11/ 聖と、翠と、癒せないもの 1
「お? 今日は小説の原稿じゃないんだ?」
そろそろ、コーヒーのおかわりでも持っていってやるか。
食事処『憩い』のキッチン。ひととおり、今夜の食材の仕込みも終えて、保温状態にしてあった耐熱ガラスのコーヒー・サーバーを手に、いつものように文芸部のふたりが囲むテーブルへと近づいていった聖は、そこにいる同い年の友人たちが、普段そこでやっているものとは異なる作業に勤しんでいることに気付く。
作業というか。──うん。教科書や、参考書を開いた、ふつうの勉強。
この店に来てまで敢えてやるなんて、珍しい。
「なんか宿題、出てたっけ? そんな大変なやつ、あったっけ」
殆どからっぽだったふたりのカップにそれぞれコーヒーを注いでやる。
と。聖の言葉に、やや大げさなアクションとともに、ちがうちがう、と氷雨が声を上げる。
「模試だよー、模試。来週の日曜日」
「へ。模試?」
そんなの、受けるのか。
涼斗はともかくとして──進学のこととか興味のなさそうな、氷雨まで? いつの間に、そんなの申し込んだの?
「聖だって受けるんだぞ」
「へっ?」
なんで。とくに受験勉強とかとりかかってないよ、私。
「こないだ、学校で申し込んだだろ、学年全員」
「あ。──アレか」
そういえば、二年生は全員参加だー、とかで担任から申し込み用紙配られて、書かされたっけ。
「もう、受験票届いてるはずだよ? ウチだって届いてたし」
「あー、うん。たしかに。届いてた、かも」
そう。身に覚えのない、涼斗が通う駅前の大手予備校から小さな封筒が届いていたっけ。なんだ、これ──怪訝には思った。そのままほかのダイレクトメールやら興味のないチラシやらと一緒に、置きっぱなしにしていたはず。
なるほど。模試の知らせだったのか。
「命からのエアメールは開いたんだけどね。一緒に届いてた」
「メイちゃんから? へえ。今日び、手書きのエアメールなんてわざわざ書いてくれるんだね?」
「うん。……ま、ごくたまに、ね。だいたいいつもは携帯にメッセージでのやりとりだけど」
そもそもの回数自体、寧ろ親とのやりとりのほうがずっと多い。まあ、それはこまごました生活上のこととか、手続きとか。親なりの娘への心配とかが重なって、それなりの言葉の行き来となっているのだろうけれども。妹からはというとほんとうに、ごく稀にあちらから連絡が贈られてくる程度だ。
そんなだから実際、エアメールの封筒を最初に目にしたとき、正直意外に思う感覚を隠しきれなかった。もちろん、けっしてもともと仲の悪い姉妹ではなかったけれども──。
「なになに、どんなこと書いてんの」
「べつに。ふつうだよ。あっちでの、海外での生活のこととか。こっちの、私の生活はどうか、とか──普段、親に報告したり、やりとりしてることと大して変わらない」
交わす言葉の口調やニュアンスが、親に投げかけられた言葉のそれから、妹の発するものに変わっただけだ。
特筆して、なにが違う、ここが特殊だと胸を張るようなこともない。
西と東、遠く海を隔てて暮らす両者が、それによって急に何が変わるということも無論ない。
「ふーん。そっか。──そういえば、ところで今日は雪村ちゃんは? バイトじゃなかったんだ?」
大したことじゃない。誰より聖自身にとって。その程度のものだから自然、話題としては会話の流れの中にあっさりと流れていく。
「ああ、今日は翠はお休みだよ。文芸部にも来れないってこと、ふたりに伝えといてほしいって言ってた」
代わりに聖と氷雨の口の端にのぼるのは聖の妹の話ではなく。──目下のところの、皆の妹分についてのこと。
「なんでも、行かなきゃいけないところがあるんだって。同級生の子と」
その中で、聖だけはおぼろげに、おそらくはあの子なんだろうな、とコンビニで鉢合わせしたポニーテールの少女を思い浮かべる。
聖にとってはもはや顔立ちすらあやふやな記憶だが──翠にとって用事の理由と、その少女はなり得たのだろう。
「おー。ひょっとして、友だちできたん? 雪村ちゃん」
どうかな。あの子のことだから。
引っ込み思案で口数少ない、後輩のことを思いながら苦笑する。
まだきっと、友だちにはなれていないのだろう。けれどできれば、そうなってくれるといいな、と、第三者の立場ながらに聖は思う。
中学時代でも、高校に入ってからも殆ど必要最低限しか年下の、後輩と呼べる存在と関わりを持ってこなかった聖にとって、翠は殆ど唯一といっていい、親しく接することのできる後輩だ。
そんな彼女が出会った、同い年の、深く関わりあえるかもしれない存在。
仲良くなってあげてくれたらいいな、と──正直、思う。
あの子が同い年の子とうまくやっていく姿を、見守っていけるといいな。
些かそれが老成しすぎた視点による考えだと自覚はしつつ、心の中、聖はそう呟いた。
* * *
その歓迎は、あまりに想定外だった。
「魔法使いのお姉ちゃん!」
四つ、ベッドのある病室。その小児病棟の一室には、訪れた翠と、彩咲さんとを除けば少女がひとりきり。ほかのベッドは空っぽだ。
姉をそっくり真似たように、頭の後ろで結った、ちょっと短めのポニーテール。
それを揺らして翠たちの姿を見とめた彼女は、その快活さをあのコンビニでの出会いの夜からなにひとつ変えていない。
あの日と同じ、顔立ち。笑顔。笑い声。
彼女が、彩咲さんの癒してほしい人。救ってほしい、女の子。
彩咲さんの、妹さん。
「ほら、はしゃがない。大人しくしてな、朋花」
姉である彩咲さんにそう名前を呼ばれ素直に、おとなしくベッドに座りなおした少女は──ここまでやってくる道すがら、朋花というその名前を聞いていた──、それでもきらきらとした目でじっと、翠のほうを見つめてくる。
「そんなじろじろ見ないの」
手近な面会用のパイプ椅子を引っ張って、荷物をそこに追いやりながら彩咲さんは再度、自身の妹さんを諫めるように言う。
いや、それはじろじろというか、むしろなにか、ものすごく期待されているような目で──……。
こっち。あたしの同級生。雪村 翠さん。ほら、とっとと挨拶しな。
そんな、姉と妹のやりとりを生まれて初めて、至近の場所にて翠は見る。
えっ、いいの。そんな乱雑で。
妹さん、病気なのでは。あんなに妹さんのこと、想っていたのに。
姉に促され自身の名を名乗る少女にぎこちなく頷き返しながら、視線を交互に姉妹へと向けては返す。
「お見舞い。来てくれたんだよ。お礼、言いな」
目を伏せつつ、言った彩咲さんは自身の妹の来ているパジャマの、よれた襟元をなおしてやる。
ピンク色の、ありふれたデザインのパジャマは翠が一見してわかるくらい着古されていて、小学生の少女の体躯に「当たり前のもの」として馴染んでいる。
たった今まで眠っていたわけでない彼女がそれを身につけていること。まるで体の一部のようにいつもそこにあることに、はじめてその姿を見る翠にさえ当然のものと違和感を与えないほどに──。
いや。馴染んでいるのは、パジャマの側だけじゃない。
あの夜、コンビニではかけられた言葉の衝撃に印象の殆どすべてを持っていかれて、気付けなかった。
でも今、改めてこうして向き合っているとわかる。
少女の痩身。筋肉らしい筋肉に乏しい、小学生という幼いその年齢を加味したとしても肉感の薄いその四肢が。パジャマ越しでも、見え隠れする。
その頬の血色も、けっして真っ赤な血の脈動を感じさせるものではない。仄かに青白さを帯びて。日焼けを殆どしていない肌表面の色と相まって、彼女が同年代の子どもたちのように外で遊びまわり、跳ね回るということと無縁であることを翠に言外、伝えてくる。
ほんの一週間、二週間といった短い期間でそれらはいずれも、形成されたものではない。快活に笑う少女はその笑顔とは不釣り合いに、この病院、病室という静かな空間にあまりに慣れ親しんでいる。
ここからずっと、出られずにいる。翠にだって、そのことが嫌でもわかる。
彼女の。朋花さんの身体のこと。
病院から離れられないこと。
小さな少女は『入院』という日常を日々、過ごしている。
この病室を訪れるその道すがら、翠はすべて、彩咲さんから聞かされている。
* * *
そうとも、聞かされて。知っているから、視線はただ見舞いに来た、元気を願うだけのものと違う性質を帯びざるを得ない。
『──心臓の病気なんだ。生まれつき。ふつうの人と同じように、心臓がかたちづくられなかった、病気。先天性って、いうのかな』
口数の互い少ない、道行きだった。その中で彩咲さんがそう口を開いたのは、踏切。紅い点滅と無味な音色が鳴り響く中、遮断機を前に電車の通過を待ちながら、彼女は翠に語ってくれた。
『──だからずっと、病院にいる。こないだの夜だって、久しぶりに主治医の先生から外泊許可が出て。それで、アイスが食べたいってわがままを言って。あたしが一緒についていったんだ』
今すぐに死んじゃうとか、生きていけないとかそういうことはない。
ただ、人並みに。運動をするとか、走り回ったりするとかは、できない。
電車の走り去る喧騒の中で、けっして大きな声量でなかったはずの彩咲さんの言葉はしかし、不思議なほど明瞭に翠の耳に届く。
治療の、方法は。……きっとそれは訊くのもある種、無神経で愚かな問いだったろう。
そんなの、治るものならとっくに治っている。医師に治してもらっている。そんな言葉が返ってきたっておかしくない、そんなわかりきった問いを向けるくらいしか、翠には彼女の告げた事実に反応を示すことができなかった。
『──移植手術の、順番待ち。いつになるかは……まだ全然、先が見えない』
救われる未来がすぐ目の前にに見えていたのならば、そもそもとして翠に願うことなどあるはずがないではないか。同い年の少女に向けた言葉を、翠はこのとき胸の奥で後悔した。叱責が返ってこなかったことに安堵か、あるいは罪悪感を抱きながら、彼女の発する声の続きを聞いていた。
『──もちろん、今すぐになにがあるわけじゃなくても、ただ放っておいていい病気じゃない。病院で管理していなくちゃいけない。だから。……だから、助けたいんだ。救ってやりたいんだ。あたしの、妹だから』
その、落ちゆく夕陽を見上げた眼差しを。彼女の言葉を思い起こしながら、彩咲姉妹の織り成す情景を翠は見つめている。
助けたいと願う少女と、その想いに包まれた彼女の姉妹。
ふたりのちからになりたいと、翠もまた願った。
だからこそ今、翠は祈る。自分自身とそして、ほかのなにものでもない、超然的な人智の及ばぬ存在に。
神さま。どうか。──お願い、です。
自分自身を信じる以外に、対処の方法を持ち得ないから。
もしも存在するのなら、人のちからの及ばぬところにある結果はそうすることでしか引き寄せようが、ないのだから。
彩咲さんに奇跡を望まれた自分が、奇跡を求めている。
可能性を信じ、縋る思いと。自分自身という存在のちっぽけさを翠は自覚する。
こんな風に向き合ったこと、なかった。わたしのちからはほんとうは、魔法なんて大それたものじゃあないのかもしれない。魔法だなんて、呼べやしない。
「こんにちは、朋花さん。──雪村、翠といいます」
彩咲さんが伝えてくれたように、翠もまた伝えている。
自分の、ちからのこと。
できること。
そして、できないこと。
既に彩咲さんは、知っている。
「お姉さんの、クラスメイトです」
翠に癒すことのできる、限界を。
そのちからは──自ら治ることのできる傷や、怪我や。治癒のし得るそういうものしか、治せない。癒せないということ。
風邪や流行性の病気はかつて、癒し得なかった。だから。
もしかしたら翠のそのちからでは、目の前の少女を癒すことはかなわないかもしれないということを、翠は知っている。朋花という少女の、『病』を。彼女の心臓という肉体に起因するそれに、翠のちからが果たして太刀打ちできるかどうか。
ううん、もしかしたら、ではなく。九分九厘、そうなのかもしれない。
その可能性のほうが遥かに大きく、存在しているとしたら。
自分は目を背けているだけなのだろうか?
誰よりもその念に恐れの感情を抱き、鼓動の大きさを感じていたのはほかの誰でもなく、翠自身であった。
(つづく)
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