表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

クロース・アップ!

作者: ほっけ

 夏が絶望的にかすんでしまった。


 小中高のサッカー生活の集大成がこんな所で幕を下ろすなんて思ってもみなかったのだ。

 プール開きの授業で浮かれていたのだろう、お調子者のクラスメイトとたわむれていたところ、プールサイドでつるりと足を滑らせた。

 一瞬、のはずなのにプールの水色がスローモーションに波打って見えた視界。頭から打つのはまずいと反射神経が働いたのか、利き腕の右腕一本でとっさに身体の全体重を庇っていた。

 結果、全治三ヶ月の複雑骨折。ギブスでぶらあんと吊られているだけの役立たず、お荷物。

 激しい運動はもちろん厳禁で、夏の全国へ続く大会への予選からもレギュラーを外され、選手層が公立高校にしては厚いのだ、問答無用で選手外通告、消費期限の切れた牛乳を飲んでしまったみたいな顔で、お疲れさん、とコーチに肩を叩かれてしまった。

 視界が真っ黒になることもなく、涙も出なかった。

 すいませんお世話になりました、と憑き物が取れたような体重が半分になってしまったかのような軽さで、コーチや顧問の先生、三年間ともにグラウンドを走ってきた同級生達に、淡々と頭を下げてから、俺は泥の付いたスパイクをきっぱりと脱いだ。


 表面的には落ち込んでいるように見えないのだろう、自分でもこの気持ちを外にどうやって吐き出せばいいのやら、分からない。担任の先生や、サッカーと関係のないクラスメイト達からは、少し励ましの言葉をもらって、それ以降はとくに話題にされなかった。右腕に不便があれば誰かがさり気なく手伝ってくれる。学校生活を送る上では苦労はない。

 ただ、心が抜け落ちてしまった。

 じわじわと空洞に気持ちの悪いものが蓄積されていく。叫びたいのか、泣きたいのか、怒りたいのか、ごちゃまぜになって、どんどん無気力に何もしたくなくなってくる。

 そう、宙ぶらりんに揺れる右腕だけが、俺の出来の悪い親友だと言うように。

 一学期の期末試験まで二週間、テスト期間の部活の休みにはなっていないものの、進学を目指す生徒向けの補講が行われはじめていた。

 怪我をする前までは部活の引退後、大学でもサッカーを続けるか否かを短い夏休みの残りを使って考えて、それから受験する学校を絞って勉強しようと漠然と考えていた。この計画はパア。少なくとも、なんとなくもう、プレーヤーとしてサッカーに関わりたくなかった。

 いきなり受験勉強モードに頭を切り替えることは出来ないし、進学だと言っても、目指す先が見えていないのだから、補講になんて参加するつもりもなく。ホームルームが終わればだらだらと、下駄箱とロッカーが一体化した玄関まで一人で降りていく。

 部活一色で三年間を過ごしてきたのだ、放課後に寄り道して遊びに行く友人は、部活の仲間以外には片手で余るほどの人数しかいない。そして、それらみんなブツブツ文句を言いながらも補講に参加し、英文法を叩き込まれているのだ。

 ああ、これが、まさに。

 何か新しいことにあり余るエネルギーを向けるべきなのに、その対象が見当たらない。ふつふつとマイナスの感情が腹の中で煮えくり返る。俺はこれからどうしたらいい?


「ックソ! 何やねん、この靴! 履けるかあボケェ……」


 固く結ばれた靴紐が片手ではなかなか解けない。利き足の右だけ履いているコンバースのスニーカーで、下から二番目の自分のロッカーを蹴り上げた。

 安っぽい金属素材のロッカーが思ったより大きな音を立ててくぼむものだから、驚いてしまって、それが不快で更に無抵抗な扉にキックを奮い続け、もう、止まらない。


「あのー、悪いんやけど、非常に邪魔なんで、一旦ケリやめてもらえるか? そんなにモノ蹴りたいんならサッカー部の練習にでも混ぜてもらってシュート決めるほうが生産的やと思うけど」


 俺の全身を硬直させるに十分な言葉だった。バケツに貯められた冷水をいきなり頭に被せられたかのよう、身体が一気に冷えていく。

 声の人物を振り返って何か言い返してやりたいけれども、消え去ってしまいたいぐらい恥ずかしくて、うつむいた。紺色のおろしたてのコンバースの先っぽに傷がいくつも入っている。


「……げっ、右腕。たしか、大会前にサッカー部追い出された、ええと、笹部やんな?」


 サッカーの強豪校でエースではないにしろ、レギュラーの座を掴み取っていたのだ、良くも悪くも名前が広まってしまっていた。

 ここまで、惨めで情けない気持ちを味わうことは今までなかったが。

 クラスメイトでない聞き覚えのない声。多少接点のある奴らは、あけすけに尖った言葉をぶつけてこない。

 たっぷり時間をかけて頷いた。

 すると、日に焼けていないほとんど皮と骨の手が、左足のコンバースを持って視界に入ってきた。不器用に靴紐をゆるめようとしているらしい。


「ごめん、気付かんくて、ひどいこと言うてもた」

「……うん、まあ、そっちが言うたこと間違ってないし。むしろ正しかったっていうか。あ、その穴の下から紐引っ張って」

「え、どの穴かいっぱいで分からん、これ?」

「ちがうちがう、斜め下左手のとこ……」


 はじめて視線がかち合った。やはり喋ったこともない名前も知らない奴だった。赤のごついヘッドフォンを首にひっかけている以外は地味な容姿。

 ぱっと見の印象がどことなく飄々とした河童だなと思った。

 

「あー、笹部からしたらはじめましてやろな、オレみたいなやつ。どーも河原です」


 河原は立ち上がって左腕を差し出し、のろのろとした動作で握手をかわす。

 そして、俺の手をまじまじ観察して、爪が綺麗だの指が長いからアソコもデカそうだの握力でリンゴが潰せそうだの、と勝手なことを興奮気味に呟いている。

 直感した。こいつ、変人にきっちり分類されるタイプだ。


「この靴ええけどさ、笹部が一人で履かれへんよーなやつは不便やで。カポって簡単に履けるのん買った方が、ほらオレみたいにさ」


 目の前に出されたのは、どぎつい黄色をしたクロックスのパチモン。スーパーで五百円ぐらいで安売りされていそうなものだ。


「革靴か紐靴しかアカンやん、校則的に。これ絶対にアウトやろ」

「風紀チェックの日終わったら意外といけるねんなーこれが。つうか誰もオレの足元までわざわざ見やんし」

「へえ、そうなんや」


 正直、今すぐ河原から離れたい。初対面の変な奴とベラベラ喋り続けられるほど、コミュニケーション能力は高くない。さっき言われたサッカー部うんぬんの言葉が、のどに突き刺さった小骨のように心地悪いのもある。

 だからはやく手に持ったままのコンバース返してくれ、俺のことなんか放っておいてさっさとここから立ち去れ。

 そう念じて軽く睨みつけてやっても河原は動じずに、とうとうコンバースの紐をほどいてみせた。

 しゃがみなおして俺の左脚を持ち上げて靴を履かせ、不恰好な蝶々結びを作り得意気なドヤ顔をする。


「さすがやな、やっぱし脚めっちゃ鍛えられてる。手もそうやけど、綺麗な身体してるなァ」


 背筋から見事に鳥肌が立った。

 なんなんだこいつは。俺の脚を掴んでうっとりするな、迷惑だ。

 河原がホモにしか認識できなくなった。今すぐ逃げるべきだろうか、自由な右脚でこいつを蹴り上げて。


「俺のことホモやと思ったやろ?」

「そ、そんなこと」

「ホモやないけど、ノーマルでもないかなあ。最近な人の四肢フェチなんよ。綺麗な手足なら男女問わずごちそうさまーって感じ。笹部はなあ、ほんっまタイプや……」


 コンバースを履かせてくれた恩は一瞬で消え去った。

 こんな告白はいらん。女子に言われても若干引くようなことを、薄っぺらい河童ヤロウに言われて、ありがとうだなんて口が裂けても言うものか。

 足首を掴んだままの河原の手を振り払い玄関へ飛び出した。


 カポカポと間抜けな足音がどんどん近付いてくる。早歩きをすればその音が同じスピードで追いかけてくる。


「なんやねん、ついてくんな」

「そんなこと言われてもさ、駅こっちやんか。別にストーキングしたつもりじゃないねんで?」

「……あっそ」


 振り返ってしまった俺が自意識過剰みたいで、思わず舌打ちをした。

 ジワジワと蒸し暑い風が頬に触れていくのが不快だ。一刻もはやくクーラーの効いた電車に乗ってしまいたかった。

 しかし、河原にカバンを力強く引っ張られている。


「まだ何かあるん?」

「せっかくやし、こんなに暑いしさコンビニでアイス買ってから駅行かへんかなって」

「嫌や。早く帰りたい」

「そんな冷たいこと言わんとって。今日のところはオレが奢るから! なんでもええでダッツ以外なら!」


 河原のほそい腕のどこにそんな力があるのか、抵抗するもののびくともしない。カバンの取っ手が鈍い音を立てはじめたので、諦めて河原に連行されコンビニまで歩いていく。

 店員の無駄に元気な、いらっしゃいませを聞きながら、全身が急速に冷やされていく。めちゃくちゃ気持ちがいい。


「笹部こっち。アイスコーナーめっちゃ冷えてて最強やで!」


 オープンケースに陳列されたアイスの群れに手をかざして、河原が呼ぶ。こいつは小学生か。あまりにも屈託なく河原が笑うものだから、思わず吹き出してしまった。横に並んでアイスを物色しながら涼む。


「オレはこれやな。笹部も決まった?」

「じゃあこれで」

「遠慮せんと、もっと高いのでもええで?」


 六十円ちょっとのガリガリ食感ソーダ味のアイス、値段に関係なく俺はこれが一番好きだ。それに、固定された右腕を揺らしてみせる。納得した河原はレジへ向かった。

 ありがとうございました、に後押しされてカンカン照りの外に足を踏み出す。すぐさまパッケージを外された水色のアイスが目の前に差し出される。


「おう、サンキュ」

「どういたしまして。ああ、やっぱオレもそれにしたらよかったかも。美味いもんなー」


 かぶりつくと途端に広がる、しゃりしゃりソーダが冷たくて、歯が少しキンっとなるのも最高だ。もう一口かじったあと河原に差し出す。


「マジで、ええん?」

「お前の金で買ったやつやろ」

「そうやけど、オレのことウザがってたのに、アイス一本でここまでデレるなんて、単純っていうか、素直っていうか。変な人にホイホイついて行ったらアカンって習ったやろ?」


 アイスの根本に遠慮なく噛みついた河原が、口を離すさい俺の親指を冷たい舌でべろんと舐めあげた。

 反射神経は鋭いほうだと思う。しかし、突飛すぎる行動はとてもじゃないが予想できなかった。


「んな……っ! な、な、なにしてくれとんや、この、ど変態! 変質者! お前なんか今後一切信じてやらん! 帰る!」

「ごめんごめん、ほんの冗談やから堪忍してや? 今度からは不意打ちせえへんと、許可もらうから!」

「あほう! 誰がそんな気色悪いことオッケーするか! お前なんか大嫌いや!」


 河原が何か叫んでいるのを徹底的に無視して、全速力で走った。サッカーで鍛え上げた自慢の脚だ、明らかにひ弱な体格の河原では追いつけるはずもなく。駅までスピードを落とさずに走りきり呼吸も乱さずに振り返れば、河原の姿なんてどこにもなかった。


「げっ。アイスもったいな……」


 大部分が炎天下の熱で溶けてしまったようで、棒にわずかに残っていたアイスも今ちょうど左手から地面にダイブした。

 手には薄い水色の液体が滴るだけで、それを舐めるとぬるく甘ったるい味がして、手がよけいにベトベトになってしまった。



 河原との嬉しくない接点が出来てしまって数日。

 今まで全く視界に入らないタイプの男子だったのに、移動時間の廊下で、体育の更衣室で、昼休みの学食で、それはもう校舎のいたるところで河原の姿が目に付くようになってしまった。

 地味で河童じみた容姿の変態野郎なのだ、孤立していてもおかしくないが、なぜか河原は男女が混じった集団の中に馴染んでいる。

 むしろ円の中心人物となって、周囲には笑顔が溢れている。変人発言も歓迎される不思議な盛り上げ役として君臨していた。


「おーい! おはよう笹部! また、一緒に帰ろーな!」

「……はよ」


 賑やかな集団のそばを、今日みたいに独りぼっちで横切らねばならない時がある。

 俺が一人であろうが、他に友人がいようが、河原は弾けんばかりの笑顔と大声で呼びかけてくるが、たまらなく居心地が悪い。というか、河原がやっぱり胡散臭くて関わりたくないのだ。怪我のこともあって、最近の俺は目立つことを避けるようになった。

 順調に勝ち進んでいるサッカー部の活躍は嫌でも耳に入ってくる。ほんの少し前まで俺もその一員で些細ながらもチームに貢献し、まっとうな明るい高校生活を謳歌していたし、今も光の当たる規範的で理想的な高校生でいられるはずだったのに。

 なんだこのザマは。

 河原みたいな奴に劣等感を抱いてしまっている自分が嫌いだ。


「なあなあ、さーべってカッパラと接点あったん? つうか、めちゃくちゃ仲良さげなんやけど、いつの間に」

「は、カッパラ?」

「一組の河原。カッパに似てる河原やから、カッパラって呼んでるねんけどな」


 そう言って海苔がついた歯を剥き出しにして田上が笑った。昼飯を教室で食べるときにはほとんど田上と一緒だ。

 数少ないサッカー部外での友人であり、アルバイトに熱を傾ける帰宅部の田上。

 ブリーチで突如金髪になってみたり、居眠りばかりして教師に呆れられるお気楽な男だが、実はなかなか男前な性質をしている。プールの事故のとき、サッカーが出来なくなった俺を思って滝のように号泣していた。さり気なく右手のフォローをしてくれるし、いつも屈託なく笑いかけてくれる。

 喜怒哀楽が激しいものの、一緒にいて気持ちのいい奴だ。


「別に、仲良くない。ってか、あっちがやたらと絡んでくるんよ。結構変わってるってか、ド変態やろあんなん……」

「あははは、たしかに! そこは否定せえへん。けどな、カッパラってええかげんそうに見えて、実は凄いやつなんやで?」

「ふうん、どこらへんが?」

「カッパラな、高校生の映画コンクールで二年連続、賞もらってるねん。センスにあふれてるっていうか、俺すっかりファンで」


 ふうん、と頷いて焼きそばパンを頬張った。べつに河原がクリエイティブな方面で才能があろうがなかろうが、ぶっちゃけ、しったこっちゃあるか、だ。

 大体、芸術やモノづくりに関しては何が面白いのかよく分からない。興味を失った俺とは対照的に田上が河原の凄さを熱弁しているものの、耳を素通りしていく。

 突然、田上がズイッとスマートフォンの画面を俺の目の前に持ってきた。イヤフォンを両耳に入れられ、動画の再生ボタンが楽しげにタップされる。

 吹奏楽部がよく演奏していそうな音楽が鳴り響く中、何故かテコンドーとなぎなたによる異種格闘技戦の決戦が繰り広げられていく。

 しかもテコンドーの選手役を田上が演じているから吹き出しそうになった。しかし、アクションがテレビドラマより、迫力があるせいか見入ってしまう。決戦の合間にはそれぞれの選手のラブコメや友情シーンが盛り込まれていて、荒唐無稽なバカバカしいストーリーなのに、最後まで見ると妙な感動がある。

 十分ちょっとの短編が素直にとても面白かった。


「なっ。すごいやろ」

「うん、面白いなあこれ、河原が監督ってこと?」

「監督はもちろん、役者以外のことは、脚本から撮影から編集までほとんど河原一人で作ってもうてん。一年のクラスの文化祭の出し物用にな。完成したのをホームルームで流したら、みんなびっくりしてもうて。こいつ天才ちゃうんか、って」


 田上いわく、映画を撮る前の河原はクラスで浮いていたらしい。大人しいくせに、たまに口を開けば突飛なことを言って失笑されていた、要するにスベリ倒していたようで。

 映画のおかげで一目置かれるようになった河原はクラスにじょじょに馴染んでいったそうだ。文化祭で好評だったのをきっかけに担任教師にすすめられて、軽い気持ちでコンクールに出してみれば、審査員特別賞をもらってしまった。二年のクラスの文化祭でも監督になって、今度はクラスのほとんどが撮影に協力し、さらに凝ったものを完成させてコンクールで監督賞と編集賞を獲得。

 という、なかなかの活躍ぶりだ。直接喋ったことはなくても、同級生なら誰もが名前ぐらい知っている有名人で、俺みたいに全く知らない奴のほうが少数派らしい。

 田上がニコニコしながら弁当を食べ進めていく。いつも明るい田上が普段より数倍嬉しそうだ。


「真面目なさーべと、ヘンテコなカッパラって正反対ぽいけどさ、意外と相性よかったりして。いや、絶対にいけると思う。夏休み三人でどっか行こうな!」

「勝手に決めんなよ、俺あいつのこと持て余してんのに……」


 このままでは、やたらと張り切っている田上によって、河原との接点が増やされてしまう。ちょっと格好良い映画を作るからって、それでもまだ、あの変態の怪しい微笑みは苦手だ。

 ああいうのは、面倒臭いことを企んでいる顔だ。巻き込まれてなるものか。


「おい、マジか。ご機嫌斜めすぎるやろコンバースさんよ」


 紺色の傷付いたコンバースの反抗期が再び。前回に増して固く複雑にこんがらがっている。

 今日も田上は英文法の応用問題とダルそうに戦っているので、一人でどうにかしないといけない。まず無理だ。ため息がこぼれた。

 以前のように暴れるほどの気力もなく、そうだ保健室の先生に頼んだら解いてもらえるんちゃうかな格好悪いけどなあ、などと考えながら、うらめしくコンバースを睨む。そんなに俺が嫌いなのか君は。


「お困りのよーですね、笹部クン。それほどいてあげるからさあ、一緒にかーえりーましょっ」


 あああ、こんちくしょう!

 こうなってしまうのならば、コイツ以外の誰かに早く頼るべきだったんだ。最悪だ。河原の上機嫌な声が普段の三倍ほど鬱陶しく聞こえる。 

 無言で歯をギリギリさせている間に、河原がしゃがみこんで左足のコンバースの紐とにらめっこをはじめた。しばらくして、妙に上手い口笛を吹きながら軽々とほどいていく。

 シンデレラにガラスの靴を履かせるような丁重な動作で、左脚におさまるコンバース。

 河原のことだ、これだけで済むはずもなく。クルクルとスボンの裾がふくらはぎの下まで巻かれた。足首が両手でホールドされ、スニーカーソックスとくるぶしの境目をツウっと人差し指で撫で上げられた。悪寒がした。

 やめろ、と小さく声を尖らせても河原には伝わらない。

 宝物を触るように足首にさわるな、鼻息を荒くするな、もう嫌だ泣きたい。


「そんな顔せんとって。あとちょっとだけお願い」


 口元はいやらしく笑っているのに、眼は切実に緊張している。立ち上がった河原に、爪、手の甲、脈を確認するみたいに手首を握り込まれ、肘の裏側を見られた。やっていることは明らかに不審で、変態以外の何者でもない。

 しかし、四肢のパーツを一つ一つ確認するたびに、静かなプールの水面みたく河原の瞳が光って揺れる。爽やかにカルキの匂いが漂ってきそうだ。


「ふう、ありがと。これでいける。そんじゃあ帰ろっか。今日もアイスあげるからな」


 気持ち良く息継ぎして、河原がはにかんだ。

 言動も存在も気に食わないけれども、河原の瞳と笑顔だけは嫌いじゃない。変人だと自覚し変人のまま真っ直ぐに振る舞う、何事にもとらわれない自由人だ。マイペースに周囲を巻き込んでいく。

 どこから湧いてくるのか不思議な馬鹿力にカバンを拘束され、コンビニへ引っ張って行かれる。抵抗しても無駄なのだ、プールに仰向けで浮かぶように力を抜いた。


 汗で張り付いたシャツをパタパタとあおぎながらコンビニの冷房に癒される。日増しに強くなる照りつけが凶悪だ。ロウソクみたいに頭から溶かされてしまいそう。

 先にアイスコーナーに行った河原といえば、すでに買うものを決めてしまったようでレジで清算している。


「はいよこれ、はんぶんこ!」


 はんぶんこ、という名の押し付けだ。チョコとコーヒー味のアイスが真ん中でパキンと折られた。

 片割れを貰った。これは可愛い女の子とするからロマンがあるのであって、何が嬉しくて河原と甘苦い青春味を食べないといけない。げんなりしている間に柔らかなプラスチックの表面が水滴だらけになって、中身が溶けはじめた。アイスに罪はない。美味しく頂いてやるとも。

 いつもは無駄に話しかけてくるくせに、下駄箱の時から河原が大人しい。黙ってアイスをじゅうっと吸い出している。にもかかわらず、何か言いたいことがありそうな視線をひしひし感じる。

 ああ、面倒くさい。何か話してやってからの方が河原も口を開くだろう。


「友達の田上から、お前の撮った映画見せられたんやけど。賞とかもらってるんやってな。……凄かった、面白いなって正直に」


 目を何度か瞬きさせて、薄茶色の冷たい液体をゆっくり流し込んでから、河原は口をぬぐった。中途半端な長さの黒髪をくしゃくしゃに混ぜて目じりを下げて笑う。


「あーあ、田上のやろー、お楽しみ奪いよって! 笹部びっくりさしたかったのに、パアになってもうた。いや、まあ、話早くなって、これはこれでアリやな……ちょおっと消化不良でもあるけれども、もういこう!」

「顔近いって。離れろバカ」

「監督権限で笹部には今年の俺の映画の主演やってもらうから。これすでに決定済みな、そろそろ撮影はじめやな文化祭に間に合わへんし、夏休みどうせヒマしてるんやろうし、これからは毎日俺に付き合ってもらうで」

「嫌や。そんなん一言も聞いてない!」

「やって今まで笹部が一緒に帰ってくれへんから言い出すきっかけなかったんやもん。それに嫌がるやろうから口説き落とすための文句必死で考えとったんやないかぁ。……へへへ、もう逃がさんで。笹部の身体とか普段の表情でな、一気に面白いアイデア浮かんで。この子をうまく撮れれば今までで一番の映画作れるなって」


 間違いない。一直線にどでかい墓穴を掘りに行ってしまった。そして、その穴からは簡単に逃れられそうになく。

 河原のおそろしいまでの力に握りしめられた手首がぷるぷる振動している。

 いやだいやだ、の心境の中に見付けてしまった、まぶしい河原に構われることが嬉しくなってしまっている自分自身が一番嫌で、ショックだ。

 俺はこいつなんて大嫌いでいたいのに。

 なんで少し、ウキウキしている。


「……断るって言うたら? 演技なんかできへんし」

「演技はなんとかなる。オレに任せとけば、サッカーしてたときよりもええ顔さしたる。自信あるから。それでも断るってんなら、どんな手でも使うで。オレ、笹部なら抱けるやろーし、実際何回か夜のオカズにさせてもらったわァ」


 これ以上いやいやするんやったらここでキスするぞ、と言わんばかりの至近距離で顎を固定される。これは立派な恐喝だろう。恥ずかしい上、とにかく今の河原の視線は恐怖だ。獲物を仕留めた猛禽類の鋭い目。こいつなら如何わしい行為を本当にやりかねない。

 尻を握られた瞬間、なんでもするからもうやめてくれと、無心で頷いてしまった。


「よっしゃ決まりな。素直にしてくれたら無理矢理はせーへんから、大丈夫やで。安心して身体預けてな」


 つい先ほどまでの、狂気さえ感じる表情を引っ込めて、カラッと爽やかに微笑まれた。きわどいセリフを言われた気がするが、それは映画撮影のことだろう。そうであってくれ、と祈りながら一度頷いた。

 河原は台風そのものだ。通過していけば快晴になるが、またすぐに強烈な風となって直撃してくる。この夏、いかにして暴風から身を守るべきなのか。



 テストが翌週に迫る張りつめた期間に、俺と河原だけの撮影が開始された。補講の邪魔にならなければ好きなだけ自由に校舎を使用していい、という好条件をもらって。学校側は河原の活躍を高く評価しているせいか、マスターキーまで貸してくれた。

 ここまではいい。しかし、河原はやはり河原というか、撮影している内容がさっぱり分からない。


「これ、意味あるん? つうか最近、どの撮影もモノ壊したり蹴ったりばっか。大丈夫なんか色々と」

「そんなん笹部には関係ない。さっさと言われた通り、めちゃくちゃにやって」


 湿気がたちこめる、うだるような暑さの体育館には、俺たちの他には誰一人いない。手持ちカメラを抱えた河原に、体育館倉庫を狂ったように荒らし回るよう指示されたが、気が引けてしまっている。

 加えて、今日の河原はいつにも増して俺を逆立てるようなものの言い方をする。頭にきた。


「だいたい、脚本見せてくれへんのもおかしいって。話の内容分からんのに、お前の指示すべてに、はいそーですかって納得できるか。変なことばっかさせるし。せめて理由とか主人公の気持ちとか教えてくれな」

「ごちゃごちゃ考えやんでいい、オレのこと信じてたらええねん」

「信用できへんわお前なんか! 胡散臭いねん変態!」

「変態変態って、それしか罵り文句知らんの?」


 急にマットレスに突き飛ばされて、河原にのしかかられる。


「ほんっま、かわいいね。笹部クン。一回痛い目にあっとかな分からんの?」


 汗で湿った手で、両手首を頭上で固定され、脚も動かせない様に体重がかけられる。河原が薄笑いを浮かべてわざとらしく、見せつけるように、俺の唇を噛んだ。

 ねっとりと口元を舐められた時、押さえつけられた右手が痛んで涙がこぼれた。あつくるしい。

 なんで俺はのこのこと河原に襲われているんだ。密室に二人だ、このままでは絶対にヤラれる。嫌や。こんなん。


「死んでもいやや! やめろ河原!」


 右脚が自由になった瞬間、バレーボールが入ったカゴを蹴り飛ばした。ボールが散らばって跳ねる。ひとつ掴んで河原めがけて投げつけた。ひらりと身軽に河原は避けた。

 この河童ヤロウめ、ほんまにいっぺんしばき倒す!

 無我夢中だった。

 小さいものはひっ掴んですべて投げた。バスケの得点板を蹴り上げて倒した。バドミントンの重いポールを振り回してやった。跳び箱も蹴って崩した。血眼になって河原を追っかけた。ネットで河原を捕まえようと躍起になった。

 ちょろちょろ動く卑怯者め!


「はい、カット! カット! おっけい笹部、最高の画いただきましたー!」


 満面の笑顔でカメラを構えた河原が叫んだ。とたんに身体がピタリと動きを止めた。そして我に返ると、倉庫の中がひっくり返った戦場跡地だ。


「あー笹部の容赦の無さやばいわ、おかげでいいシーン撮れたけど。はははっ、殺されるかと思った」

「……いまの撮ってたん?」

「当り前やろ、我を忘れて怒り狂う笹部。これが狙いやったんよ」

「えっ、わざと? いつから? ……き、キス、も計算なんか」

「うん、半分くらいは。こうやれば笹部でも暴れてくれるやろなーって。けども半分は本気。気持ちよかった。もう一回ちゅーさして?」


 堂々と悪びれもせず、話す河原に脱力する。こいつの手の上で初めから踊らされていた訳だ。へなへなと地べたに座り込んで、荒れ果てた体育道具たちを見やる。


「どないすんねんこれ。壊れとったら弁償もんやで?」

「あー、結果オーライや。壊してない。怪我もしてないし万々歳。それよりも、今の場面見せちゃるわ。こっちおいで」


 跳び箱に腰掛けている河原の後ろに立つ。河原がカメラの再生ボタンを押した。バレーボールが飛び散ったところから、小さい画面に映し出されていく。

 荒々しく動くカメラには、しっかり俺の姿が捉えられていた。こんなにも激しく暴れ回っていたなんて思わなかった。自分の姿を見て、迫力があるなと感心するほどに。


「やっぱ笹部ええなー、手負いの獣みたいで鋭いわ。画面で活きるってこういうことなんよ。……どう?」

「おう、なんか恥ずかしいけど。でもさ、俺から逃げながらこんなん、よー撮ったよな。すごいわ」

「ありがと。カメラ内でぐわっと編集するの好きでさ。だから撮ってたときは夢中やった。この一瞬だけの笹部をカメラに収めきりたいって」


 二人で顔を見合わせて照れた。

 カメラを手にして撮影のことを語る河原は、まぶしい。危うさもあるけれども、惹きつけられる。田上がやたらと河原を褒める理由が分かった。

 この真剣な眼差しをカメラの奥から注がれるのは、案外、とっても気持ちがいいのかもしれない。

 河原に振り回されてみたくもなる。


「オレな、完成前は誰にも見せたことないねん。一緒にいい映画にしていきたいからさ、笹部だけには特別」

「なんかそんなん言われたら……河原のこと嫌いになられへん。……反則や」

「すぐに大好きって言わせたるし。メロメロになるのも時間の問題や」

「河原のそういう発言さ、どこまで本気……っ!?」


 油断していた。完全に頬を包み込まれてキスされている。やたらと優しく口付けられるものだから拒む気も失せた。

 俺のことが大好きなんだろうな、ってのが痺れるほど伝わってくるような。そんなキスは初めてだ。今は気分がいいから勝手にさせてやった。

 むしろ、途中から俺もムズムズしてきて、河原の唇を割って舌を絡めた。驚いて逃げようとした河原の反応が面白くて、ついつい、唾液が顎を伝うまで深いキスを繰り返した。


「……えっろ、笹部って。なんなんもー」

「キスしたかったんやろ?」

「そうやけど、思ってたんとちゃう! 笹部なんでそんな……?」

「だって俺、普通にモテてきたしなー? 河原とは格がちがうんよ」

「……余裕ぶってられるのも今のうちだけやで?」


 悔しそうにしている河原を見れたおかげで、最高に愉快だ。振り回されてばかりじゃあ性に合わない、俺からのささやかな反撃。


「なあ、アイス奢ってや河原。この倉庫、クソあついー。冷やされなとける!」

「わかったから暴れたぶん片付けてな、えっぐい散らかしようやで……」

「俺のせいちがうし。河原が変なことはするからやろ」

「おー、言うたな。満更じゃないくせに。ほんまに今すぐ犯すで?」


 河原が物騒にじりじり迫ってくる。どうやら調子に乗り過ぎてしまったようだ。

 倉庫から体育館に飛び出した。広いところで走れば追いつけないだろうから。頬をふくらませた河原が、しぶしぶ後片付けに戻った。


 こんな風に馬鹿をして、アイスを買い食いして、次の日にはまた撮影する。妙な距離感も許されてもいいだろう。だって夏だし。暑いし。頭がとろけているのだ。


 テストが終了して夏休みになれば、有志の役者希望のメンバーが加わって、大勢での撮影が計画されている。もちろん田上もやってくる。河原が言うには、キーマンとなる役になるのだそう。

 サッカーが出来なくなった時点で夏が終わったと思っていた。そんなことはなかった。クラスの垣根を超えて一つのことに打ちこむ。きっと毎日が今までとは違う新しい世界になる。楽しい休みがもうすぐやって来る。


「笹部も手伝ってくれやな終わらへんやんかー、何もせえへんから戻ってきてよ、お願い。もー限界やわ」


 暑さで河原が、水分を失った瀕死の河童になりかけている。ひとしきり笑ったあと、助けに向かう。

 ひ弱そうで、変人で、言動はただの変態で、俺のケツを狙っている筋金入りで、どうしようもない奴だ。

 そのせいだろうか、俺の冷え切った心をいつの間にか溶かし始めている。


 溶かされたあと、カップの底に残るのは、ぬるくなったバニラ風味の甘さか。そんな直球のロマンスはちょっと遠慮したい。チープだけど癖になる、綺麗な水色のソーダ味ぐらいが俺たちにはちょうどいいと思う。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ