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30/ 聖と、翠と、姉妹と『家族』

 

 

 メロディが、流れていく。

 大人、子ども。

 若い人。おじいさん、おばあさん。

 集まった聴衆の人々の数は、けっして煌びやかなコンサートホールのような、そこをぎっしりと埋め尽くすほどには盛大なものではないけれど。

 それでも普段、人の姿が疎らなそこは音色に耳を傾ける人々の、少なくない姿に賑わっている。

 病院の、入院病棟。その、娯楽室。

 入院患者や、その付き添いの人々や。ひととき、仕事の手を止めた看護師や医師たちが見守り、視線を注ぐ中、そのピアノはある。

 小さなその背中が、奏でている。

 鍵盤の上に指先を滑らせて──流れるように、淀みなく。澄んだ美しい音色を、少女の感性は聴衆たちの前に途切れることなく、生み出しあふれさせていく。

 

「──メイさん……」

 

 彼女を見つめるそのいくつもの視線のひとつのなかにあって、翠もまた、この小さな演奏会の会場となった娯楽室へと在していた。

 見てて。メイにできること。その癒しのちから、それがどのくらい儚いものなのか、わかってるつもりだけど。気休めの少しくらいはみんなを元気にしてみせるから──言って、ピアノの前に座った年下の少女に翠はただひたすらに、固唾を吞んでその様子を見つめる。

 留学を持ち掛けられ、将来を嘱望されるというその演奏の腕前は、彼女の置かれたその立場に相違なく、見事な演奏を奏で続ける。

 葉月さんが。朋花さんが。やはり翠とともに、聴衆としてこのコンサートの場に在る。

 彼女たちには、見えているだろうか? それとも翠だけに、それは見えているのだろうか?

 メイさんの奏でる音色がふわりと、開け放たれた窓からの風に乗るたび、本来可視化し得ぬそれらが淡く、薄く、やわらかな光を帯びて、そのメロディに聞き惚れる皆のもとへ浮かび翻った薄絹のように舞い届いていること。

 それが、メイさんのちからの輝き。

 翠が自身のものを行使するように、一瞬強く、その掌で輝くのとは違う。はたらきかけるのではなく包み込んでいくような、そんなちからだ。

 そのちからが取り巻いていく朋花さんを、翠は背中から見遣る。

 きれいな音色に聞き惚れた少女は、じっとメイさんの演奏を見つめて、息を呑んでいて。

 素敵だな、とか。なんだか元気をもらえた、とか。そういう感性は抱いているのだと思う。けれど……彼女に大きな変化は、翠の目からは見ていてなにもないように思えた。

 今日の、この演奏会。

 メイさんが提案し、葉月さんが病院にかけあって実現した、小さな小さな、ささやかなミニ・コンサート──それは本来は、彼女の、朋花さんのためにもしかしたら、という願望ありきで開かれたものだ。

 けれど。ああ。

 ああ──やっぱり。わかっていたことではあった、けれど。

 翠の心にあるのは落胆ではない。そんな感情を抱く資格が自分にないことを、翠は自覚している。

 抱くのは、無力感。

 メイさんが、ではなく。

 そう、「わたしたち」が、また癒すことがかなわなかったという、その実感。

 魔法だ、ちからだといってほかの人と少し違うと認識していながら。そのちからで、なにもできない。「わたしたち」では、癒せない。

 右手に抱えた、左の腕にぎゅっと、翠は力を込めずにはいられなかった。

 父の心を癒せなかった、翠。

 朋花さんを癒せなかった、翠。

 涼斗せんぱいと聖せんぱいのことを見ているしかなかった、翠。そして今、メイさんも──同じに。

 ただそんな気持ちを慰めるかのように、メイさんのピアノは美しかった。

 それを奏でるメイさんも、神々しく。聴く側に立つ翠も、見て、聴いているうちになんだか泣きたくなってくるくらいに、きれいで、濁りひとつなくて。

 あんまりに、美しい。

 

     *   *   * 

 

 一応、ふたりの関係性はただの幼なじみから、「恋人同士」というやつに変化した、といっていい。──の、だろう。

 かといって、そうお題目が書き換わったとはいえ、その実態がなにか急激な、明白さを持っての変化をしたわけではけっしてない。

 聖は聖のまま、『憩い』や神社でのアルバイトに精を出す日々を変わらず過ごしている。

 涼斗は涼斗で、聖と結びつくことができたからといって、彼をとりまく空虚な環境や感情を変化させられたわけではない。

 それでも彼は小説を書くことを結局、やめなかった。聖との関係性の変化を受けてか、再び彼は、『憩い』に集まっての部活にやってくるようになった。

 ある意味では、出来事が起こるより前のままであるから、変化とは呼べないかもしれない。──無論、変わった部分もある。

 以前のように彼の意識が小説を書くという作業に十全な集中をできているわけではない。氷雨たちとともにノートパソコンに向かうあいだも、手を止めては考え込んだり、深い息とともに頭を抱えてみたりする時間のほうが長くなっていた。

 表情が冴えないのは、ずっと。自分から笑うということは殆どない。辛うじて、聖や氷雨の、あるいや翠の言葉に相槌を打つとともに時折、曖昧な微笑を浮かべるだけ。

 聖にできるのは、そんな彼の様子を折に応じて見守ること。バイトの、作業の手を止めて──彼の捗らぬ執筆の様子を見遣っては、案じる。その繰り返し。

 相談に乗ったり、話を聞いたりということは殆どない。

 一緒にいる時間や、メッセージのやりとりによる携帯電話の繋がりもけっしてないわけではない──ただ、彼は口数少なく。話さない。伝えて、くれない。あるいは状況を言語化するのも愉快なことではないのかもしれない。だから聖には、そっとしておくしかない。

 私は。あいつは。これでよかったのだろうか? こうする以外になにかなかったのだろうか?

 自分と涼斗とが選んだ関係性を思いながら、そこに不安と疑問とを抱かずにはおれない。すべては、自分が彼のなにか救いやちからになれているという感覚薄いがゆえの無力感のために。

 見守るだけの自分が、自分自身で言ったように彼の逃げ場所にさえ果たしてなることができているのかと、思えてくる。

 そんな自分を、時折首を振って否定しなくては、自分が彼の『彼女』であるという状況に、その全うのできなさに弱気を覚えてしまうのだ。

 せめて自分と一緒のときくらい、涼斗にはつらいこと、嫌なことを忘れてほしいのに。

 忘れさせて──やりたい。

 

「忘れさせてあげればいいんだよ」

「氷雨」

「デートでもなんでも、連れ出してさ。こやまんの中を、柊ちゃんのことで埋め尽くして溢れさせちゃうくらい、いっぱいにしちゃえばいい」

 

 ぼうっと思考に埋もれていたあいだにいつしか、親友がキッチン前のカウンターにまでやってきて、空になったウーロン茶のグラスを差し出していた。

 おかわり。おねがいね。踵を返し氷雨は、思い悩む少年のもとに戻っていく。

 

「せっかく付き合いだしたんなら、そんな思いつめた顔しないでさ。楽しみなよ。楽しんで、ほしいな。柊ちゃんにも、こやまんにも。それが青春ってやつじゃん。付き合うって本来、ハッピーなことじゃん」

 

 そう、言い残しつつ。言いたいことを言って、ひらひらと手を振りながら、だ。

 

「デート……?」

 

 ガラス一枚隔てた、そして少年たちの座る奥まった席からはある程度以上距離の開いたここからでは、聖が思わずオウム返しに呟いたそのひと言は、涼斗の耳にまで届くはずはなかった。

 一緒に、デートする。それを満喫する。そんなの、当然のこととして聖だってしたいに決まっている。

 聖の、したいこと。

 聖の、行きたい場所。

 涼斗とともに行きたい場所。やりたいこと、それは──……。

 

     *   *   * 

 

「いいんだよ。結局やっぱり、なんにも癒せてないんだから」

 

 メイさんの言葉は、そっけない。

 病院でのミニ・コンサートの帰途。

 今日はありがとうございました、と感謝を告げた翠に、気のない表情で彼女はそんな一言一句を言って返す。

 

「結局なにも、変わってないし」


 横断歩道。信号待ちをしながら、美しい音色を奏でた自身の指先を、メイさんは見つめている。

 なにも癒せていない、変わっていない──言葉の通りに、彼女の表情には演奏をやりきった達成感とか、満足感めいたものは程遠い。

 

「魔法が使えるってさ。無力だよね。なんにもできないのと大して変わらない」

「メイさん」

「ごめんね、やっぱりちからになれなくて。葉月さんと朋花ちゃんだっけ、謝っておいてよ」

 

 ほかの人よりひとつ、できることが増えただけ。

 でも人間、できることの数なんて限られていて、たったひとつ増えたくらいで大きくなにかが変わることもない。できないことのほうが結局、ずっと多い。

 

「なのに、縋りたくなっちゃう。ちからがあることを知ってるから。それでなにかできるんじゃないかって」

 

 現実にはお姉ちゃんひとり、癒せない。

 同じ魔法少女の癒したい人、ひとりさえ──癒せない。

 メイさんの音楽はやはり、朋花さんになんら肉体的な影響を与えることはなかった。翠のちからがそうであったように。メイさんの声音には、その自嘲の成分が多く含まれて、力ない。

 ふと、軽い電子音と、短めの振動とを上着のポケットに感じて、翠は携帯電話を取り出す。

 氷雨せんぱいからのメッセージ。

 短く、──『来たよ、こやまん』。涼斗せんぱいがふたたび文芸部の活動に姿を見せるようになって、翠の予定が合わないとき、こうして氷雨せんぱいは連絡をくれる。

 そう、涼斗せんぱいと、聖せんぱいが付き合い始めてから。

 涼斗せんぱいは捨てようとしていたものをもう一度、その手にとった。

 

「お姉ちゃんのほうがよっぽど、自分にできることをできてる。それでなにかを変えられてる。──だって、涼兄ちゃんを立ち上がらせたんだもの」

 

 状況を根本的に解決はできていなくても。一歩だけでも、ほんの少しでも──それを変化させられている。

 

「メイ、子どもだなあって。嫌になるよ、ほんと」

 

 同じ時刻、同じ無力感を共有していることを姉妹も、彼女らを見つめる翠も知らない。

 けれどメイさんのその憂いを湛えた横顔になぜだろう、聖せんぱいと彼女とがやはり姉妹なのだと、不思議な実感と納得とを翠は覚えたのである。

 

「お姉ちゃんのちからになれるなら。メイはこんな中途半端なちから、なくたっていいよ」

 

 ないほうが自然なもの。あってもなにも、変わらない。これじゃなくてもいい。

 メイさんが嘆く自身のちからの在りようは、涼斗せんぱいにとっての自分の在り方に悩み、惑い、前進を望み続けた聖せんぱいと本質的に同じものだ。

 

「翠さんも、そう思わない?」

 

 声を発さず、曖昧に頷いた翠にはその本質的類似性が少し、羨ましい。

 家族とのあいだの、類似性。自分と母との繋がりは、この癒しのちから。だからメイさんのように不要と極端に断じることはできない。

 けれど同時に、このちからが父との距離を隔てもした。

 傷つけてしまった、父。

 傷つけた、わたし。

 

「──翠さん?」

 

 信号が青に変わった。歩き始めようとしたメイさんは、翠が無言に、そして足を止めたままであることに気付き振り返る。

 

「どうかした?」

「──いえ」

 

 自身の持つちからに拘泥しているのは、きっと翠のほうだ。

 父を傷つけてしまったちから。母との繋がりであるちから。

 翠にとっての肉親とは、このちからによる関わりが少なからず、目の前にあって避けられぬものであった。

 ちからを手段と捉えているメイさんとは、異なる。

 メイさんと聖せんぱいはちからの有無なんかに関係なく肉親で、家族で、姉妹。よく、似通った──。

 朋花さんを癒せなかったとき、ちからに対するショックがより大きかったのはおそらく、翠だ。「また」だ。「また」、自分のちからがなにもできなかったと、その部分が強く、翠のこころに焦りを、不安を生んだ。このちからが結んでくれた友情を、それに応えられぬ自分に怯えた。

 メイさんは違う。その部分はもう、割り切ってしまっている。ただ、姉を癒したい。救いたいと──そのためのほかの手段を探して、あるいはそのための手段たりえるよう、自身のちからを磨かんと。そこに意識を向けている。

 

「姉妹って、いいなって」

 

 歩みを止めたまま、だったのかもしれない。

 自分は。父を傷つけてしまった。それを悟ったそのときから。

 同じ、魔法を使える両者でも、メイさんと翠の違いはそこだった。

 姉妹と親子、家族としての記号は違えど、『家族』という括りは同じ。普段遠く離れて過ごしていたという点も、同じこと。

 メイさんが、お姉さんを想うように。

 わたしもいつか、お父さんを想えるようになりたい。

 聖せんぱいが、少し苦手に思いながらも、メイさんの前でお姉さんをやれているように。お父さんへの苦さや後悔すら、飲み込んで、吸収して。

 わたしが小説を書いているのは、お父さんのその職業がやはり、小説に。物語に携わることだったからという影響は間違いなく否定できない。

 だから、受け止めたい。メイさんのように。なんとなく、気まずいままでなく。

 わたしとお父さんも、遠く離れていてもやっぱり、『家族』なのだから。

 姉妹も。

 親子も。

 

 

          (つづく)

今回はとても着地に時間がかかったお話でした。

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