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07

まだ続くけどここで一区切り

 

 ひたすら消沈の中にいた。

 体に力が入らない。

 ブラドの言う通り、先程老人に拘束された時の比ではない。

 力をめた傍から吸い上げられていく。

 どの道もう何かしようという気概もないが。

 まただまされたのだ。

 いや、騙され続けていた。

 初めからここまでずっと。

 いいように使われながら、感謝までして。

 レアリが新たに現れた仲間らしい少女に貫かれた。

 彼女もブラドの仲間だったのだろう。

「リオネラ。何、してるの?」

 ラストと呼ばれていた少女が、愕然がくぜんと問う。

「姉さまを刺してる」

 まるでお茶でも勧めるような気安さで。

「ラストも刺すか?」

「刺さない、よ。何で」

 困惑に、力なく首を振る。

「抜きなよ」

「やーだよ」

「抜けよ!」

 激昂げきこうして駆け出そうとしたラストの背に、何者かが降ってきた。

 あちこち破けているが、隊服を着ている。

 黒い仮面を付けていて顔はわからない。

 それが、力任せに少女を地面に押し付ける。

「くそっ、どけ!」

 仮面の隊士は応じない。

 代わりに、暴れるその首に躊躇ちゅうちょなく刀を突き刺した。

 くぐもったうめき声が小さく響く。

「殺してはいけませんよ。巫女にはまだ利用価値があります」

 上空からの穏やかな声に、仮面の隊士が止まる。

 まず見えたのは飛竜だ。

 地上に降りた竜には、一人の男が乗っていた。

 僕はその顔を知っている。

 村から逃げる途中、道で見かけた中年の男だ。

「エルマー。あれ誰?」

 ブラドが仮面の隊士を指差して聞く。

 やはり仲間だったのだ。

「村で拾ったキースという隊士です。調べたら彼も混血なので、丁度いいから実験も兼ねて仲間にしました」

「まじ? それ仲間って言えるの?」

「勿論。仲間は造るものでしょう?」

「違うと思うなぁ」

 ブラドの否定に、エルマーは軽く肩をすくめた。

「制御は出来ているのでご安心を」

「ならいいや。邪魔入らないようにしてね」

「はい」

 エルマーがうなずくと、ブラドはレアリへと歩み寄る。

「お待たせレアリ。驚いたろ。まさか巫女の中に裏切り者がいるなんて」

「いつから、ですか」

 うつむいたまま、絶え絶えに問う。

 これまでも十分弱って見えたが、リオネラに刺されてからはそれ以上だ。

 もはや顔を持ち上げる余力さえ残っていない。

「最初からだよ。リオネラがお前らの側だった事は一度もない」

「そういう事だ姉さま。悪いけど姉妹ごっこはここまでな」

「そう、ですか」

解呪かいじゅの霊装も、俺が持ってると思ったろ?」

 レアリは答えない。

 その気力もないのだろう。

 ブラドは構わず続ける。

「いやまぁ、持ってるんだけどね」

「あれだな。万全を期して私やトットにも持たせてただけだな」

 今レアリに刺さっているのがその霊装なのだろう。

「強制的な解呪は肉体的な負担が大きいからきついだろ」

 それは、既に呪いが解けている事を意味していた。

 ブラドの目的は達せられた。

「でも手当はしないよ。お前の場合瀕死ひんしくらいじゃないと安心出来ないからな」

 この先どうなるのだろう。

 失意の狭間でそんな事を考える。

 殺されはしないらしいが、ブラドは僕の怒りを知っている。

 それを向ける相手に何をするかも。

 自由が与えられるとは到底思えない。

「ま、暴れたいなら暴れてもいいけどね。もう死んでも困らないし」

 今度こそ終わりか。

 そう思った所で、些細ささいな違和感に気付いた。

 際限なく吸い出されるかに見えた力の流れが、いつの間にか止まっていたのだ。

 それだけではない。

 既に奪われた分の力まで感じる。

 槍に。

 そしてそこから流れ出したらしい地面に。

 その繋がりは、まだ断たれていない。

 知覚したそれを、物は試しと手繰り寄せる。

 まずは地面に流れた分から。

 わずかな抵抗の後に流動を始めた。

 ゆっくりと、けれど次第に勢いが増す。

 虚脱感が抜けていく。

 それが終わると自身を縫い付ける槍。

 そちらに意識を向けて、また気付く。

(動く……?)

 手を触れてもいないのに、体を貫くその槍が。

(待て)

 衝動的に抜きたくなる気持ちを抑える。

 この状況ではまだ動かすべきではない。

「結界は三人もいれば十分に維持していけるし、いざって時は俺もいる」

 幸いと言うべきか、ひとりでに持ち上がる槍に気付いた者はいなかった。

 自分の霊子れいしで満たされているせいだろうか。

 槍はまるで体の一部にでもなったようにその詳細が知覚出来た。

 これなら尖端せんたんから収束砲くらいは撃てる。

 全て消してしまおう。

 ブラドに一矢報いるというような功名心はない。

 単純にもう終わりにしたかった。

「レアリ……」

 今の彼女に言葉が届くだろうか。

「お、ツカサが何か言いたいみたいだぞ。聞いてやれよ」

 ブラドがレアリの髪を掴んで顔を持ち上げる。

 瞳こそ開いているが、そこに意識があるかはわからない。

 酷く朦朧もうろうとしているように見えた。

 聞く限り、今後の巫女は僕と変わらぬ処遇が待っている。

 生かさず殺さず。

 ブラド達にとって都合よく使われるだけだ。

 それならいっそ……。

「ごめん」

 こんな責任の取り方しか出来ない。

 諸共に巻き込むその身勝手をびる。

「先生!」

 こちらの意図か、あるいは別の異変を察したらしいトットの叫び。

 あんなに冷静だった少女もあせる事があるのだ。

 そんな事をぼんやり思った。

 だが気付いた所でもう遅い。

 構わず大地を撃ち抜く。

 直後、膨大ぼうだいな光と共に地面がぜた。

 体が宙を舞う。

 強風にあおられた木の葉のように。

 凄まじい衝撃だった。

 これで消滅が叶う。

 目を閉じる。

 数瞬の後、まぶた越しに感じる光すらも絶えた。


 §


「あー……やられたー」

 大の字に寝転びながら、ブラドはなげく。

「戻りました」

 そこにトットが来る。

「おかえり。街の様子どうだった?」

「ツカサさんが第一射を放った段階から避難が始まっていたようで、死傷者は殆ど出ていませんでした」

「運がいいね」

 上体を起こす。

「こんだけ派手にやらかしといて」

 ブラドの目の前には、ほとんがけに近い斜面が広がっていた。

 少し前まで丘や森があった場所が、見る影もない。

 あるのはさじすくい取られたような円形の窪地だけだ。

 ただ、その規模が尋常ではない。

 対岸は見えているものの、目測でも一キロは離れて見えた。

 その断面には地下を走る霊脈が点々と輝きを放っている。

「いやぁ、駄目ですね。誰も見つかりません」

 飛竜に乗ったエルマーが降りてくる。

「マジ? 誰も?」

「向こうの端に、鎧を着た方が倒れていましたが、老師ではありませんでした」

「あぁ、確かノーランドみたいな名前の」

 ケイモンの隊長だ。

「モーリッツだったかと」

 トットが訂正する。

「そうそれ。死んでた?」

「いえ。彼も混血でしたが因子は薄かったので置いて来ました」

「えーかわいそう」

「リオネラちゃんのお戻りだぞ、と」

 今度は窪地から浮かび上がる形で現れた。

「おかえり。いた?」

「いないぞ」

「困ったな。死んじゃったのかな」

 手分けして探していたのはツカサを始め巫女や老師達である。

「即座に対応出来た我々ですら危うい状況でしたからね」

 死んでいてもおかしくはない。

 だが同じくらい生きていてもおかしくない。

「あとはもう、あそこしかないな」

 リオネラが今しがた出てきたクレーターを指差す。

「あー……」

 ブラドは渋い顔で立ち上がる。

 そこにあるのは半円状の巨大な窪地、だけではない。

 その中央に、更なる深層へと続く大穴が空いていた。

 最初に合流した時点で覗きに行きはしたのだ。

 一切光の届かぬ闇が、そこにあった。

 霊脈の存在しない地層である。

 ツカサの放った砲撃が貫いたのだ。

 クレーターはその余波に過ぎない。

 どこまで続いているのか。

 興味本位から、光らせた霊石を落としたりもした。

 だがあっという間に見えなくなり、衝突音すら返ってこない。

 深すぎる。

 どれほど潜れば底に着くのか見当も付かない程に。

 ここは他を見てからでもいいだろう。

 少なくとも真っ先に確認する場所ではない。

 そういった経緯でまずは周囲から探す事にしたのだ。

「でもあそこを探すのは人も時間も足りないからなぁ」

 飛竜を使うにしても、上下の移動となると消耗の度合いも変わってくる。

 また、底に着いたはいいがここまで昇って来れないのでは意味がない。

「私はもう疲れたぞ。そろそろ帰って休みたい」

 リオネラが崖のへりに座ってぼやく。

「うーん」

 彼女は祈祷を終えてから何日も経っていない。

 むしろよくここまで働いてくれたものだ。

「じきに隊士か街の人間がやってくるでしょうし、頃合いではありますね」

 これだけ大規模な破壊の跡地に巫女がいて体裁が良かろう筈もない。

「さっき落ちてきた虚無きょむの動きもわかんないんだよなぁ」

 麓まで地面をえぐられながらも、霊峰自体は無事である。

 山頂を攻められた割りに神威も健在。

 立ち去ったか。

 直撃を受ければ跡形も残らない攻撃が間近で起こったのだ。

 一目散に逃げ出していてもおかしくはない。

 あれはそれ程の脅威だった。

「入ってきた虚無があれだけとも限りませんし、まずは本丸を抑えてからでも遅くはないかと」

 少数で調べていてもらちが明かない。

 情報を集めるには相応の組織力を要する。

 そしてそれは、今なら手に入る。

「OK。エルマー替えの服持ってきて」

「わかりました」

 エルマーが荷物の置いてある飛竜へ向かうと、ブラドは両手で自身の顔を覆った。

「んー」

 うなるような声と共に変化が起こる。

 一番顕著けんちょだったのは頭髪だ。

 色は黒から金へ。

 後ろ髪が腰まで伸びていく。

 そちらを見ている内に、いつの間にか体も一回り程縮んでいた。

「じゃじゃーん」

 手をどけると、レアリと瓜二つの顔がそこにあった。

 体格や声まで同じだ。

「どう?」

 満面の笑みに、両手でピースサインまで作る。

「姉さまはそんな事しないし、言わない」

「でしょうね」

 リオネラから入る真顔の駄目出しに、鷹揚おうよう首肯しゅこう

「あ、それ姉さまっぽい」

「それも、でしょうね」

 言いながらぼろぼろの服を脱ぎ始める。

「あー、姉さまはこんな場所で平然と脱いだりはしないと思うな」

「でしょうね」

 恥じらう素振りも見せず、あっという間に一糸纏わぬ姿となる。

「それしか言えないとなるとあれだな。ちょっと先が思いやられるな」

「冗談ですよリオネラちゃん」

 そこにエルマーが戻って来る。

「偽物とわかっていても中々良い眺めですね」

 ブラドに服を渡しながら。

「不敬ですよエルマー」

 言葉の割に責めるような響きはない。

「失礼しました」

 こちらはうやうやしくこうべを垂れる。

「エルマー。何ですかこれは」

 すっかりレアリ気分のブラドは渡された服を広げてみせる。

 たった一枚の大きな布を服と言ってよければだが。

「生憎と持ち合わせがそれしかなかったもので」

「これならさっきの襤褸ぼろのままでもよかったな」

 リオネラが肩を竦める。

 全員おおむね似たような損傷具合だ。

「これを巻けって事?」

 ブラドが元の口調で問う。

「そうなりますね」

「巫女にそんな、追いぎにいましたみたいな恰好させて罪悪感とかはないの?」

「尊厳について語るならまず何かまとうべきかと」

 ここまでずっと全裸のままだ。

「リオネラちゃんこいつ……頭高くない?」

「何だろう。少しその路線の姉さまも見ていたくなってきたな」

「出来れば恰好もレアリっぽくしたかったんだけど、まぁいいか」

 言いながら体に巻き、最後に首の後ろで縛る。

 即興にしてはドレスらしく見えない事もない。

 自分でも納得のいく恰好だったのだろう。

「うん」

 得意げに一度頷いて言った。

「――それでは、私の築いてきた物を壊しに行きましょうか」


 §


 暗闇の中にいた。

(死んだのか)

 呆然と思う。

 それにしては妙だった。

 体の感覚がある。

 何も見えないが、やけに柔らかい場所に寝かされていた。

 やや窮屈で身動きは取れない。

「ぐ……ぅ」

 妙な呻き声まで聞こえてくる。

 流石におかしい。

 気付くと同時に、周囲に青白い光が生まれた。

 唐突な変化に目が眩む。

 かと思えば、まるで泡沫うたかたの如く光が消えていく。

 途端、浮遊感に襲われる。

「あ――」

 結界の煌めきが遠くに見えた。

 自分は空にいるのだ。

 漠然とそれだけはわかった。

 背後からの強風。

 落ちている。

 なぜ?

 疑問と同時に背中を叩く衝撃。

 水だ。

 沈みながら気付く。

 明るい。

 水中に霊子が満ちているせいだろう。

 このまま水底へ沈むのもいいか。

 しかし捨て鉢な意思に反して体は浮かび上がった。

 あれから何が起こったのか。

 釈然としない部分が多い。

 あそこで死ぬつもりだったのだ。

 生き永らえた喜びなどない。

 むしろあれで死ねない事に落胆すら覚えた。

「レアリ!」

 少女の声に目を向ける。

 確か、ラストと呼ばれていた。

 呼び掛けられているレアリは気を失っているらしい。

 そうか、と思う。

 レアリに助けられたのだ。

 小さな泉に、それを囲う木々。

 ここがどこかはわからない。

 だがあそこから抜け出し、ついに力尽きて落ちた。

 僕まで助ける必要なんてなかったのに。

 心苦しさから、岸に引き上げるのを手伝う。

「っ!」

 近寄ると、ラストは僕を睨みつけた。

 その瞳に葛藤をにじませながら。

 けれど迷っていたのは数秒。

 近づくなと怒鳴られる覚悟でいたが、ラストは黙って受け入れてくれた。

「……待ってて」

 岸に上げる手前でラストは先に自分だけ水から上がった。

 近くの木に歩み寄る。

 その中から太めの枝を一本、根元から手刀で断ち切る。

 続けて細かい枝葉も落としていく。

 次に、ラストは自分の服の袖を引き千切った。

 それを折り畳んで枝に乗せ、岸辺に置く。

「頭をこの上に。体は浸けたまま」

 枕を作っていたのだ。

 言われた通りにする。

「病院に連れて行ったりとか――」

 しなくていいのか。

「私達にはここが病院」

 聞き終わる前に答えにさえぎられた。

 意味はわからないが、首を刺されたラストは既に傷もなく平然としている。

 僕も大概だが、彼女達も普通の人と違うのかもしれない。

 そういえば体の傷も、刺さっていた槍もなくなっていた。

 あの衝撃で抜け落ちたか。

「あんた、何なの?」

 言われてみれば、レアリとの会話中彼女はいなかった。

 ずっと気になってはいただろう。

 よくここまで疑問を後回しにしてくれたものだ。

 どうせ他にする事もない。

 僕はこれまでの事を話した。

 それこそあの夜、レアリの姿をしたブラドに出会った所から。

 思えば一から誰かに話すのは初めてだ。

 理路整然と語れた訳ではない。

 それでもラストは途中で口をはさむ事無く、最後まで黙って聞いてくれた。

「……後は、君らも知ってる通りだよ」

 彼女達を巻き込んでの自爆。

 その負い目から顔を背ける。

「何それ。馬鹿過ぎ」

 彼女の感想は極めて簡潔で、同時に辛辣しんらつでもあった。

 けれど直截ちょくせつに投げつけられたその所感に、不満や怒りはない。

 何より、僕自身がそう感じているのだから。

 自分の愚かさが招いた過ちである。

 気遣いを口にされるよりずっとよかった。

「――あまり、彼を責めては、いけませんよ」

 沈黙の後にか細い声でそう言ったのはレアリだった。

 起きたのか。

 あるいは元から意識はあったのか。

「レアリ、平気?」

 心配そうにラストが問う。

「ええ。ありがとうラスト」

「いいよ。今はちゃんと休んで」

「はい」

 ラスト越しにレアリを見る。

 白く生気の抜けた顔。

 回復にはまだ時間が掛かりそうだった。

 即席の枕に頭を乗せたまま、レアリの視線がこちらに向く。

「話は、聞こえていました」

 やはり意識はあったらしい。

「大変でしたね」

 しくもブラドの述懐じゅっかいと被る。

 しかしそこに含まれる情感はまるで別物であった。

 それはいたわるような眼差しにしてもそうだ。

 こうして見ると、ブラドの演じていたレアリとはまるで違う。

 当然の事だが別人である。

「ごめん……」

 どうして気付けなかったのだろう。

 視界が涙で滲む。

 あまりにも情けなくて。

 間違いを犯さずに済んだ場面など、今にして思えばいくつもあった。

 その度にそんな事はなかろうと違和感にふたをし続けて。

 どこまでも受け身に、流されるままここまで来た報いだ。

 言う通りにしていれば何かを得られる気になって。

 結果全てを奪われるとも知らずに。

 いや。

「僕に、何もないせいで」

 最初から一つとして持っていなかった。

 それ故に欲しがった。

 自分は選ばれたのだと、都合のいい勘違いまでして。

「まんまと乗せられて、君達を巻き込んで、ごめん」

「巻き込んだというなら、それは私の方です」

「え?」

 何を言い出すのかと、俯く顔を持ち上げる。

「元は私が、あのブラドという男との因縁を断てなかったせいで、招いた事態なのですから」

 確かにさかのぼれば原因はそこなのだろう。

 だがだからといって僕の愚行がなくなる訳ではない。

「ですがそれを承知で、私達はあなたに頼らなければなりません。たとえあなたの抱く罪悪感に付け込む形になっても。そうでなくては、きっとブラドは倒せません」

「僕が――」

 ブラドと戦う?

「無理だよ」

 ブラドは常に周到だった。

 そんな相手に立ち向かった所で、勝てる気がしない。

 捕まった後の事など考えたくもない。

 この命にどれだけの猶予ゆうよが残されているかわからない。

 だがせめてその時までは静かに過ごしたかった。

 騙された事に対して、もはや怒りも憎しみもない。

 それを知った時点で原動力となっていた情動は抜け落ちてしまった。

「あなたは、自分に何もないと言いましたね」

 言った。

 これはどう取りつくろおうと揺るがない事実だ。

 それは恐らく、こちら側に来る前から変わらなかったろう。

おのが空虚をなげくなら、それを補うに足る行いをして下さい。それをおこたったままで埋まる程、この世界はやさしくありません。何かを得るため、今ある最低限さえも失わないために、人はそれを行うのです」

 弱弱しく語るレアリの声は、それでいて心にはやけに重く響いた。

 ここまで流されるばかりだった僕には、余計に。

(今ある最低限さえも、か)

 ままならないものである。

 だがその通りだろう。

 この先逃げ切れる保証もない。

 嫌になったからと言ってその場で降りられるような話ではないのだ。

 腹をくくるしかない。

 こちらのそんな沈黙を、逡巡しゅんじゅんと取ったのだろう。

「もし何か得られる確約が欲しいのでしたら、ブラドを倒せたあかつきには私を差し上げます」

「――は?」

 レアリはとんでもない事を言い出した。

「レアリ!?」

 ラストが悲鳴に近い声を上げる。

 驚きは直接言われた僕より遥かに大きい。

「本気? こんな奴にそんな」

 悔しいが正気を疑う気持ちは同じだった。

「こちらから支払う事なく、一方的に差し出せと迫る相手を、誰が信用出来ますか」

「…………」

 僕は出来ていたのだが、そこまで言い切られると言い出しづらかった。

 レアリは僕の罪悪感に付け込むと言った。

 しかしこれでは逆だ。

 僕がレアリの弱り目に付け込む形になってしまっている。

「や、やるよ」

 そんな事はしなくていいと、慌てて告げる。

「えろがき、最低」

 ラストのさげすむむような視線。

 タイミングが悪かったせいか完全に誤解されていた。

「いや、そういう意味じゃなくて」

「私は別に構いませんよ」

 レアリはレアリで覚悟が決まっているのか、鷹揚おうように応じる。

 こんな少女だったのだ。

 これまで抱いていた印象との差に一々驚かされる。

「話も決まりましたし、すみませんが少し眠ります」

「あ、うん」

 今もかなり無理をしていたのだろう。

 レアリはすぐに安らかな寝息を立て始めた。

 元々限界まで消耗していたのだ。

 回復するまではここに居るしかない。

「レアリから離れて」

 間に入ってきたラストに、胸を押される。

「ご、ごめん……」

 僕のした事を思えば当然だが、やはり嫌われている。

 傍にはラストがいれば十分だろう。

 泉から上がり木の根元に腰掛ける。

(うわ)

 体が震えていた。

 いつかブラドの前に立つ。

 その時の事を考えた途端にこれだった。

(怖いな……)

 ラストに気取られぬよう、きつく膝を抱える。

 どうやら僕にも時間は必要らしい。

 この恐怖を克服するための時間が。

 消えるだろうか。

 そんな不安もある。

 消さねばならない。

 でなければ先はない。

 戦うのだ。

 今度は自分の意志で。

 今ある最低限を失わぬために。

 決意と共に、強く拳を握りしめた。


続き→https://ncode.syosetu.com/n5641hk/1/

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