月の綺麗な夜のこと side.S
妹、シャトル視点のお話。
コーヒーの落ちる音と香りを堪能しながら、背中側から私の肩に顎を乗せている姉さんはなんだか楽しそうだ。
「ねえねえ、シュガーもたっぷりがいいなー」
「さすがにそれは、適量にしよう」
右手に持ったポットをゆっくりと傾けながら、コンロの上で温められているミルクを確認する。鍋の淵が小さく泡立ってきて、そろそろかなと火を止めた。コーヒーもちょうど入れ終わったのでポットを置いて、温めておいたミルクポットにミルクを移す。後ろの机にはあらかじめ用意しておいたトレーと、その上に先に用意しておいた焼き菓子が少々。トレーの上にミルクポットと角砂糖を置いて、カップに入れたコーヒーも置いた。準備が整ったトレーを姉さんが喜々として持つ。
「さ、早く行こう! 雲で隠れたらもったいないよ!」
「うん、そうだね」
姉さんがトレーをもって前を歩き、私が後ろから追いかける。階段を上がると南側にあるバルコニーに出た。普段はあまり使わない場所だが掃除はしているので結構綺麗だ。椅子と折りたたみの机を出すとちょっとした休憩スペースになり、今晩はそこで過ごそうと決めていた。
「おおー! やっぱり今日はきれいだねぇ」
「うん、雲も少なくて良かった」
空を見上げると大きな満月が輝いていた。ここ三週間は島内の感染症対策でせわしなく、開放的な風景を見るのは久しぶりだ。
三日前までは診療所と港の往復だった。おばあさまのかつての働きのおかげで雨白島の医療への理解は高い。実際に処置を行えるのは私たちだけだが、病気や怪我があれば周りも協力的だ。対策が始まった頃から協力的な商人は多かったし、薬草の手配ができた頃にはさらに増えた。確実な治療はまだ難しく、今回も三人、処置が間に合わずに見送ることとなった。それでも被害が拡大する前に収束の目処が立つのは早かった。まだ患者はいるが、そう掛からずにほとぼりは冷めるだろう。それでも数日前まではやはり気が抜けず寝不足が続いたが、この二日で患者数は激減し私も姉さんもようやく十分な睡眠を得た。
元気になった姉さんが「コーヒー飲もう」と誘ってくれたのでこうして用意することになった。できれば焼き菓子も手製のものを用意したかったけど、さすがにそこまでの気力はなかったし、今回働きを労ってくれた商人から良いお菓子やらコーヒー豆やらをもらったのでそちらを堪能することにした。あまりに多いお菓子の量に医者を何だと思っているのかと考えたが、姉さんの「みんなの感謝の気持ちだね」という言葉に思ったことをすべて飲み込んだ。
机にトレーを置いて椅子に腰掛けた姉さんは喜々として自分のカップにミルクをたっぷり注ぐ。そして砂糖を二つ入れるとスプーンでくるくると混ぜた。私もミルクを少しと砂糖を一つ入れるとスプーンで混ぜる。隣で姉さんがゆっくりと上る湯気を吸い込んだ。
「んー、いい香り。やっぱりシャトルが入れるコーヒーは最高ね」
「大袈裟よ。豆がいいだけだって」
「いーや、そんなことない! 私が入れたらこんなにおいしくはできないわ」
そういって少し口に含むとまた嬉しそうに笑った。
「うん、やっぱり眠気覚ましに飲むにはもったいない」
「まだそれいうの。ミルク入れなかったの根に持ってる?」
「あの時ゆっくり楽しめなかったのを後悔してる!」
姉さんはそう断言していたずらっぽく笑った。
「シャトルのコーヒーは味わって飲まなきゃ。おばあさまにも怒られちゃうわ」
そう宣う姉さんはそれはもう幸せそうで。後悔というより不服だったのだろう。腹に積もっていたことを吐き出して満足そうな姉さんだが、それをいうなら私だって言い返したい。
「私はあの時寝てしまったこと、後悔してるわ」
「え!? その話はもう終わったでしょ!」
信じられないという顔を向ける姉さんに私は目を細めて見つめ返す。
「そうね、でも次の対策は練ってない。同じようなことが起きたら次はちゃんと仮眠を取りましょう。寝落ちして姉さん一人が無理をするなんて許されるはずないわ」
「そんなに根に持たなくてもいいじゃん!」
「無理して姉さんまで倒れたら意味ないでしょ!」
思わず返した言葉が強張ってしまった。少しの後悔の後、固唾を飲む。出てきたものは仕方がない。今さら引き返すことなんてできなかった。
「あの日は無理をするしかないってわかってたけど、怖かった。疲れて体が弱ったら、その隙に感染して姉さんまで病気になったらって、気が気じゃなかった」
声が引き攣っていくのがわかる。姉さんを困らせてしまうのもわかっている。でももう止められなかった。押し止めていた不安が止めることもできずに吐き出されていく。視界が涙で揺らいだ。
「島であんなことになる度に思うの。私にはもう姉さんしかいないのに、こうしている間にも姉さんだって危険に晒されて。考えたくないのに考えちゃうの、アリアが死んじゃったらどうしようって、そんな想像が止まらなくなるの」
怖い、こわい、どうしよう。死者が出かねない状況になる度に考えてしまう。本当に誰かが死んでしまうと悪い想像が止まらなくなる。それを忘れるように処置に没頭して、ふと我に返ると無意識にアリアを探してしまう。
どこにいるの? 大丈夫? アリア、一人にしないで。
願いながら姉さんの姿を見つけて安堵の息を吐く。その繰り返し。つらいけれど、私たちが医者である以上患者を救うことをやめられない。おばあさまのためにもやめる訳にはいかない。どうすれば……、できるなら、アリアの手をずっと握っていれたらいいのに……。
眼に溜まった涙が頬を伝う。無意識に姉さんの服の裾を力強く握りしめた。手を握るのは、怖い。この臆病な感情が、また姉さんを傷つけてしまったら……。でも、このくらいなら……。でも、もし……。
恐怖で指先が冷えていく私の手を、姉さんがゆっくり解いていく。顔をあげると少し寂しそうな、悲しそうな顔で微笑む姉さんがいた。姉さんはゆっくり私の体を抱き寄せる。頭に回された手が優しくとん、とん、と撫でてくれた。
「かわいい、優しい私のシャトル。大丈夫、シャトルを一人になんかしないわ」
姉さんの手が暖かい。強張っていた体の力が解れていく。
「シャトルって、たまにおバカさんだよね。そんなこと、私だって思うことあるよ」
姉さんの言葉にはっとして視線を合わせるとその顔から笑みが消える。
「私も怖いの。シャトルがいなくなったらどうしようって、毎日だって考えることがあるわ」
「そんな、私はどこにも行かないのに」
「うん、知ってる。でも、未来なんて誰にもわからないじゃない。他者に引き裂かれることだって、神様にさらわれることだってあるわ。そんなことはさせないけど、万が一があれば私は一人よ」
私を抱きしめていた力が強くなった。姉さんも怖かったのだと気づいて、その事実に申し訳なさと少しの安心を感じ、背中に腕を回した。今なら大丈夫、間違えて傷つけることはない。私の腕に恐る恐る力が入ったことに気づいて姉さんがフフッと笑った。
「大丈夫よ。私はシャトルから離れないし、誰かにシャトルを盗られたりなんか絶対させない。私は死ぬまで一緒にいるわ。だから安心して」
姉さんが頭を撫でてくれる。その手が暖かくて、固く凍えた心がほぐされてきた。腕に力をこめて姉さんの肩に顔を埋めた。
「私も。私も死ぬまで姉さんと一緒にいる。離れない」
「うん、約束ね」
顔をあげて姉さんから離れる。顔をあげると姉さんはいつもの笑顔を浮かべていた。私の頬の涙を袖で雑に拭い、姉さんはコーヒーを口に含む。姉さんの手が離れると私も倣ってマグカップ口元に運び傾ける。冷たいコーヒーが喉を落ちていった。涙は気づいたら止まっている。
「冷めちゃったね、入れなおしてこようか?」
「えー、そんなもったいないことしなくていいよー」
姉さんはまた口にコーヒーを含んで、私の方を愛おしそうに見た。
「シャトル、頑張ってくれてありがとね」
「私こそ、姉さんに助けてもらった。ありがとう」
コーヒーを飲み干してカップをトレーに置いた。その手でお皿に乗せていたクッキーを一つ取って口に運ぶ。ほのかな甘さと胡桃の触感が口の中に広がった。
「……悔しかったな」
気が抜けて心に止めていた言葉がこぼれ落ちた。それだけの言葉に姉さんはすべて察してくれる。
「こういうと良くないかもしれないけど、仕方なかったよ。最初から万全の準備なんてできないし、それでも私たちはできるすべてを行って治療した。島に病気が広まるのを頑張って防いだんだよ」
「……そうね、ごめんなさい」
おばあさまなら、誰も死なさなかったんじゃないだろうか。そう少しだけ考えて、自分の力が足りないことが悔しかった。おばあさまが亡くなって、何度このことを悔いたかわからない。ごめんなさいおばあさま、私、まだ育ててもらった恩を返すだけの腕はないみたいです。けれどいつか、世界から人を苦しめる病を消し去りたいと語ってくれたあなたの願いを叶えたいと思っているの。
「……シャトル、シャートール!」
「……あ、ゴメン姉さん、なに?」
かけられた声にようやく気づいて顔をあげると、姉さんが私のカップをひょいっとさらった。
「ココア入れて来るね。私、まだシャトルと話し足りないから、もう少し付き合って」
姉さんの言葉に、笑顔に、つられて笑ってしまう。姉さんの笑顔に何度救われたかわからない。共にいる時間くらい、もっと楽しく過ごしたい。悲観的な私に、姉さんはいつもそう思わせてくれる。
「もちろん。姉さんの作るココア、大好きよ」
夜はまだまだ長い。綺麗な月を見ながら、もう少し姉さんと話していよう。明日からも、姉さんと生きていけるように。