中、ある青年と出会う。
もうひとりの主人公。ケン。
すらりと背の高い彼は一見細身で、だけれどそれは余計な贅肉のない体格をしているだけで。
筋肉質なその体躯に見合うように、プロレスラーを目指しているという。
端的に言えばそれは、彼らの同居物語だ。
所謂、ボーイズ・ラブと呼ばれる類のお話ではない。彼らにはそれぞれ、恋人がいる。なにより彼らが知り合ったのは、同じ相手とかつて付き合っていたから。
ふたりがルームシェアをして、互いを知るようになったのは、ケンの死に別れたかつての恋人が、紘一の幼なじみであり、かつて惚れていた、愛した相手であったからなのだから。
そんな女性のことを引きずったまま、それでもごくふつうに次の恋愛へと向かい、恋人をつくり。目指すものを持って、日々をごくふつうに生きている。涼斗先輩が書いているのはそういう、ありふれた男たちの、ふたりの同居生活の物語だ。
特別なちからや、不思議な出来事などは出てこない。
おとぎ話や童話の影響が色濃いことを自覚する、翠の紡ぐ物語とは、それは対照的な雰囲気だ。
「……なんだか、すごく」
──すごく、大人っぽい。大人びた、お話なんだなぁ。
まだ読み始めたばかりのその物語は、翠にそんな、率直な感想を抱かせる。
読んでいて、すごく──口数の少ない、物静かな涼斗せんぱい「らしい」お話だと、思える。
対する自分の書く物語が、果たして自分「らしい」、そういうお話になっているかどうかはわからないけれど。少なくともせんぱいの紡いだ、翠の読んだその物語は、素直にそう評することのできる雰囲気を纏っていた。
物語において読んだ箇所までの時点で、紘一とケンは同じ女を愛した、ただの同居人でしかない。
友だちですら、ない。ほんとうに出会ったばかりで──、
「……友だち、か」
光沢の灰色をした髪を揺らして、プリンタ用紙の束を翠は置く。
読書に集中していて気にならなかったけれど、休み時間の教室は生徒たち各々の交差しあう喧騒が、それなり以上に溢れている。
目線をぐるりと動かしてみると、放課後のお出かけの話題に興じている、3人組の女子が目に留まった。
クラスの中にあって、浮かび上がりながらも目立たない翠とはまた違った意味で、大きくリーダーシップをとったり、先頭に立っていくようなタイプではない、そこまで目立つわけでもない3人。
彼女ら同士は、きっと友だちなのだろう。あるいは中学の頃からずっと、同じクラスだったり、深く長い付き合いなのかもしれない。
カラオケ行こうよ。3人のうちのひとりが言って、残るふたりが歓声のような声を上げて、頷いていた。
──ああ、カラオケかぁ。行ったこと、ないなぁ。
彼女らは今日、これから。歌いに行くのだろう。
友だち同士、誘い合わせて、待ち合わせて。
彼女らは気付かない。なにげのない視線で、翠が彼女たちを見ていることに。
クラスメイトであって、これまでも幾度か言葉を交わしたり、体育の班分けで一緒になってそれなりに会話もしたりした相手であったけれど、たぶん明確な、周囲から特徴だっての「友だち」という認識は、彼女たちの側にも、翠の側にもない。
クラスメイトの、知り合い。そこから先では、まだない。
声をかけてみようかな。ふとそんなことを思った。──直後、4限目の開始を告げる始業のチャイムが、鳴り響いた。
「──あ」
持ち上げかけた右手を、すごすごと下ろしていく。きっとその動作は、翠を特に気にして見ている者がいたならば、奇異な所作に映ったはずだ。
まあ、……今のところは、そんな相手が教室内にいるはずもない。
ぱたぱたと小走りに、それぞれの座席へと戻っていく同級生たちを見やりながら、苦笑交じりに翠もまた、自身の読んでいた、年上の少年より託された原稿をしまい込む。
そう、すんなりいくものではないよね。そう、心の中で自分に頷く。
時間が──もう少し、時間が、必要なのだろう。やっぱり。
「また今度、ね」
ぽつり呟いたその声は、特段大きくもなければ、ほかの誰の耳にも届いてなどいなかった。
そう、今度。今すぐじゃなくていい。
焦ることなんて、ないんだから。
◆ ◆ ◆
誕生日なんて覚えていない、と言ったココに、レイは目を丸くする。
自分がいつ生まれたかを、知らないだなんて。それじゃあ、お祝いは。祝福のための、プレゼントはいったい、どうするの。
「あのねえ、レイ。わたしはキツネなのよ。たまたまこんなふうにあなたと同じことばを喋ったり、お話をしたりはできるけれども。そのところをよく忘れないでほしいわ」
「それは、わかるけれど」
「だいたい、もう何年生きてきたかもわたし、忘れちゃったわ。ずっと昔、ナポレオンのおぼっちゃんが王さまになった頃のことくらいからは、うっすらと覚えてはいるけれど」
ナポレオンは王さまじゃないよ。皇帝だよ。思わず言いそうになって、しかし膝の上でごろごろと寛いでいるその老キツネにはどうでもいいことだと思いなおし、レイは口をつぐむ。
ナポレオンって、あのナポレオンか。
「そんなに長く、……生きているの?」
「たぶん、ふつうの人間さんたちよりはずっと長く。もちろんあなたが生まれるよりも、ずっとずっと、昔から」
それはそうなのだろうと思う。なにしろナポレオンなんて名前、歴史の本でしか読んだことがない。レイの生まれた年よりずっとずっと、遥か昔、既にその人の名前は歴史上のものでしかなかったのだから。
「えっと、ひとりで? 家族は?」
「ずっと昔にはいたわよ。でも、今はふつうのキツネたちに対して、わたしは見守るだけ。みーんな、孫だとか、遠い親戚とか。そんな感覚でしかないもの。だからほんとに近くに、一番近くにいる家族という意味では、わたしはずっと、ひとりきりよ」
そのくらい、ほかのキツネたちと、ココとのあいだには遠く、遠く、時間と呼ぶべきものは離れてしまっている。
「じゃあ、お友だちは」
「いるわけないでしょ、そんなもの。ずっと、ひとりきりだったんだから」
当たり前のように、ココはそう続けた。そして彼女の言葉はそれで終わりではなくて──……、
「あなたと似たようなものよ。レイ」
「え?」
だってそうでしょう、と。接続を挟んで発せられたその声は、彼女を揶揄するわけではなく、責めるわけでもなく。ただココの率直な認識を、向き合うレイへと伝えていく。
「だって。あなただって、同じでしょう。肉親はいない。家族らしい家族と呼べるのは、使用人のぼうや──ああ、あなたからみればお兄さんのようなものね。雑貨屋以外はここを訪問する人間もいない。よく似た者同士じゃない」
わたしもあなたも、同じ孤独の者。その意味ではほんとうに、人間とキツネでありながらよく似ている。
「友だち。いないでしょう?」
まったくそこに悪意のかけらも、もちろん当のココ自身が抱いていないのだから当然なのだが──言葉に感じさせぬ、それほどのあっさりとした口調と表情で、首を傾げてココはレイに問うた。
「それ、は」
間髪入れずすぐには、応えを返せない、問いだった。
けれど自覚はしている。それを言葉にするのを躊躇う、肯定をしかねる感情がレイの喉の奥を、開かせなかった。
ひとりぼっちの自分。
一匹ぼっちのココ。
同じであるのは彼女の言うとおりに、間違いのないはずなのに。
◆ ◆ ◆
そこまで、読み終えたとき。聖はその物語を執筆した後輩に対し、「気にさせてしまったのだろうか」と、先日のやりとりを思い起こさずにはおれなかった。
気にさせてしまったか。
そして、傷つけてしまっただろうか。
以前に読ませてもらった文より、表現もなんだか、心なしか少し大人びたものに変化している気もする。
ダブルクリップで右上を挟み留めた、プリンタ用紙の束を手に。たった今まで腰かけていたベッドに、感情や感想の発露させる先を持て余して、大の字になってごろりと倒れこむ。
ひとりだけの家。自分、ひとりきりの部屋。壁紙の天井と、そこにぶらさがる蛍光灯を見つめながら、隣家の翠のことを思う。
自分や、文芸部の面々がいるからには翠だって、べつに孤独じゃあない。時間が経てば、クラスメイトにも親しい子、そのうちつくれるだろう。
そもそも、だ。
孤独というなら、わりと今の自分のこの状況も、孤独といえば孤独な気がする。
いやまあ、ちょっと電話をかければ、ちょっとメッセージを送れば翠なり、涼斗なり、氷雨なり誰かしら友人にすぐ繋がるわけだし、別に肉親を喪っているわけでもない。厳密にいえばもちろんそんな大それた、深刻な表現がふさわしい状況でもないのも、わかってはいるのだけれども。
それにしたって、といくぶん思う自分もいるのである。
頻繁にではなくとも、ごくたまに。
恨みがましくといった風でもなく。ただ単純に、自分とその身の回りのことはなかなかないことだよなぁ、と。
「だって、殆ど地球の反対側だよ?」
地球の、裏側。小さな島国・日本という場所に娘ひとり置いて、残った家族揃って行ってしまうかね、ふつー。
いくら私が、着いていかないって決めたからって。
将来を嘱望される妹の、留学だからって。
「ピアニスト──か」
勉強机の上には、留学前、妹や両親がまだこの家にいた頃、最後に撮った1枚の写真が飾られている。
特別に、離れ離れになるから撮影したものではない。
フルート奏者の父。
音大出の、ピアノ講師であった母。──過去形なのは、当人が海外に赴いたことで彼女の教えていたピアノ教室が開店休業状態となったためだ。
その両親に挟まれて、聖と妹は、ファインダーの中にいる。
たったひとりの妹、命。
妹の手には1枚の賞状が広げられ、煌びやかな金色のトロフィーが小脇へと抱かれている。
その写真は、妹の特別な日に写し出されたものだった。
彼女の参加した、ピアノ・コンクール。その金賞を受賞したその折に。
聖と違って自身の身体を使った技術の分野、つまり音楽的才能に豊かであった彼女はそうやって両親にとって誇らしく、……無論、聖にとってだって誇らしかった。自慢の妹であることに、間違いはなかった。
ただ、眩しかった。
自分と妹、どちらを両親がより愛しているか。愛していたかと、そんな不毛なことを思うのではない。
遠く離れていても両親はそれなりに連絡はしてくるし、気にかけてくれている。
自分と命、ともに愛してくれているのは、理解している。
だからこれはあくまで、自分から妹に対する視線の問題なのだ、と聖は思う。
妹は──命は、あまりにも、眩しくて。
嫌いなのではない、大切だ。愛している。そんな妹だけれど──だからこそ、接するのが得意ではない。
妹や、年下という存在に対する自分の苦手意識は、そういった部分が根底にあるのだろう。
だから聖は、投げ出した原稿の束を見遣り、思う。
ある意味では、彼女が。
翠の生み出した主人公・レイが──彼女の才能が、羨ましいな、と。
(つづく)
第五話、お送りしました。
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