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10/ 聖と、翠と、知るべきこと



 救ってほしい、人──……?

 その言葉を向けられた翠はただ、呑み込めぬまま。告げられた言葉へと鸚鵡返しをするように、目の前の、ポニーテールの少女が吐き出したその声を自らの声で、疑問形に繰り返す。

 それは、いままでにまるきり、思い至りもしなかったこと。

 そんな局面に、幸運にも翠はこれまで、出会うことはなかった。

 小さな鳥や、猫なんかじゃない。

 今こうして面と向き合って、問い返すような翠の言葉に頷いた少女が願ったのは、もっとずっと大きくて、重いもの。

 なん、だって。

 救ってほしい──彼女は、そう言った。

 人の、……彼女の知る、彼女がそうしたいと願う、誰かの生命を、翠に。


「無理にとは言わない。隠しておきたいことではきっと、あるんだろうから」


 嫌なら、嫌でいい。やってほしいとこちらが願ったこと。受け容れられない事情だって、きっとあるものだろう。


「無理なら無理でいいと、納得しなければならないのはきっと、こちらが決めるべき態度の範疇なんだから」


 そのお題目じみた、堅苦しい言葉は彩咲さんなりの、言いなれない身構えた気遣いだったのだろう。

 気遣いというべきか。遠慮と、言ったほうがいいのだろうか?

 少なくとも間違いなくそのとき、彩咲さんは彼女の願いを向けられる翠のことを慮っていた。そのことはたしかだと、翠は思う。

 受け取るこちら同様に、……ううん、あるいはそれ以上に、その願いを紡ぎだす彼女の側も身構え、探るようになってしまっているのだろう。


「無理にとは言わない。でも、できることなら。受け容れてくれるのなら、助けてほしいんだ」


 同じ言葉を再び枕に、その続きを彼女は発する。


「お願いだ。その可能性があるなら──できるなら。やって、もらえるなら。助けてほしい。あたしの、妹を」

 

     *   *   *

 

 考えてほしい。

 その答えがノーでも、かまわないから。

 でも、もしイエスと言ってくれるなら。雪村さんの持ってるそのちからを、貸してくれるなら──……。


「──わたしの、……ちから」


 彩咲さんの声を、脳裏に反芻する。

 妹さん。──妹さん、か。

 彼女はそのかけがえのない存在を救ってほしいと、翠に願った。

 できるかどうか。それすら知らず。けれど、切に。その気持ちは相対していて、翠にも伝わってきた。


「翠。どしたの、なんか元気ないね」


 あれからひと晩、ずっと彼女のことを。その願いについて、考えていた。そしてその思案は、聖せんぱいと一緒のこの登校の道すがらも消えない。

 すぐにじゃなくていい、答えを出してほしい。そう言って去っていった彩咲さんのこと。自分がどうするか。どうすべきか。願いを向けてくれた少女に対し、どうしたいのか。結論を探さなくてはいけない。


「──せんぱい。せんぱいも、妹さん、いましたよね」

「へっ? そりゃ、いるけど。……でも、「も」?」

「あの。わたしの、ちからのことなんですけど」


 不意に言葉を投げかけられたせんぱいは、翠の見下ろす隣で頭にはてなマークを浮かべて首を傾げている。

 妹さんのこと。翠自身のちから。突然言われてすぐに結びつく、脈絡のある単語の組み合わせではない。


「もしも。もしも、ですよ。聖せんぱいの妹さんに、なにか大変なことが起こって。わたしのちからが必要になったら──どうしますか?」

「へっ?」

「縁起でもない、おかしな仮定のことだとは自分でも思うんですけど。でも、もしもそうなったとしたらせんぱいは、どうするのかなって」


 目をぱちくりさせていたせんぱいは、やがて暫し、考え込む。

 そして、

 

「要はそれって、うちの妹がなにか、怪我したらってことだよね。しかもわりと大きな。しかも、私や翠の手の届く範囲の場所で」

 

 顎のあたりに手を当てながら、少しずつ、彼女なりの回答らしきものが紡がれていく。

 その、流れ出てくる言葉たちに、翠は固唾を飲んで、その行き先をじっと待つ。

 

「だとしたらやっぱり、翠に頼む……かな。もちろん、翠があんまり周囲には知られたくない、隠しておきたいことだってわかってはいるけれど。それでもそうしなくちゃいけない、必要なことなら、お願いすると思う」

 

 もちろん、無理にとは言わないけど。

 あくまで、翠が受け容れてくれて。拒まない範囲でだけれど。

 

「もし、わたしが断ったら?」

「断ったら……うーん、どうするかな」

 

 そのときになってみないと、わからないかも。

 

「だって私は、翠のちからにどこまで、どのくらいのことができて、どれほど以上のことができないかをまだ知らない」

 

 あの夜見た範疇と、たまに小さな傷を治してもらうくらいで。

 限度をわからない。知らない。

 そのとき、お願いしなければいけない怪我がもしかしたら翠のちからの範疇を超えていて。──どうしても無理なら仕方ない、って思うし。

 

「でも、もしかしたら。それが十分に伝わってなかったら、もしかしたら……翠のこと、恨んじゃうかもしれない。翠にとってはそれは心外かもしれないけど」


 ごめんね、と。

 やってくるかもしれないし、限りなくやってくることのないであろうその未来について、せんぱいは翠へと小声で苦笑気味に、謝った。

 

「それはやっぱり、妹さんだから? 今は遠く離れていても、大切な」

「そりゃそうだよ。もちろん」

 

 姉っていうのは、なんだかんだいったって、妹のことが大事なものなんだ。

 はるか遠く、たぶんそのずっと先の、海の向こう側を見遣るように目を細めて、せんぱいは言った。

 妹、さん。大事な……人。姉にとって。

 やっぱり──そうなんだ。

 

     *   *   *

 

 そしてその人は今日も、翠の目の前にやってくる。

 ただし前回と違うのは、一日じゅうずっと、翠のことばかりを注視し、ほかのことに目もくれないでいるというわけではなかったことだ。

 

「雪村さん」

 

 朝から時折、視線が重なった。

 その都度、なんだか気まずげに目を逸らす彼女の姿が翠の瞳に映った。

 休み時間がやってくるたび、こちらに向かい声をかけようと立ち上がっては躊躇する、その背中にポニーテールが揺れていた。

 

「彩咲さん?」

 

 そうやって迷う理由は、おぼろげながら翠にもわかった。

 願いを向けた張本人が彼女ならば、発したその願いそれ自体が、彼女を戸惑わせている。

 人づきあいが希薄で、誰かに頼みごとをするということが稀であった翠だからそれはわかる。

 昨日、これまで碌に会話も交わしたことのない、翠と彩咲さんの関係性だった。

 昨日は、翠の事情を聴いたその勢いで、抱いた思いの向くままに、願いをぶつけられたかもしれない。

 昨日と今日では、状況が違う。時間が既に、経過してしまっている。同じ心境ではとうにいられない。希薄なもとの関係性が、願いをぶつけた相手という翠の立場の前に、彩咲さんから見て立ちふさがってしまっている。

 なんと声をかけてみればいいだろうか。

 答えを急かすことにはならないか──それが許されるほど、自分たちの間には親しい関係性というものがまだ、ないのではないか。

 訊きたい。でも訊けない。

 かといって、無視を決め込むわけにもいかない。ほかに話題らしい話題が互いないというのに。おそらくはそういう躊躇が彼女にはあったはずだった。

 

「あの。……お弁当。一緒に食べても、いいかな」

 

 その結果が、身構えた者同士の、教室における二度目の相対である。彩咲さんの手には、薄水色の巾着に包まれたお弁当箱がぶら下がっている。

 

「……あなたが一緒に食べる相手、してもいい?」

 

 なんだか肩肘を張ったような変な口調と言い回しで、……言ってから彼女は目線を逸らす。

 たしかに、一緒にお弁当を囲む友人などまだこのクラスにいない翠である。だけれどそのぎこちない言い回しが、やっぱり奇妙で、彼女の仕草とも重なって。

 だからそのおかげなのだ。ひと足先に、翠が自らの、肩の力を抜くことができたのは。

 身構えることなんてない。結局、自分も、彼女も。同い年の、いち高校生に過ぎないんだから。

 なにか、抱えていようとも。

 なにか、普通でないちからを持っていようとも。

 それを求める側と、求められる側に立場が分かれていたとしても、だ。

 

「──はい。わたしで、よかったらですけど」

 

 短い、「いいよ」ではない。そう返した自分の言葉もどこか、きっと彼女の求めていたものとはずれていたのかもしれないと自覚をしつつ。

 翠も自分の弁当を、机の上に置いた。

 本来の主がいない、前の座席の椅子をぐるりとこちらに向けて、正面から向かい合うように、彩咲さんは腰を下ろす。

 

「……なに?」

「ああ、いえ」

 

 そんな、ふたり向かい合った距離感や。ぎこちのない互いの言葉や表情が。なんだか嫌ではない、翠だったのだ。彩咲さんの中にある、本来の、ごく当たり前のあたたかみを穏やかに、実感できる気がして──願いを向けた側の彼女からすれば、翠のそのような思いは不謹慎なものかもしれないが。

 

「こうしてちゃんと、彩咲さんと話したかったから」

 

 まだ、彼女の願いに応えるべきか否か。結論は出ていない。けれど今は、この教室ではじめて直接にふれあい、向き合ってくれた彼女と会話が交わせるだけで、よかった。

 

「そりゃあ……そんなの、あたしもだよ。昨日の今日だろ。きちんと話したかったよ、ずっと。いろいろと、さ」

 

 向き合った、まじめな表情が互いの視界へと交差する。

 いつしかじっと、両者ともに相手を見遣り続けていて、目と目が合って、動かせなくなって。

 ふっと、両側から苦笑交じりにそれが綻んだのも同時。

 ああ。なんて──悪くない、気持ちなんだろう。

 いそいそと、巾着から、ひよこのイラストがあしらわれたクリーム色の弁当箱を引っ張り出す彩咲さんを見ながら、翠はそこに穏やかな感覚を抱くのを自覚する。

 それはこの学校に編入をしてきて、このクラスで日々を過ごすようになってはじめての感覚。

 翠、自身の生活すべてにおいてはそうではない。それは例えるなら、文芸部の皆や、聖せんぱいや。冴さんと一緒に時間を送るその瞬間ひとつひとつとよく似た好ましさが翠には感じられた。

 

「彩咲さん」

「うん?」

 

 お弁当箱のゴムバンドを外して。今まさに蓋を開こうとしていた彼女へと翠は語り掛ける。

 気持ちのいい場所だからこそ、それにばかり身を任せていていい関係性では、まだふたりはない。

 

「わたし、ちからになりたい。彩咲さんと、妹さんの」

「──え」

 

 それはきっと、このときという彼女が予想だにしていなかったであろう瞬間での、翠からの答え。

 翠自身けっして今、このときまでその結論がここに声となって発せられるなんて、思いもしていなかった。

 彩咲さんが息を呑むのも、当然だと思う。

 

「ただ、わたしにもまだわからないんです。彩咲さんと、妹さんのちからに──わたしの持っているこの能力で、なれるかどうか」

 

 だから伝えなくてはならない。

 翠が、ちからになりたいという意思を今ここに、持っているということ。はっきりと。

 そしてそうすることとともに更に、願いを返さなくては。

 

「だから、お願いです。わたしに、試させてほしい。もしかしたらなにもできない、なんのちからにもなれないかもしれない、わたしだけど」

 

 機会を。翠に与えてもらうために。

 今はもうこれは、彼女の願いでなく、翠がはっきりと自分自身の衝動として自然に心のうちに発生をした願いなのだから。

 彼女たちのちからになりたいと。そう思う。その願いは翠自身のなかに生まれ、存在するもの。

 

「もう一度、妹さんに。会わせてくれませんか。妹さんになにがあって。どういう状況で。どうすることが必要なのか、教えてくれませんか」

 

 会って、知りたい。妹さんの、「なにを癒さなくては」ならないのか。

 そして自分のちからを知りたい。妹さんに、「なにができるのか」。

 

「聴いて、話して。知りたい。彩咲さんにも、知ってほしい。わたしのこと」

 

 そう。わたしのちからで、なにができるのか。

 なにが──できないのか。

 彼女たちのちからになりたいからこそ。

 彼女たちともっと、向き合わなくてはならない。知らなくちゃ、いけない。

 

「わたしは知って、──わたしのことを知ってもらわなくちゃいけないんです」

 

 

          (つづく)

第十話、お送りしました。

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