ページ02~レールの上を
体の周りの黒い靄は自由に出し入れできるみたいだ。次は右手だけ黒い靄で包めないか試してみよう。握力検査の要領で右手だけ力む。すると右手から黒いのが生えてきた。見た感じの質感はプラスチックみたいだが触れられない。不思議だ。
なんとなく鏡を右手で撫でた。黒い靄と鏡が触れあった。少し隔たりがあったと思ったら瞬間すっと鏡に素の指で触れられた。
そういえば、さっき壁にヒビを入れられたな。もしかして今の俺はすごい怪力になってるんじゃないか? そう思って力試しをしようとも思ったが、他人の物を壊すのは気が引ける。トイレの壁にヒビを入れてしまった事故はおいといて。
なんとなくポケットの中をまさぐったら財布しか入ってなかった。財布の中の五百円硬貨を取り出して眺めてみた。曲げられないだろうか? なんて思ってしまったときにはもう五百円硬貨は真っ二つに割れていた。
これはフィクションの登場人物っぽいとはいえ使い道が思いつかなすぎる能力だ。素のフィジカルを強化してくれる力はあっても困らないが日常生活で使える場面はあまりない。大体、今の日本で握力や筋力なんて一定以上あれば困りはしない。こんな力、まさに無用の長物だ。
でも、このパワーで全力疾走したら気持ちいいだろうな。トイレの壁にはごめんなさいして思いっきり走れそうなところへ出るか。
というわけでホームまで降りてみた。ホームから線路に降りてみよう。もちろん電車が止まっているのとは反対方向のホームに。意外とホームから線路まで深い。まずはホームに腰掛ける。普段の常識では絶対にしない行動はなんかテンション上がるな。そこから手をホームにかけながら降りた。踏切じゃない線路の上に立つのは初めてだ。ただの一歩が、異様に感慨深い。
人の消えた静寂の中で、人がたくさんいたら、普通の身体能力だったらやらないであろう事をやっている。出来ないが出来るようになるのは問答無用で気分が良い。
両手を地面につけクラウチングスタートの体勢をとる。黒い靄を出して準備万端。ピストルは誰も撃たない。自分のタイミングで走り始めていい。
走れ、俺。
自分の思い通りに体が動いている感覚がした。これまで十七年も生きてきて体中のこりや些細な不調、その他の煩わしく、俺の体を縛っていた感覚から俺は解き放たれた。やばい、こんなに体を動かすのが楽しいの何年ぶりだ? それぐらいに楽しい。ただ走っているだけなのに、流れる景色の速さも本気で自転車を漕いでいるみたいにすいすい流れていく。気持ちがいい。
顔も知らない誰かが敷いたレールの上を走る。走る。誰に言われたでもなく、ただ楽しいから走る。人は自分の体を思いっきり動かせるだけで楽しめる生き物なんだって知れた。競う相手がいなくても、評価するギャラリーがいなくても体を動かすのを楽しめる。ああ、なんて単純なことを忘れていたんだろう。
目の前に止まった電車が見えた。
足を止めるとかレールから外れるといった選択肢は俺の頭にはなかった。ただ、思いっきりジャンプして電車を飛び越えた。
最高だ。今、最高に気持ちいい。
電車の上でバク宙した。そんなことをやるのは初めてだが不思議と出来る確信があった。そして、電車の上で倒立しながら前へ進む。逆立ち歩きなんてやるのは初めてだが、低い視線で動き回るのは新鮮だ。楽しい。
電車の果てが見えたなら、電車から落ちよう。たのしー。やったぜー。
身を捻って背中から落ちる。青空って綺麗だ。背中や頭から手足まで衝撃が伝わる。良い感じ!
あれ、雲が動いてる。いや、動くか。ずっと空模様が変わらないなんて気持ち悪いか。雲の動きって良いな。永遠に見てられそう。
動物や乗り物に雲を見立てるのって幼稚だよな。そんな幼稚なことやるほど子供じゃないよ。でも、あの雲の形は口みたいだな。考えてみたら星の形を動物に見立てるのは大昔の人が大真面目にやっていたことだな。だから雲をいろいろ見立てるのも幼稚じゃない。幼稚だとしても楽しければそれで良い。恥ずかしさを捨てれば人はもっと楽しめる。羞恥心ほど人生を楽しむのに足を引っ張るものはない。節度は大事だが。裸で町を歩き回るのは犯罪だがヌーディストビーチで体を隠すのはもったいない。そういうことだ。
ああ、手を伸ばせばあの雲に届きそうだ。右手を思いっきり天まで伸ばした。そして手を閉じる。なにも掴めやしない。
「ははは」
俺は思わず笑ってしまった。現実逃避は楽しかったな。でも今じゃ、ただ虚しいだけだ。宿題を忘れようと思いっきり楽しい楽しい言ってる夏休み終了一週間前みたいなもの。人類が消滅して俺一人で衣食住をどうやって確保したものかという事を忘れようと騒ぎ回っていただけだ。
そう考えると体を動かす気さえ起きない。飽きるまでここで寝ていよう。
雲を見つめるのは楽しいからじゃない。他にすることがないからだ。空模様には心を動かす力なんてない。もしも心が動いたとしたら、それは心が軽いとき、心が動きたくてしょうがない、そんなときにあと一歩背中を押してくれただけだ。音楽や絵なんかもそうだ。芸術や言葉で心は動かない。
冷めてるな、俺。
どうしようもないな、俺。
『どうしようもなくなんかないよ』
そんな声がどこかから聞こえた気がした。人が消えたはずの世界でこんなどうしようもない俺を肯定してくれる人なんているわけがない。
『ここにいるよ』
ここって、どこだよ? というか、何で口に出してないことも分かるんだよ。俺の幻聴さん。
『幻聴なんかじゃないと思うよ。少なくとも私は君がいるって信じてるから』
『ああ、信じられなくて当然だ。というかテレパシーを受信してるなんて信じてくれなくて別に構わない』
テレパシーとは言葉に出さずに不思議な力で直接思いを伝える技の総称だ。でも、そんなのどうでもいい。テレパシー送ってるの誰だよ。誰でも良いから助けろよ。
「おーい」
今度は天から声が聞こえた。寝っ転がっているから当然といえば当然だが。響き方からして少し遠くから呼びかけているのだろう。
「聞こえてるかい」
ああ、聞こえてはいる。
「じゃあ、大声を出してくれ。そうしたらこっちから見つけにいくから」
また天からそう言われた。だから、叫び返した。文言はこれで良いかい、天の人?
「俺はここにいるぞ。俺を助けやがれ」
『ワガママな人だな。でも、見つけた』
天から何か下りてきた。よく見ると人みたいだ。ピンクのシャツに青のジーパンの女の子。俺と同じぐらいの年だろうか。
「はじめまして、ワガママな人。私は、俺の幻聴さんじゃなくて、桜風だよ。覚えてくれるとうれしいな」
桜風の肌には白い痣みたいなのが浮き出ていた。
「ああ、これ」
桜風はそう言いながら白い線が走っている右手の甲を左手で撫でた。
「これはね、たぶんだけど君の黒いのと同じもの。なんなんだろうね?」
そう言って笑う彼女は可愛くて、少し胸がキュンとした。
「ちょっと、やだな照れるな」
桜風は顔を赤くして手を顔の前で振った。
「あー、僕たちの思考がダイレクトに互いに伝わるみたいだから。考えることには注意してくれ」
そう言いながら白いマントの男が下りてきた。
「さっきのテレパシーじゃ信じられないとか言っていたが、こうして目の前にいるんだ。僕らの存在は信じてくれ。僕は勉 畑野 勉だ。気軽に勉と呼んでくれ」
勉がそう言う間に白いマントが消えていった。勉はメガネをかけていて面構えから理知的な印象がした。
勉と桜風が天を見上げた。つられて俺も天を見てしまった。黒い骸骨みたいな顔した人が落ちてきていた。
黒い骸骨みたいな顔した人が着地したら彼を覆っていた黒いのが霧散して好青年が出てきた。好青年は口を開きこう言った。
「遅くなって悪いな、俺で最後だ。俺は伊勢木 正。伊勢海老の伊勢に木曜日の木でいせぎ。正解の正の字でただしだ。ところで、君の名前はなんていうんだ?」
伊勢木、勉、桜風の三人は俺と同じ生存者みたいだ。俺の名前か。ここで偽名を名乗るのも面白いかも知れないが、テレパシーでバレるだろうしよしんばバレなくても寝起きで偽名を呼ばれて即座に反応できないかもしれないのは痛い。
ここは素直に本名を明かそう。
「遠藤 秀一だ」
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