湖畔の遊覧船
遊覧船の入り口から木の板が張られた中央の階段をそのまま上っていき、その上の階へと行くと、早くも席を占拠した家族連れやカップルが賑やかに言葉を交わしていて、僕らは仕方なくデッキに出ることにした。美由紀は先程から言葉少なで、まるで喉に引っかかった魚の骨を気にしているみたいに、ぶすっと不機嫌そうな顔で唇を結んでいた。
こいつ、また彼氏にフラれたな。僕は何となく察しながら、それについては敢えて聞かず、そのまま外の空気へと触れてデッキのベンチに腰を下ろした。
「何か、最近疲れているのよ」
美由紀は本当に疲れ切った顔でデッキの向こう側――船の先に見える湖面の景色をぼんやりと見つめているようだった。僕は彼女があまりにも元気がないので、その頭にぽんと手を置き、「お前も少し頑張り過ぎなんだよ」と笑ってみせた。
「頑張りすぎというより、やってきたことが意味がなくなっちゃったんだよ、本当に」
彼女は湖から視線を逸らし、そっと俯きながら、どこか震える声で言った。これは重症だな、と僕は少し押し黙って、彼女から、何があったのか話してくれるのを待った。けれど、彼女は海の底へと際限もなく沈んでいくように、だんだん視線を下げていき、やがて目を閉じてしまった。
「私って、そんなに頑張り過ぎてるかな? 本当はもっと、頑張っていいんじゃないかって思うの。もっともっと頑張って、相手のことを考えていれば、結末は変わっていたんじゃないかって思うよ」
「そんなことないさ。もうお前はそのままでいいんだって。足りないところがあって、それでいいんだよ。僕なんか、もっと欠点だらけじゃねえか。まあ、双子なんだから、大差ないだろうけど」
彼女は盛大に溜息を吐くと、再び顔を上げてゆっくりと瞼を開いた。そして僕を見つめ、「もう三樹にはわかってるんだろうけど」と観念したように言った。
「私さ、彼氏にフラれたんだ。正確に言うと、婚約相手に」
「婚約? お前、そんなところまで話が進んでたのかよ」
「まだ三樹にも、父さんと母さんにも言ってなかったけど、婚約指輪をもらってたんだ」
彼女はそう言って、ぐっと首元に手を置いて、何かを祈るように唇を噛み締めて目をぎゅっと瞑った。
「彼が別れよう、って言ってきたの。なんで別れたいのか、聞いたら、結婚して、ずっと一緒に暮らして、死ぬまでやっていくことを考えたら、駄目かもしれないんだって。だったら最初から、婚約指輪なんて、くれなくて良かったのに。婚約も、彼氏も、心の空席も、全て燃え尽きてしまえばいいのに。でも、やっぱりこうなっちゃって、駄目だね、私は」
彼女は湖を再び見つめると、首元に提げたアクセサリの鎖を握って、ふっと自嘲げに微笑んだ。
「私なんかと付き合っても、たぶん最後には皆こんな風になるんだと思う。だからもう、私はあきらめてるの。これまでずっとそうだったから」
彼女はそう言って僕へと振り向き、情けない妹だね、本当に、と壊れ物みたいな笑みで言った。
「情けない妹には変わりはないかもしれないけど、そんなこと言ったら、僕なんてどうなるんだよ」
「三樹はまだいいじゃないの。自分の好きなことたくさんやって、生き甲斐もあって、恋人もたまに作っているし、好きなように生きてる。三樹みたいな男になら、女もイエスと言うかもしれない。けどね、私はノーと言われたの。本当に苦しいよ、今」
「まだまだ甘いな、美由紀は」
僕はそう言って笑い、そしてふと、親指にしていたその指輪を改めて彼女に見せた。
「お前が首から提げている指輪、それ、彼氏にもらったものだろ? 僕だって、いつまでも指輪をこうして離せずに持ってるんだ。男で、ねちっこく彼女と交換した指輪をずっと持っているって、情けねえじゃねえか?」
「本気で言ってるの?」
「聞いて驚くなよ」
僕はゆっくりと立ち上がって、ぽんと思い切り胸を叩いた。
「美由紀には言ってなかったけど、僕は今まで三回プロポーズしたことがある。でも、全部断られた」
「私を気遣って言ってるんでしょ?」
「それで今までの指輪全て肌身離さず持ってる。これで、お前と大差ないだろ?」
僕はそうつぶやくと、親指に嵌められたその指輪をすっと抜いた。そして、彼女の顔の前に掲げると、それを――。
「でも、お前が決心がつかないなら、僕が最初にその意志を見せてやる」
僕は思い切り腕を振りかぶり、その指輪を手すりの向こう、湖へと投げ放った。美由紀が「あっ」と大きな悲鳴を上げて立ち上がり、デッキの先へと消えて行った僕の指輪を目で追った。
「なんでこんなことするのよ!」
美由紀は怒ったように僕の頭を引っ叩いた。僕は前につんのめったけれど、ふっと笑ってそのまま他の指輪も湖へと投げ込んでしまった。
「僕もこのまま過去を引きずっていても、全く意味がないし、さっさと毎日をただひたすらに生きていけばいいんだって思えたんだ」
「あんたね……いつも行動が予測できないのよ。心臓に悪いでしょ」
「美由紀だって、ただ目の前のことに感謝して生きていれば、きっとまた前向きになれると思うよ」
美由紀はすっと視線を足元から湖面へと伸ばし、そして――。
「もううんざりよ」
そう言って思いっ切り僕と同じように指輪を投げ放とうとして、そのまま手に握って俯いた。
「やっぱり手放せないよ」
僕は彼女の頭に再び手を置いて、わしわし撫でてやりながら、「それでもいいさ」と言った。
「美由紀は美由紀の歩幅で、毎日を普通に、ゆっくりと踏み出していけばいいさ。美由紀の一番の長所は、そのタフさなんだからさ。もっと自分の今まで頑張った日々を誇っていいんだよ」
美由紀はふっと笑って、そうね、とベンチに座り直した。
「それより、さっき港を出る前に寒天ゼリー買ってきたんだ。食べろよ」
「あんた、ここに来ると毎回買うわね」
「ゼリーのように柔らかくて、甘くて、美味しい毎日を生きるっていうジンクスだよ」
僕はそんな取って付けたような台詞をつぶやきながら、濃紺の湖面の先に広がるなだらかな山々の景色に見惚れて、そして小さく見える木々の浮き沈みするなだらかなラインを目にしていつものように風を感じていく。
美由紀もそっと僕の視線の先を見遣って、「風が気持ち良いわね」と耳元の髪の房をそっと抑えた。その髪の先に見える横顔は、ちょっぴり泣きそうな――でも、少し晴れやかな笑顔だった。
了