花の下で君は
気がついたら、自分の部屋だった。
西日によって照らされた部屋は、ものが雑然と散らかっていて、脱いだ洗濯ものはそのままだし、布団も敷いたままであげていない。まずいなと感じるそんな部屋に俺は立っていた。
何をして、何をしようとしていたのか、自分の行動を思い出そうとしても、不確かで滑り落ちてしまったかのようだ。真っ白い紙を前にして、途方にくれたように。
幾分ぼんやりと呆けたままでいれば、玄関の扉からカチャカチャと音がする。
不審に思って足早に玄関に向かう。
ここは俺の部屋で間違いないはずだ。多分。
いくらなんでも、そこまで耄碌してないだろう。
たどり着いた時には、鍵でドアを開けた女性が立っていた。
真っ直ぐな黒髪を肩先まで伸ばし、白いワンピースを着た俺の恋人。
どうして。
その姿を見て、思い返すものがある。
事故にあった瞬間を。
「花見に行かない?」
開口一番に花見と叫んだ彼女は、くるりと踵を返してやって来た道を歩き出す。
目を見開いて立ち止まったままの俺を置いて行ってしまう。
追いかけようと慌てて外へと出た。
住んでいるアパートから少し歩けば、桜が咲いている公園がある。
それは、咲いたら行こうかと約束した場所。
俺は一歩後ろから、彼女の後ろ姿を見ていた。暖かな風にのって、黒髪がさらさらと流れている。
あの時、同じように俺たちは歩いていた。
同じように、花見に行こうとして。二人で笑って。
でも……。
前を歩く彼女が突然後ろを振り返った。
「何よ。ずっと黙っちゃって」
拗ねたように頬を膨らませる。もう、十分大人と言える年齢なのに、子供っぽい仕草が可愛かった。
「それに後ろを歩いてるし」
「ごめん」
謝って隣に並べば、笑顔が返ってきた。
道路へと横に影が伸びる。
「ずっと、約束してたじゃない。突然、来たことは謝るけど」
「いや、怒ってないよ」
むしろ、戸惑っている。目の前に彼女がいることに。
何が本当なのか。記憶か、映るものを信じればいいのか。
「でも、なかなか予定が合わなくてこんな時間になっちゃって」
「だから、怒ってないよ」
「ふふ、良かった。でもね、」
彼女は笑った顔を、日が陰ったように急速にしぼませた。
「ちゃんとお別れしたかったの」
「え?」
寂しそうにどこか遠くを見つめたまま、言葉を続ける。
「突然だったから、一緒に行けなかったから」
横顔を見ながら、俺は思う。あれは、やっぱり夢でじゃなかったのか。目の前に迫った車も。震える彼女の手も。
それとも、こっちが……。
「だから、ね」
ふわりと薄紅の花びらがどこからか流れてきた。
ゆっくり歩いてきたつもりだったが、いつの間にか公園へたどり着いていたらしい。
「俺は、また会えて嬉しかった。これが、夢だったとしても。一緒に見ることが出来て」
「うん。でもね、そろそろ時間なの」
惜しむよう一歩ずつ公園の中へと足を進める。なんとなく、立ち止まってしまったら終わりな気がしていた。足を止めても、たどり着いても終わりなら、少しでも長く居れる方を選ぶだろう。
「もう……か」
開けた場所へ出る。オレンジ色の光に照らされて、満開の桜の木がその存在を主張する。もう散るだけの咲き誇った木。それは美しく、哀しい。
風に乗って、ひらりひらりと舞う中で、彼女は目に涙を浮かべ微笑んでいる。
「私も、嬉しかった」
世界が薄紅色に染まっていく。
「たとえ、もう会えなくても」
彼女から涙が次々と溢れ出していく。本当は、化粧で誤魔化しきれない泣いた跡には気づかないふりをしてた。
「やだな。今度こそ笑ってお別れするって決めてたのに」
どれだけ、泣かしてしまったのだろう。
涙を拭おうと伸ばそうとした手を上げて、俺は元に戻した。
「さよならか」
「さよならね」
一層花びらが舞い、彼女の姿見えなくなっていく。
最初から、影は一つだけだった。
あやふやなだった記憶のなかで、思い出すことがある。胸を突くような泣き声と名前を呼ぶ声を。
あの時……、俺は死んだんだ。
そして、目の前が暗くなった。