02
これはファンタジーなんだろうか
(――誰?)
真っ先に浮かんだのがそれだった。
記憶にない。
レアリでも、それ以前に来ていた二人組でもない。
若い男だ。
背にはリュックを背負っている。
容姿も身長も恰好も、あまり特徴がない。
まるで全てにおいて平均で作られたような。
「いえーい。俺の事見えてるー?」
やけに陽気な笑顔で手を振ってくる。
「見えてるし、聞こえてる」
「あ、よかった」
「誰?」
「俺? 俺はブラド。君は?」
「……司」
「ツカサはいつからここに居んの?」
「……ずっと」
期間については他に答えようがない。
時間の経過を確認する手段がないのだ。
体感では数年。
だがそこには何の確証もない。
「へぇ、じゃあここに来る前は?」
「来る前……?」
こんな、手足のない状態で洞窟に放置されている相手に聞く事か?
なぜ過去があると思った?
馬鹿にしているのか。
「……?」
だがブラドの瞳にあるのは、純粋な好奇心だけだった。
それを見て、芽生えかけた苛立ちも萎れる。
「僕は――」
それから、自分に起こった事を順に話し始めた。
どうせ信じまい。
それでもよかった。
久しぶりの会話だ。
話しているだけでだいぶ気が紛れる。
まずは元は別の世界にいた事。
レアリという妖精との出会いと願い。
それに応じた事。
永い夢を見せられ、起きたらここに居た事。
しばらくしてレアリが現れた事。
そして彼女から聞いた話。
まるで他人事のように淡々と話し続けた。
ブラドは、たまに疑問を挟みながらも疑う素振りは見せずに耳を傾けた。
「なるほど!」
そして話が終わると、満足げに頷いた。
「大変だったね」
大変だった。
(いや、そうなんだけど)
まさかこれまでの体験をその一言で済まされるとは思ってなかった。
その一言で済ませられるという事実も少なからずショックだった。
「もし外に出たいなら手伝うけど、どうする?」
「――え?」
数瞬、言葉の意味を捉えかねた。
出る?
どこから?
ここから?
「何を、言って」
そんな事が許されるのか。
「あ、もしかしてレアリとかここの管理してる奴らの事を心配してる?」
している。
自分が逃げたと知れば当然追手が掛かる筈。
「大丈夫。俺に良い考えがある」
親指を立てて、得意げにそう言った。
§
「元々この世界は、その多くが虚無で満たされていた。らしいよ」
洞窟を抜けるまでの蛇行した道を歩きながら、ブラドは話し始めた。
「存在を確立させる事が難しくて、たとえ上手く形になってもすぐ消えてしまう。その儚さを嘆いた神が、一つの箱庭を作った」
それは、この世界の成り立ちだった。
「そこでは、人が人のままでいる事が出来た。生きる事が出来た。栄える事が出来た。でも人々は安定した暮らしに溺れ、享楽に耽り、やがて神の存在を忘れた。そしてそれが神の逆鱗に触れた」
人間の過ちとその報い。
ありがちな話だな、とリュックの中で思う。
苦しくないよう、頭部だけは外に出ている。
中の居心地こそ悪くはないが、ここまで殆どされるがままだ。
勿論期待はある。
自由になれるならそれに越した事はない。
だが無理だったら?
またあそこに戻る。
その時の事を考えると怖くて堪らない。
今はただ、祈るばかりだ。
「その時一度、結界が壊れたらしい。人々は大いに慌て、神に許しを請うた。そして意外にも、その願いはあっさり聞き入れられた。もちろんいくつかの条件付きで」
「それは?」
「まず、神の存在を忘れない事。次に感謝も忘れない事。そして世界の安寧を祈る事。これらを守る限り、この世界の存続を保証する」
随分と宗教らしい教義が出てきた。
「この世界で暮らす者なら誰でも知っているし、信じてる話だ」
信じてる話。
まるでそれが史実ではないと言いたげに。
「祈りに満足した神は、以来己の分け身を四つの霊峰に宿し、人々の暮らしを見守り続けている――事になっている」
それはおかしい。
レアリ自身が言っていた事だ。
この世界を守る結界は、異なる世界に生きる者達の魂によって賄われているのだと。
「もう気付いてるだろうけど、これは表向きの教義で、聞こえを良くするための方便だ。安寧の裏で払われている犠牲なんて、知った所で誰も喜ばないからね」
家畜の屠場を見たがらない心理と一緒か。
神が宿るとされる場所に全く別のモノがいるのは、確かにまずい。
おまけに教えと異なる事を話すとなれば尚更。
レアリが立ち入りを禁じたのも頷ける。
「ブラド、さんは、どうしてここに?」
まさか許可を取ったとも思えない。
仮に取っていたとしても自分を逃がすのはやりすぎだ。
「ブラドでいいよ。最近ここが禁足指定されたって聞いたから、気になってね」
好奇心という事か。
それは果たして見付かった時に伴う危険と釣り合うのだろうか。
「もうすぐ出口だ。外に出るのは初めてだっけ?」
意外に早かった。
「うん」
「綺麗だよ。この世界は」
その言葉と同時に、頭上の景色が切り替わる。
岩肌から樹木の枝葉に。
外は夜らしいが、暗くはない。
洞窟同様、植物も仄かな光を発しているからだ。
木の幹も、枝葉も、腰まで伸びる雑草まで。
それらを見せる為か、ブラドは一旦立ち止まった。
「――――」
幻想的な景色に、思わず言葉を失う。
「何で、こんな」
光っているのか。
「この光は霊子って言われてて、神様の与えて下さる力――まぁツカサみたいのから吸い上げた魂の事なんだけど、その影響だね」
なるほど、と納得しかけて疑問が生じる。
「あれ、でも僕はもう」
あそこにはいない。
「そう。だからこれは今この霊峰に蓄積されてる分だね。山頂は見える?」
言われて見上げる。
空を覆う木々の隙間から、天に向かって伸びる光の柱が見えた。
「霊峰のエネルギーはああやって結界に送られていくから、もうしばらくしたらこの光も消えるよ」
長くは持たないが、非常用の予備電源のようなものか。
「そうなってからツカサの不在に気付いても、俺達は逃げた後って寸法さ」
「でも、いいの? 僕がいなくても」
自分がいなければ、結界の維持は難しいのではないか。
「いーのいーの。どうせ霊峰は他に三つもあるし、ここもすぐ代わりが呼ばれるよ」
軽い調子で手を振って歩き出す。
背の高い雑草を掻き分けて進む。
「あの、出入り口はここだけ?」
草木に覆われ、とても人の出入りがある様に見えない。
曲がりなりにも神を祀る場所の入り口がこれでいいのか。
「ここは霊峰の中でも限られた者しか知られていない場所だからね。表向きの本尊を奉る社は山頂にあって、そっちは参拝者もあるし仰々しい造りになってるよ」
「ああ、だから」
本来秘匿されるべき存在であれば当然だ。
「これからそっちの道に出て、他の参拝者に紛れて山を降りる」
道筋に関しては任せるしかない。
いや、任せると言ったら全てブラド任せなのだが。
「え、大丈夫なの。人目とか」
参道がどの程度整備されているのか知らないが、こんな茂みからリュックに人を入れた男が出て来れば目立つだろう。
「下から上まで一直線て訳でもないし、人の切れ目を上手く狙うよ。とにかくここで見つからなければ平気だから」
「おいお前、そこで何をしている!」
正面からの掛け声。
人影は二つ。
言った直後にこれだった。
「そう見つからなければね」
肩を竦めながら。
「ど、どうするの?」
ここで見つかるのはまずいのではないか。
「お、落ち着け。れれれ冷静になれ」
そんな言われ方をしてどう落ち着けというのか。
見つかった以上、逃げ出せば更なる追手が掛かる。
だからといってじっともしていられない。
「おぉーい。助けてくれー」
何を思ったのか、ブラドは臆する事なく手を振りながら歩き出した。
「え、え?」
なぜと聞いてる余裕はない。
男達はもう目の前だ。
「どうした。なぜこんな所に」
男達はそれぞれ腰に刀のような物を佩いている。
対するブラドは空手。
リュックにも武器になりそうな道具はない。
仮に入っていても一番上にいるのが自分だ。
取り出すまでに時間が掛かる。
力尽くでの突破は無理だ。
「その背中のは誰だ?」
「わからないんです。こいつ、向こうの洞穴で倒れてて」
「洞穴?」
「お前、あそこに入ったのか?」
「はい。山菜採ってたら、たまたま見つけて」
その言い訳は少し無理がある気がした。
「山菜? 参道以外の立ち入りは禁じられているんだぞ」
「とにかくこいつを見てよ。さっきから様子が変なんだ」
僕の入ったリュックを下ろし、片方の男に差し出す。
「え、え?」
ブラドの意図が掴めない。
こんなのは聞いていない。
木に寄り掛からせる形で地面に下され、リュックが開かれる。
「これは、手足のない、子供か?」
驚く男の顔。
その背後で、誰か倒れるのが見えた。
「?」
物音に、男が首を回らす。
同時に、その頭部がずるりと滑り落ちた。
「――え?」
遅れて倒れる男の向こう側に、細身の短剣を持ったブラドがいた。
男達の持っていた刀ではない。
一体どこに隠し持っていたのか。
「なっちゃいないね」
「え?」
何が?
「禁足地で山菜とか採ってるカスは見つけ次第斬首でしょ。やる気あんのか」
言いながら、死体から衣服をはぎ取り始めた。
持っていた短剣はいつの間にか消えている。
状況についていけない。
ただただ訳がわからなかった。
「なんで、なんで」
殺したのか、という言葉が出てこない。
「なんで殺したのかって?」
男達が袴のような服の下に着ていた薄手の肌着を被せられる。
「そりゃ殺すでしょ。またあそこに戻りたいの?」
来た道を指差しながら。
「それは」
嫌だ。
嫌だが。
「でも、殺さなくても」
「はあ?」
ブラドは呆れたように首を傾げた。
「ツカサ、それは余裕のある人間に与えられた選択肢だよ。状況ちゃんと把握出来てる? 俺達にはその余裕がないんだから、なりふり構ってられないんだよ?」
ブラドの言っている事は正しい。
圧倒的に。
助かりたいくせに犠牲は出したくないというのは、いくらなんでも都合が良すぎる。
それも、全て人任せの状態で。
「……ごめん」
下手に加減したせいで逃亡に失敗しました、では何の意味もない。
優先順位を見誤れば何も立ち行かなくなる。
「わかってくれたならそれでいいよ。行こう」
ブラドが改めて自分を背負い直す。
「まぁ、生かしたまま制圧する事も出来たんだけどね」
「――え?」
急に何を言い出すのか。
「なんてね。冗談冗談」
肩を竦めて歩き出す。
その真偽は、結局質す気になれなかった。
山の中腹を半周程して、ようやく参道に辿り着いた。
「あれ?」
茂みの中で人が途切れるのを待っている時だ。
おかしな事に気が付いた。
「どした?」
「いや、そういえばさっきの人達、血が出てなかったなって」
片方はよくわからないが、もう片方は確実に首を斬られたのだ。
目の前にいた自分などは血塗れになっていてもおかしくはない。
それなのに、顔に何か掛かった覚えもない。
今着ている服にもそれらしい汚れはない。
「いや、一応出てはいるよ」
「え?」
「体の構造上、揮発性の高い霊子が抜けると傷口はあっという間に固まるってだけ」
「その、霊子って、人にもあるの?」
「ある程度はね」
頷いてから参道に出る。
人が捌けたのだ。
緩やかな石段が不規則に蛇行しながら麓まで続いている。
しばらく降りていくと、参拝者らしい二人の男女が上がってくるのが見えた。
ブラドが軽い会釈で応じるのを見て、自分もそれに倣う。
人がリュックで運ばれる事に対して訝しむ様子はない。
一先ず胸を撫で下ろす。
「――あ」
が、次に下方に見えた二人組に、思わず声が漏れた。
先程ブラドが殺した二人と同じ服装。
恐らくは、ここを管理する側の人間。
こちらに上がってきている。
「おやおや」
「ど、ど」
どうするのか。
今更隠れる訳にもいかない。
その距離が、みるみる縮んでいく。
「なんとどうもしないんだな。これが」
「こんにちは」
「参拝ですか?」
「はい」
「そちらは?」
二人の視線が自分に向けられる。
「弟です。手足がその、不自由ですので、僕がこうして一緒に」
ブラドが淀みない口調で嘘をつく。
「それは素晴らしい。きっと神も加護を与えて下さる」
男達は揃って右手を縦にして胸の前に置いた。
略式で行う合掌のような仕草。
それがこの世界の作法なのだろう。
「ありがとうございます」
「よろしければ麓までご一緒するが?」
「いえ、これも兄の務めですので」
「そうか。では道中気を付けて」
「はい」
「良い兄君を持ったね」
「あ、ありがとうございます」
かくかくと頷きながら応じる。
会話はそれだけ。
「信仰篤き隊士に感謝」
声の届かぬ距離になってから、ブラドが言った。
「随分あっさり切り抜けられたね」
もっとあれこれ詮索されるものと思っていた。
「教団の人間は敬虔な奴ばっかだから、いい子ちゃんぶっとけばイチコロよ」
「教団?」
「そ。この世界はオラリオって教団主導の宗教国家なんだ。ツカサをこの世界に連れてきたレアリってのは、そこで神に祈りを捧げる巫女の役割を担ってる」
「そう、なんだ」
唐突に出された名前に、うまく反応出来ない。
「やっぱり、偉い?」
レアリ、と。
彼女の事を思い出すと、どうしても復讐という単語が脳裏に過る。
「その辺ややこしいんだよな。教団の運営は老師連中がやってるけど、世界の命運を握ってるのは巫女だし。偉い事は確実なんだけど」
「組織の象徴みたいな存在だけど、実質的な国政には関与しない。みたいな?」
「ああ、まさにそんな感じ」
天皇かよ。
いくらなんでもハードルが高すぎる。
彼女に危害を加える事は、そのまま世界そのものを敵に回すようなものだ。
あまりの途方もなさに、唖然としてしまう。
「僕はこれから、どこに行くの?」
逃げられただけでよしとするか。
そんな考えが芽生えた。
「麓のすぐの所に街があるだろ?」
「うん」
「あれが東都エアル。この霊峰と同じ名前を持つ街で、この後山の活動が止まれば調査の手は当然あそこにまで及ぶ」
「うん」
となるとそこに留まる訳にはいかない。
「だから俺達はそのずっと向こうの、隠れ家のある村まで行く」
ブラドの指差す先に目を向ける。
かなり遠くに並ぶ山々の稜線が見えた。
正確にはわからないが、数キロで済む距離ではない。
一日歩き通してもまず着くまい。
この辺りの植物は光を放っているが、東都から離れるに従って徐々に暗くなっている。
確かに身を隠すには丁度いいのかもしれない。
「あれ?」
――と。
その時、空に陰りが生じた。
元々暗い夜空だが、最大の光源であった山から立ち上る光の柱が消えたのだ。
「思ったより早いな」
「大丈夫かな」
「こんなの歴史的に見てもそうある事じゃないし、上は大騒ぎだろうね」
声こそ穏やかなものだが、ブラドの歩調が僅かに上がる。
軽快に、けれど急いでいるとは思われぬ程度の速度。
少し増した揺れの中で思う。
ブラドはなぜここまでしてくれるのだろう。
こう言っては悪いが、同情という風には見えない。
一応こちらの言う事は信じてくれている。
それは嬉しい。
しかしその理由は未だ判然としていない。
何せこちらは話を裏付けるような根拠もろくに示せていないのだ。
それなのに疑う素振りすら見せなかった。
――迎えに来たよ。
彼は最初にそう言った。
あの時は聞き流していたが、それは明確な目的がある者の言葉だ。
ここまでの事を思い返すと、ブラドは教団やその教義を軽んじる言動が目立つ。
恐らく信徒ではないのだろう。
ブラドにはブラドの事情があると言ってしまえばそれまでだが。
レアリとの事があるせいで、それがわかるまでは容易に信じきれない。
今はそれらを質している場合ではないが、いずれは聞かねばならない。
まずはここを切り抜けてからだ。
考えている内に麓に着いた。
山の異変に早くも人だかりが出来ている。
これ以上騒ぎが広がる前に東都から出たい所だ。
街は山をぐるりと囲むように展開しているが、ブラドの示した方角へは降りてすぐの大通り一本で行ける。
しかしブラドは降りてすぐ右に曲がった。
「え?」
なぜ、という疑問にブラドもすぐ気付く。
「預けてた地竜を引き取るだけだよ。これ、厩舎」
真横にあった建物を指差しながら大きな入り口を潜る。
「地竜?」
独特な臭いが鼻を突く。
照明が弱いせいか、中は外よりも薄暗い。
「移動に使うんだ」
よくわからないが、馬のようなものか。
中に進むと、房の隙間から巨大なトカゲの頭部が覗いていた。
「でっか」
「奥には飛竜もいるよ」
飛竜。
「まさか、飛ぶの?」
「そりゃまぁ、飛竜だから」
少し乗ってみたい。
「おかしいな。管理人がいない」
「騒ぎのせいで外に出てるとか?」
「ああ、ありそう」
「――おや、今お帰りですか?」
と、奥から出てきた男が声を掛けてくる。
生憎と言うべきか、管理人ではない。
また隊士だ。
しかしこれまでと少し恰好が違う。
役職が違うのか、上に一枚薄手の外套を羽織っている。
「はい」
「そちらは、弟さんかな?」
「はい。少し不自由な体ですので、一緒に参拝を」
「それは見上げた心掛けだね。きちんと山頂まで登れたかい?」
「はい。お陰様で。それよりも、御山の方は大丈夫でしょうか?」
ブラドが、さも心配そうに尋ねる。
「神威が途切れる所など、初めて見ました」
光の柱は、そう呼ばれているらしい。
「それがどうやら、賊が侵入したらしくてね」
「何と恐れ多い。捕まえたのですか?」
「いや、まだ探している最中だが、隊士が既に二人殺されている」
死体が見付かっている。
その事にまず驚かされた。
あそこはどう見ても普段往来のない道だ。
それとも隊士にとっては巡回ルートの一つなのだろうか。
ブラドはあまりの事態に言葉を失っている。ふりをしている。
「ところで私は、先程まで山頂に居たんだが……」
「――――」
喉元までせり上がった声を押し戻す。
まずい。
「不思議だ。こんなに印象的な相手なのに、君達の顔を見ていない」
「それは――そうですね、丁度入れ違いになったのではないでしょうか」
「そうかい? 僕は神威が途絶えるまでずっと山頂でお勤めをしていて、事件の発覚と同時に飛竜でここまで降りてきたんだが」
ブラドが押し黙る。
最初に登頂の確認をされたのがまずかった。
これでは言い逃れ出来ない。
「あー……」
ブラドが頭を掻く。
「そういう感じ? もう逃げ場はない的な?」
「もう少し惚けるかと思ったが、存外潔いな」
途端、隊士の眼差しと声に鋭さが増す。
「じきに他の隊士も来る。大人しく投降しろ」
その手は、早くも腰の刀に伸びている。
(ここまでか……)
消沈に、全身から力が抜けていく。
「ツカサツカサ」
「え?」
この状況を理解していない訳がない筈だが、ブラドは正気を疑う程平然としている。
「こいつの上着は霊装って言ってさ、ある程度の地位にいる隊士に下賜される装備で、身体能力が飛躍的に上がるんだよ」
急に何を言い出すのか。
「それを知っているなら、抵抗が無意味な事もわかるな。まずはその人質を下ろせ」
人質。
この隊士には、そう見えているのか。
仮にも殺人の嫌疑が掛かっている相手だ。
他に手足のない人間を連れている理由もないと思ったのだろう。
「オーケー。下ろすよ」
ブラドは一旦両手を上げてから、ゆっくりとリュックを下ろした。
どうするつもりなのだろう。
「あ、あの」
「はーい人質くんは黙っててねー」
房の壁に寄り掛かる形で置かれる。
どうやら人質で通すつもりらしい。
「よし、じゃあやろうか」
構えるブラドに、隊士の男は眉を寄せた。
「……正気か?」
「言っとくけど、重りを外した俺は強いよ」
掌を上にして、軽い手招き。
「後悔しても知らんぞ」
そこからは、まともに目で追えなかった。
男が動いた。
刀を振るった様にも見えた。
ブラドが斬られたのかはわからない。
ただ、一秒にも満たない時間縺れ、男が吹き飛ばされた。
房の扉にめり込み、地竜達がけたたましい鳴き声を上げる。
「――な」
「ほら立て、後悔させてくれるんだろ」
軽症で済んだのか、ブラドの挑発に男はすぐさま立ち上がる。
「霊装もなしに、そんな」
男の瞠目をよそに、今度はブラドから仕掛ける。
刀での迎撃。
リーチで勝るそれを、ブラドは軽やかに掻い潜る。
防戦一方――いや、その防御も全てが間に合っている訳ではない。
数発打ち込まれた男が膝を突くのを見て、ブラドが距離を取る。
「格付け済んだし、これ以上は弱い者いじめになっちゃうからもうやめにしない?」
「やめない」
力強い声に反して、立ち上がる姿は弱弱しい。
「少なくとも人質を解放するまでは、絶対に倒れてやらん」
まだ僕の事を人質だと思っているのだ。
少し申し訳なくなる。
「ひゅー、かっくぃー」
嘲るように言ってから、
「あんた、名前は?」
真面目な口調で問いかけた。
「キースだ」
「キース、あんたは良い奴そうだから正直に話すけど、あそこにいるのは別に人質って訳じゃないよ」
それを聞いても、キースは別段驚かなかった。
ただ一度大きく息を吸って、同じ分だけ吐く。
「……そうか」
それから、小さく頷いた。
「じゃあお前らは、何をしに来た?」
「ツカサの回収」
そんな事まで話すのか。
容易には信じまいが。
「あぁ?」
「君らの崇めてる物の正体なんて――」
目の前を何かが横切った。
人だ。
ぶつかってはいないが、ブラドの言葉が途切れた。
手にしているのは槍か。
それでブラドの背を貫いたのだ。
その体を槍ごと持ち上げる。
「キース、無事か?」
「ふ、副長」
増援が来たのだ。
それも、恐らくはキースより強い。
ブラドはもう戦えない。
どう見ても致命傷だ。
そもそも生きているのか。
弛緩しきったその体は、生死すらも定かではない。
「何だこいつは?」
副長の男が聞いた瞬間、ブラドの首が綺麗に半回転した。
後頭部と顔の位置が入れ替わる。
「何だと思う?」
「な――」
次に、ブラドの腕が俄に跳ねた。
薄暗い通路に、霧状の光が舞う。
浮いていたブラドの足が地を踏む。
続けてぼとりと、槍を持っていた副長の腕がそれぞれ落ちた。
外より光量が低いせいか、今度の出血はしっかり見えた。
青白い血液は、霊子を含むせいか揮発までの数瞬輝くのだ。
「不意打ちは良い」
言いながら、ブラドが副長の体を軽く押す。
何の抵抗もなく仰向けに倒れる。
その顔は、顎から額へと縦に裂けていた。
「でも話してる最中は無粋」
背に刺さった槍を抜きながら、淡々と。
その手には、再び細身の短剣が握られていた。
「ぶ、ぶ、ブラド」
言葉がなかった。
死んだ筈では。
あるいは死ぬ筈では。
首の捻じれた顔が正面を向く。
同じ様に腕も元に戻る。
短剣はまた消えた。
「化け物か……」
キースの瞠目に、ブラドは軽く肩を竦めるのみ。
「増援は、この副長くんだけ?」
通路の前後を確認するが、それらしい人影はいない。
「思ったより山の異変に人が割かれてるのかな」
ブラドが振り返る。
その顔が、途端にどろりと溶けた。
「え――?」
思わず息を呑む。
「おっと」
大して慌てた様子もなく片手で顔を覆う。
「こりゃ失敬」
自身の顔を、揉むような撫でるような仕草。
手をどけると、それだけの事で元に戻っていた。
「こんな感じ?」
「いや、えっと」
少し違うような気もする。
「鏡ないと調整難しいんだよな」
答えを待たず、僕を背負う。
キースはまだ構えている。が、斬りかかってくる様子はない。
「もう実力差はわかったでしょ。見逃してあげるから引きなよ」
「くっ」
そんな事が出来るかと顔に書いてあった。
「君が死んだら誰が俺の情報を伝えるの?」
「――っ!」
その言葉が決め手になった。
今度こそ刀を下ろす。
「お前は、何者だ」
せめてそれだけでもと食い下がる。
これは僕も聞いておきたい。
「さあ?」
ブラドは取り合わず、その横を通り過ぎる。
「気になるなら、偉い人にでも聞いてみたら?」
そこに答えがあると匂わせるように。
厩舎の奥へ。
「あ、あの。ブラド」
この男は明らかに人間ではない。
「うん?」
その実態は、自分が思うよりずっと恐ろしいものかもしれない。
果たしてそれに触れていいものか。
ひょっとしたらあの洞窟に居たままの方がましだったのでは。
そんな不安さえ擡げた。
「ツカサには俺の正体、教えておこうか」
ブラドは立ち止まると、そう言った。
聞きたい。
聞きたくない。
二つの思いが綺麗に同居する。
「ほんとはもう少し落ち着いてから話すつもりだったけど、今の見ちゃったら後回しは無理だよな」
知ってしまえばもう後戻りは出来ない。
そんな気がして。
「別に怖がる事はないよ。俺もツカサと同じ転生者なんだ」