月の綺麗な夜のこと side.A
姉、アリア視点のお話。
シャトルが傾けるポットからお湯が落ちていく。音と香りがもうすぐ出来上がると知らせて来るのに気持ちが高揚してく。シャトルの肩に顎を乗せて手元を眺めるとすこし困った顔で微笑んだ。コンロを見るとミルクの甘い香りも漂ってきた。
「ねえねえ、シュガーもたっぷりがいいなー」
「さすがにそれは、適量にしよう」
シャトルは暖まったミルクをミルクポットに、出来上がったコーヒーをマグカップに入れる。後ろの机にはお菓子を準備したトレーが置いてあり、シュガーとミルク、コーヒーが乗せられていく。待ちきれない私はすべて揃ったトレーを持ち上げた。
「さ、早く行こう! 雲で隠れたらもったいないよ!」
「うん、そうだね」
先日のお礼をと菓子折りを持ってきた商人達から今日は満月だと聞いた。処置も一段落したから、今日は絶好の日だと思ってシャトルを誘うと嬉しそうに頷いてくれた。私はすぐにバルコニーの支度をして夜に備えたし、シャトルはお礼の中にあったコーヒー豆を挽いていた。表情に出づらいシャトルも楽しみにしてくれているのがわかった。届いたお菓子の量には眉間にシワを寄せていたけれど「みんなの感謝の気持ちだね」というと、ため息を吐いたが難しい顔はしなくなった。そんな昼の風景を思い出しながら2階への階段をシャトルと共に駆け上がる。バルコニーに出ると満月が町を照らしていた。
「おおー! やっぱり今日はきれいだねぇ」
「うん、雲も少なくて良かった」
忙しかったこの三週間、感じられなかった開放感に思わず頬が緩む。伸びをしたくなったが、ひとまず手にあるトレーを机の上に置いた。
空を見上げると大きな満月が輝いていた。ここ数週間島内の感染症対策でせわしなかったので、開放的な風景を見るのは久しぶりだ。先の見えない治療はいつやっても疲れる。一度伸びをすると椅子に座ってマグカップを取った。ミルクをたっぷりにシュガーを二つ。お気に入りのスプーンで混ぜれば好みの甘さになる。シャトルのコーヒーはおいしいし、お菓子との相性も抜群。疲れも吹っ飛ぶ気分だった。
「んー、いい香り。やっぱりシャトルが入れるコーヒーは最高ね」
「大袈裟よ。豆がいいだけだって」
「いーや、そんなことない。私が入れたらこんなにおいしくはできないわ」
火傷しないようにゆっくりと口に含んだ。苦みと少しの酸味、そこにミルクとシュガーの甘さが絶妙にマッチして口の中に広がる。鼻孔を抜けていく香りに癒される心地を堪能しながら、トレーに載せたお菓子を二つ手に取った。一つ目を口に入れるとシュガーの甘味とナッツの香ばしさが交わるスノーボール、二つ目は舌触りが独特なラング・ド・シャだった。コーヒーをもう一口含んで口の中で混ざり合う味を楽しむ。うん、おいしい。何よりコーヒーが最高。
「うん、やっぱり眠気覚ましに飲むにはもったいない」
「まだそれいうの。ミルク入れなかったの根に持ってる?」
シャトルが眉を下げて聞いてきた。確かに甘い方が好きだけど、シャトルのコーヒーはブラックでもおいしい。根になんかもってないけどあの時を振り返るならば。
「あの時ゆっくり楽しめなかったのを後悔してる! シャトルのコーヒーは味わって飲まなきゃ。おばあさまにも怒られちゃうわ」
キョトンとしたシャトルに私はにまっと笑って見せる。その顔かわいいなぁ。そう思っていたのにシャトルの表情が突然曇った。あれ? 何か気に障ること言ったかな?
「私はあの時寝てしまったこと、後悔してるわ」
「え!? その話はもう終わったでしょ!」
本土への報告書を書いたとき、出来上がる前に寝たシャトルを起こさなかったことを掘り返された。無事に薬草は届いたし、あの時納得したように見えたけどまだ根に持ってたらしい。えー、そんなに気にする? そういう心境が表情に出ていたらしい、シャトルの表情が少しきつくなった。
「そうね、でも次の対策は練ってない。同じようなことが起きたら次はちゃんと仮眠を取りましょう。寝落ちして姉さん一人が無理をするなんて許されるはずないわ」
「そんなに根に持たなくてもいいじゃん!」
びっくりして反射で返した言葉に、シャトルは目尻を吊り上げた。
「無理して姉さんまで倒れたら意味ないでしょ!」
返ってきた言葉は声が強張っていた。しまった。そう思ったときにはもう遅い。シャトルはスイッチが入ってしまったらしい。
「あの日は無理をするしかないってわかってたけど、怖かった。疲れて体が弱ったら、その隙に感染して姉さんまで病気になったらって、気が気じゃなかった」
シャトルの声が引き攣る。失うことを恐れる臆病さが、シャトルの冷静さを奪っていく。目元には涙も浮かんでいる。ああ、シャトル、どうしたの? いつものあなたはどうしたの? そんなに取り乱すなんて、私は貴方をとても不安にさせてしまったのね。……なんて、可愛らしい。
「島であんなことになる度に思うの。私にはもう姉さんしかいないのに、こうしている間にも姉さんだって危険に晒されて。考えたくないのに考えちゃうの、アリアが死んじゃったらどうしようって、そんな想像が止まらなくなるの」
シャトルの瞳に映る私の姿に、恐怖の色に、興奮が止まらない。だめ、だめよアリア、抑えなきゃ。昂る感情も、釣り上がりそうな口元も、何もなかったように笑うのよ。愉悦に浸るのは後、先ずはシャトルを慰めなきゃ。だって、私はシャトルのお姉ちゃんだもの。ほら、シャトルの頬に涙がこぼれていく。拭ってあげなくちゃ。
自分の感情を抑えて腕を伸ばそうとすると、シャトルは私の服の袖を掴んだ。それもどうにか私の腕に触れないように、できるだけ遠くのところを。ああ、怖いのね。私の体を、貴方の臆病なナイフが切り裂いてしまうのが怖いのね。大丈夫なのに。貴方につけられた傷なんて、痛くも痒くもないのよ。むしろその時の貴方の恐怖に歪む顔が、私大好きなの。貴方は自分の恐怖に捕われて、そんな私に気づけないでしょうけど、いつも大変なのよ。笑いを堪えるのが、とても大変なの。でも、そんな私を貴方に気付かれるわけにはいかないもの。
空いている手でそっとシャトルの手に触れる。冷たくなって、白くなるほど力を入れた手をゆっくり解してあげる。ああ、かわいそう、かわいそうなシャトル。こんな狂った女に愛されてることに気づくこともできないなんて、かわいそうだわ。
私はあらゆる感情を押さえ込んでシャトルの体を抱き寄せた。私を傷つけることを恐れるばかりに、こんなに凍えてしまって。健気でかわいい、私が大好きで愚かなシャトル。私も愛しているのよ。すべての気持ちを詰め込んで体を抱きしめ頭を優しく撫でてあげた。
「かわいい、優しい私のシャトル。大丈夫、シャトルを一人になんかしないわ」
シャトルの体からすこしずつ力が抜けていく。そう、安心して。私はここにいるわ。
「シャトルって、たまにおバカさんだよね。そんなこと、私だって思うことあるよ」
私の言葉にシャトルは驚いたように視線を合わせてきた。眉を下げて囁くように話す。
「私も怖いの。シャトルがいなくなったらどうしようって、毎日だって考えることがあるわ」
「そんな、私はどこにも行かないのに」
私の言葉に焦るシャトル。知ってる、よく知ってるわ。貴方は私が大好きだもの。でも、貴方は覚えているかしら? 貴方が盗賊に誘拐された時、私は血が凍ると思うほど、恐ろしかったのよ?
「うん、知ってる。でも、未来なんて誰にもわからないじゃない。他者に引き裂かれることだって、神様にさらわれることだってあるわ。そんなことはさせないけど、万が一があれば私は一人よ」
シャトルを抱きしめる腕に力を込める。私の背中にもゆっくりと腕が回った。恐怖を抑えながら抱きしめかえしてくれるシャトルが愛おしい。思わず笑みがこぼれた。
「大丈夫よ。私はシャトルから離れないし、誰かにシャトルを盗られたりなんか絶対させない。私は死ぬまで一緒にいるわ。だから安心して」
シャトルの頭を撫でる。強張って凍えていた体が暖かくなり緊張が解れていく。背中に回された腕にさきほどより力が入った。私の肩にシャトルは顔を埋める。
「私も。私も死ぬまで姉さんと一緒にいる。離れない」
「うん、約束ね」
約束、約束よ。私が先に逝くならその時まで貴方の側にいる。貴方が先に逝くなら一緒に逝くわ。だって貴方がいない世界は、私が生きる価値なんてなくなるんだもの。貴方の心臓と共に、私の心臓も止まるわ。そうしたら、死んでも一緒だものね。
私の肩から顔をあげてシャトルは離れる。顔を見るとシャトルの涙は止まっていた。すこし残念に思う気持ちを抑えて残っていたシャトルの涙を袖で拭う。そして残ったコーヒーを口に含んだ。冷めているのは残念だけど、これはこれでいい。シャトルの用意してくれたものを残すなんて、できるわけないじゃない。
「冷めちゃったね、入れなおしてこようか?」
「えー、そんなもったいないことしなくていいよー」
私を気遣かってくれるシャトル。貴方さえいれば私は他に何もいらない。けれど貴方と過ごす時間は、穏やかなものであればいいと思っているのよ。それが敵わなくなったとき、私は人ではなくなってしまうかもしれないけど。愛おしい気持ちをこめてシャトルを見る。
「シャトル、頑張ってくれてありがとね」
「私こそ、姉さんに助けてもらった。ありがとう」
シャトルはコーヒーを飲み干してカップをトレーに置いた。その手でお皿に乗せていたクッキーを一つ取って口に運ぶ。そのしぐさすら愛おしくて、目を離すことすらもったいない。
「……悔しかったな」
気が抜けたのか、シャトルから言葉がこぼれ落ちた。それだけの言葉に何を悔いているのかは察しがつく。優しいシャトルに、この前のことは辛かったのね。
「こういうと良くないかもしれないけど、仕方なかったよ。最初から万全の準備なんてできないし、それでも私たちはできるすべてを行って治療した。島に病気が広まるのを頑張って防いだんだよ」
「……そうね、ごめんなさい」
あまり気の利いた言葉で慰めることはできないけど、それでも慰めようと思った。失敗しちゃったみたいだけど。きっと今は、おばあさまのことを考えてるんだろうな。
それでいいわ。私は貴方がいなくなったら生きる価値はなくなるけど、貴方はおばあさまの信念があれば生きていける。私の心中に付き合う必要はないわ。けれど、今はもう少し笑っていて欲しいと思うの。
私は立ち上がるとシャトルの肩を叩いた。
「……シャトル、シャートール!」
「……あ、ゴメン姉さん、なに?」
私の声に気づいたシャトルに笑いかけて、自分のと一緒にシャトルのマグカップをさらった。驚いているシャトルに満面の笑みを向ける。
「ココア入れて来るね。私まだシャトルと話し足りないから、もう少し付き合って」
私の言葉にしばらく固まった後シャトルは不器用に笑った。
「もちろん。姉さんの作るココア、大好きよ」
シャトルの言葉に満更でもなく笑った私はすこし早足にキッチンへ下りた。シャトルの好きなハチミツ入りのココアを作るのと、自分の心を落ち着けるために。
落ち着いてアリア、早くシャトルのお姉ちゃんに戻らなきゃ。こんな狂った愛に気付かれたのなら、一緒にいられなくなってしまうでしょう。
まだ私は、シャトルの側にいたいのだから。