オトシゴの落としどころ
ここはどこかの穏やかな海です。
色鮮やかなサンゴ礁があることから熱帯の海であることが推測されますが、もしかすると違うのかもしれません。
――ピシッ。
そんな変哲の無い海にて、ひとつの命が誕生しようとしていました。
「……ふああ、よく寝た……って水の中!? 溺れる! 溺れる!」
卵から生まれた一匹は海の生物の癖に何故かそう思っていました。
率直に言うと彼は元人間だったのです。
いたって普通の人生を歩んでいた彼でしたが、調子に乗って飲酒をして海水浴をしたばかりに誤って溺れて死亡しました。
今頃ネットの掲示板やSNSなどで辛辣な事ばかり書かれている事でしょうが、彼にはもう関係の無いことでした。
「……って苦しくないぞ? それにこの変な姿……」
何故なら彼は【タツノオトシゴ】として転生したからです。
安直な行いで死亡したとはいえ、さすがに地獄行きは可愛そうだと神が施してくださったのか、彼はタツノオトシゴに生まれ変わっていたのでした。
現在の彼はタツノオトシゴの稚魚。
生まれたてのベイビーですが、幸か不幸か彼の前世の記憶がまだ残っているようです。
「おお、周りにも俺の仲間がいっぱい生まれてきてる! すげー!」
しかし、彼はアホなのでこの状況をすんなり受け入れました。
無謀と勇気は紙一重とは良く言いますが、彼は間違いなく前者でした。
…………。
親オトシゴのお腹から孵化して数か月。
十分に成長した稚魚は一斉に外の世界へと飛び出します。
「……うわっ!」
想像以上に強い海流が彼の行く手を阻みます。
現在の彼の体長は数ミリ程度。
泳ぐ力もままならない赤子ではあっという間に流されてしまいます。
「た、たすけてー! 誰かー!」
他の仲間たちは器用に海藻に尾を巻き付けて流されない様にしていました。
「な、なるほど! こうすればいいのか!」
彼は近くの海藻にくるんと尾を巻き付け、何とか難を逃れます。
「ふう……助かった……あれ? 仲間たちが次々こっちに来るぞ、どうしたんだ?」
生まれたばかりでよく見えませんが、前方から巨大な魚影が確認できました。
小さな口に、平べったい身体。
すなわちそれはカワハギです。
煮付けにすると美味しいお魚にたった今、彼と彼の仲間は美味しく捕食されようとしていました。
「ぎゃあああああ!」
海の中は弱肉強食、生まれた瞬間に生存競争が始まるのでした。
稚魚は動きが遅く、鱗が柔らかいため他の魚たちの絶好の餌です。
彼は必死にその場から離れようとします。
「助けてー!」
頼りにするのはやはり生みの親ですが。
パクッ。
ここは弱肉強食の海の世界。
彼の目の前で親はウツボに食われてしまいました。
「あああ……ああああああ!!!!」
彼は残酷な現実に半狂乱になりながら、その場から逃げます。
他の仲間たちの悲鳴を聞きながら、その小さな命を守るため彼は必死に逃げ回りました。
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「はぁ……はぁ……」
どれだけ時間が過ぎたのかも分かりません。
現在彼は海藻の陰に隠れ、身を潜めています。
「……お腹空いたな」
前世の記憶からチーズバーガーが恋しくなっているようですが勿論海にはそんなものはありません。
むしろ今の自分が他の魚にとってのファストフードになっている現状に、彼は戸惑いを隠せませんでした。
「……ちょっと! 危ないからもっとこっちに来なさい!」
砂場の脇から声がしたので、すぐにそちらに隠れます。
その直後、アジの大群が目の前を通っていきました。
あのままぼーっとしていたら今頃はアジのうま味にされていたところでしょう。
「あ、ありがとう、助かったよ」
「なにが助かったよ、よ! あんな海上近くでボケっとして、食べてくださいと言っているようなものよ!?」
彼を救ってくれたのは、同じタツノオトシゴの仲間でした。
タツノオトシゴは成熟するまで雌雄の区別が付きにくいですが、恐らく雌の個体である彼女は彼にアドバイスをしてくれています。
「それにしてもお腹が空いた……」
「はぁ……それなら私、ベントスが多くいる場所をさっき見つけたからついてきなさいよ」
ベントス? もしかしてお弁当の事か?
僕はお弁当が食べられると思って、彼女にほいほいついていくことにしました。
泳いで数分ほど、細かい粒子のようなものが多く散っている海底に連れてこられました。
彼女は口から息を大きく吸い込むと、小さな海老のような生物が付着します。
彼女はそれを一切ためらわずごくりと飲み込み、体内へとおさめました。
「ほら、天敵がこないうちに食べちゃおう」
(これが……弁当……だと……? 顕微鏡で見る奴じゃないか)
彼が海底に生息する小動物全般の事を【ベントス】と言うのだと気づくのはもっと後のお話です。
生前の学生時代の記憶を思い出しながら、目の前の動物プランクトンを黙って睨みつけます。
人間的な価値観でいえばとても食べる気にはなれませんが、今はタツノオトシゴ。
じっと見ていると何だかいける気がしてきました。
「うおおおお!」
彼はやけくそ気味に次々とプランクトンを吸い込みます。
時にはやや大型のものでも無理やり捕食し、自身の栄養へと変えていきます。
その様はまさに命の有りようを考えさせてくれます。
「いい食べっぷりね、貴方きっと良い個体になるわよ」
「へへへ……」
食べっぷりを褒められるなんて何時ぶりぐらいでしょうか。
身も心も童心に戻った彼はつい調子に乗ってしまいます。
「はっはっはー! もっとでかい奴持ってこーい! 俺が何でも喰らってやるー!」
大声を放ちました。
すると海底の砂浜から、ブワッと砂をまき散らせ大型の海老が複数出てきます。
ハサミを振り回し、こちらを威嚇し今にも襲い掛かってきそうです。
「あ、すみません、調子に乗りました、すみませんマジで」
「に、逃げるわよ!」
彼らはエビに喰われないよう必死にその場から逃げました。
(ああ、悪夢なら冷めてくれ。なんでタツノオトシゴなんかに生まれ変わってしまったんだ)
彼は逃亡しながら自分の人生に対する後悔を繰り返していました。