【2】「ようやく一人前なんじゃねえの?」
喫茶店『Wolf in forest』店主・大加美稜牙は、読んでいたらしい新聞をバサバサ畳むと早速奥のキッチンへと引っ込んでいった。
――新聞、である。
各種行政サービスはおろか日常生活レベルのなんやかやにも、SF映画の世界に片足突っ込んだ挙句に時代を一つ二つ飛び越えたようなバリバリの最先端科学がところどころ採用されまくっているこの島ではあるが、新聞というアナクロな情報媒体はまだまだ生き残っている。というか全然衰退していない。新聞の役を果たすタッチ式の電子コンソールごと月極で貸与する契約方式を採っている新聞社の代理店だってあるにはあるが、取り分け彼は紙媒体を好んでいるようだった。そんな稜牙のような住民はこの島にもまだまだ沢山居るということか。
拒はふとそのカウンター上に置かれた新聞の一面へなんとなく目を走らせる。
並んでいるのはアルファベットだ。英語の授業で見慣れて来た文法に似通っている、かと思いきや、名詞の前には見慣れないセンテンスがちょいちょい付いている。それが文脈上ちょいちょい邪魔っけに見えた。
ズラリ並んだ文字の中、取り分け「German」という単語が多く散見される。
――ドイツ語新聞。
――思えば出会った当初から、稜牙はそんなものを愛読しているのだ。
(ただでさえかっこいいのに、そこに加えてドイツ語が堪能とか…。やっばい。稜牙さん今日も素敵。輪を掛けて素敵)
「今日は直接学校に行くかと思ってたんだがな」
早速漂い始まって来た紅茶のいい匂いに拒はハッと我に返る。
そして笑った。
文字通り、花の咲くような笑顔で。
「それってどういう意味ですかぁ? 来ない方が良かった客ってこと? やん、私ショック」
「はは、よりによって『Wolf in forest』リピーター第一位に向かってそんなことは言わねえさ眼鏡っ娘。――ただ、なんだ。合戦の翌日も翌日だろうによ」
「それがなんだっていうんです。今までだって普通に顔出してたじゃないですかー。っていうか当日朝でもお邪魔してますよ私」
スカートのしわを正しつつ腰を降ろし、鞄は脇へ。文字通り「毎朝」座っている自分の定位置、窓際の四人掛けテーブルに一人で陣取る。
「いやなんつーか…。取り分け今日は後片付けとかかなり山積みなんじゃないかと思ってな。すぐそこ、ウチの前の道路はもう昨日の内に直されてったが、さすがにお前の学院の校庭やら体育館やらはそうパッパとは行かないだろ?」
校庭。
体育館。
どちらも拒が荒らしまくったスポットである。
「全部今日中で終わらせる手筈になってます☆ 神無月の美化委員長はホント有能ですから、もうサックサク行きますよ! 無駄に腰が低いですから周りの人間もとりあえず指示には従ってキリキリ動きますし!」
「あー、そうなのな。そういうのには早くから顔出しておかなくてもいいのか? 生徒会長さん的には」
「出しますよぉ? でも今はまだ始業一時間以上前です。余裕です」
苦笑顔でキッチンから出て来る稜牙(エプロン付き)。手にしたトレイの上には、湯気を立てる紅茶に卵の甘い香りを惜しみなく漂わせているフレンチトーストが二切れ。添えられた小瓶には琥珀色のメープルシロップがなみなみと詰まっていた。
と。席に着いている拒を見、稜牙の足が突然引き攣るように止まった。
「うおっ」
「? どうかしました?」
「ああ、いや、どうもしな――しないが。しないがな?」
何やら歯切れが悪い。拒は(鏡の前で練習を重ねた末に編み出した絶妙な角度で)小首を傾げた。
首の角度もそのまま静止していること一秒弱。拒はまるで電撃じみた速度で鞄から素早く手鏡を取り出し、稜牙から一八〇度顔を背けつつ自分の顔をチェック開始。指先でシュババと前髪の並びを正し直すと、手鏡をまた鞄へとぶっ込みざま稜牙へと向き直った。
「何も付いてないですよね!?」
「だ、大丈夫だ。目と鼻と口と耳とあといつもの眼鏡、全く以っていつものお前だ眼鏡っ娘」
「やだもぅ驚かさないで下さいよー。てっきり口にするのもはばかられるような名状しがたい何かでもあったのかな、なんて。私ビックリしちゃいました」
「そりゃまあ確かにいきなり邪神群なんて言ったら確かに大変だわな。中央特区のあの店じゃあるまいし。――いや、そうじゃないんだ。そういうんじゃなくてな、その席――」
「…あ」
はた、と拒はくるくる変えていた表情を止める。そして――そっと、気持ち影を込めながら面を斜めに伏せた。
「ひょっとして稜牙さん――気、遣ってくれてます?」
「…。お、おう?」
「神無月の校庭とかの惨状を知ってるってことは、昨日の生中継、稜牙さんも見てたんですね」
「―――――。あー、ああ。そうな。まあ月一のことだしな」
視線を拒の顔に合わせてみたり、やや下方にスライドさせてみたり。どうにも妙な目の動きを見せつつも拒の前にモーニングティーセット(¥六〇〇)を置く稜牙。
「…そう。確かに後片付けも大変なことになりますよ。なんていったって神無月学院敷地内での交戦なんてここ一年本当に無かったんですから。――いえ。交戦ですらないですね。勝負自体は非公式も非公式、ほとんど事故みたいな出来事。首輪も付けてないおのぼりのバカが乱入して来ただけだったんですから」
「…バカ。バカか。そうだな、確かにバカなんだろうな」
「そんなバカ相手に――本当、面倒な真似されちゃいました」
スティックシュガーは二本まで。
紅茶へと慣れた手付きで砂糖を流し込み、拒はティースプーンでカップの中をぐるぐると掻き回す。顔はまだ伏せていた。
「驚いたぜ」
しばしの沈黙を挟んで、先に口を開いたのは稜牙の方だった。
「右でだけ――、だったか」
「はい」
か細く微笑む拒。
「正真正銘、第一位の座も危うくなりました。次の合戦は、正直、分かりません」
「……………」
〝戌亥ポートアイランド第一位〟神無月学院生徒会長・乗降拒。触れたものを吹っ飛ばし、攻撃の直撃すら無効化する、絶対無敵の念動力の使い手。
――しかしその「最強」は。
――右半身に於いてのみしか、適用されない。
「ごめんなさい、稜牙さん。折角貴方に背中を押して貰えたのに、こんな、たかだか一年程度で私はもう――」
「いや」
「…稜牙、さん?」
カウンターテーブルの前に並んだスツールの一つに腰を預けながら――拒のオーダーと一緒に準備していたのだろう――自分で淹れたコーヒーを自分で啜っている稜牙は言う。
「ようやく一人前なんじゃねえの?」
軽く放り出すように紡がれた気負いのない言葉。拒は紅茶のカップを両手で包んだ姿勢のままその動きを停めていた。
「誰にだって弱点はあるし、ある以上は衝かれる可能性も常にある。一人その事と無縁でワンサイドゲームなんてわけにはいかねぇ…。この〝お祭り〟だって、ゲームじゃないんだろ。――まあ一つ言えるのは、そうだな」
喉を一度嚥下させ、そして拒に向き直る。
「弱点がある事が、弱いって事じゃない」
「―――――。稜牙、さん…」
「むしろここからが、こうなってからが、お前の本当の強さの見せ所だろ眼鏡っ娘。今までが正攻法じゃなかったとは言わないが、それでも――そうだな。ここからだ。正真正銘、第一位なんていう無駄に飾った肩書きじゃない、乗降拒っつういち個人がこの島で本当に計られて来る所だぜ」
針の定まらない羅針盤のようだった拒の表情が、瞬間、ピタリと焦点を結んだ。
覇気。
彼女の目付きに宿ったのは、紛うことなき「それ」だった。
「――身の周りには居なかったか?」
「え?」
「今の俺と似たようなこと、言った奴。差し当たってあの一本差しの包帯君とかはどうした」
「ああ…。言いました」
「ほう」
「真っ先に今後の決めゼリフを準備してくれました」
「…。……。………。そうか。なかなか居ないぞそんな奴」
「〝そうよ。つまり私はどうしようもなく右ハンドル、生粋の国産車ってわけ。でも甘くみないことね! この戌亥ポートアイランド第一位の助手席はそう簡単には獲れないわ! アンタなんか乗車拒否よ!〟…って」
「いやいい! そんな涙目になるくらいなら言わなくてもいい!」
「あと、他にも――」
「止めろ俯いて肩を震わせないでくれ男として気まず過ぎる絵だ」
「〝神無月DOGS一同、一致団結して頑張りましょう〟」
言って。拒は一口、紅茶を啜った。
「…。そうか。ま、今後も合戦に完全勝つ気で臨むならそれが一番だろ」
「そうですか…。稜牙さんもそういう意見なんですね」
なら、と一息挟んで、拒は静かに口元を綻ばせた。
「ちょっととんでもない転回点だったけど、でもお陰でまた一つ稜牙さんの優しい教えに触れることが出来ました。あの招き猫も案外厄病神じゃないかもしれません」
「――ああ、そうだ。そうな。招き猫な」
と。稜牙の視線がまた不審なうろ付き方を始めた。
拒は内心首を捻った。
――なんだろう。やっぱり何か、こう、致命的に指摘し辛いレベルで身だしなみに何か妙なミステイクでもかましているのだろうか。
「ええ。あの猫。あの後すぐに判ったんですけど、なんでも運営サイドとの連絡手段がちょっとダウンしてたとかで――」
話を流れだけ継続させておきながら拒は四方八方へ気を配り始めた。なんだ。稜牙さんはいったい何を伝えようとしているのか。働け私の以心伝心。ずっとずっとこの人のこの店に――『Wolf in forest』に通い詰めた成果、今こそ全開で発揮されろ。
「それでびっくりしたんですけどね? あのあいつ、昨日付けで神無月の学生として編入して来た身分だったんですって。合戦が終わったあと生徒会室に戻って、そこでバドー爺――院長が言ってきました。高等部一年だ、って。本当、バカですよねえ…。お祭り気分でついはしゃいじゃったってことらしいですけど」
「お祭り、ねえ…。東京産のやんちゃなガキは大体そういうアレなのかね、やっぱり」
「あはは、偏見ですよぉ。私も東京育ちですけど周りは別にそんな――ってそうそうそう!」
駄目だ。
見付からない。
地雷は一体どこにある。
この普段からデフォで素敵に落ち着いた店主があれだけあからさまに妙な動きを見せるのだ、相当の事態に違いない。気付け拒。冴えろ拒。煮詰まって来るテンションそのままに思わず声を荒げる。
「どこをどう逆さに振っても頭悪そうなガキ以外の何者でもないのに、編入試験の方は、筆記、全問正解だったとか院長が言ってたんです。それで扱いとしては学費免除の特待生だって。――変だと思いません?」
「変っつーか、それは試験制度の欠陥だな」
「え?」
やけに確信が込められた調子の相槌を打つ稜牙。拒は一瞬呆気に取られた。
「基本、運気を司る民間信仰なんだろアレは? そんなのをマークシートで試験したって何一つ正確に測れるわけねえ。本当に〝普通の〟筆記試験やらせてみろ――お察しな結果が出るだろうぜ。多分、だがな」
「――あ」
「…? あ?」
「…そういうこと、だったのね…!」
ガシャァ! と思わずソーサー上に強くカップを叩き付けてしまう拒。周囲へ油断なく巡らせていた意識のこともこの瞬間だけは完璧に頭から飛んでいた。
「腹が立つわ…! あんなガキ相手に一瞬だってまさか勉強だけは出来るのかとか思った自分に腹が立つわ…!」
「――なあ、時に眼鏡っ娘よ」
「はい☆ なんです稜牙さんっ?」
女は化ける生き物だった。
「学費免除…っつったか。それは学生寮に入る費用とかに関してはあくまで別扱いなのか?」
「? そうですねぇ。まあ、そうなります。戌亥は学生ありきの島ですからね、その辺の環境についてはあらかた割安で提供されてるから、よっぽどでもないと苦になる話じゃないはずですけど。…それが何か?」
「そうか…。疑ってたわけじゃないが、ガチで文無しってことだったのか…。だから三毛の旦那の方は躍起になって一宿一宿と…」
「…? 稜牙さん?」
しかめっ面で自分のコーヒーを飲み干す稜牙。
その時だった。
――ゴン。
妙な音がした。その音と共に、拒が着いていた席のテーブルが微かに揺れた。
「…。……。………」
「…。……。………」
両者、沈黙。
額を押さえて明後日の方向を向く稜牙。
首を傾げながら音のしたテーブル下へと視線を転じる拒。
「くわあー。ン、もう朝でっしゃろかや? 目ェ醒めましたでよコンニャロー。にゃごにゃーご」
――テーブルの下に、なんか居た。
袖も裾も絞っていないダルンダルンな作務衣姿の銀髪小僧。拒にはすっげー見覚えのあるツラだった。
「…ってアルェ? まだ夜じゃニャーですか! さっきオオガミ兄貴にオヤスミっつってからまーだ一時間も経ってねえってトコですわなこれは? オケオケ、寝る子と書いてネコと読む、大手を振ってレッツ二度寝ですでよ――ふにゃー」
テーブル下で爆睡こいていたらしいそいつはちょっと身を起こした姿勢になったかと思いきやすぐにまた寝息を立て始めた。
拒のスカートの中に、銀髪頭を突っ込んだ格好で、そのまま。
「…。……。………」
「…。……。………」
「…。……。………ヌ?」
沈黙の稜牙。
沈黙の拒。
そして空気が読めてないのが一名。
「――おはよう、白黒君」
「ウェ!? 今おはようって聞こえましたでよ!? やっぱし朝なんじゃニャーですかよ! アブネーアブネー。こいつァ起きときませんとな。――って、ヌヌ? …アルェ? 会長サン?」
ぱちぱち。
まるでよく訓練された重度の変態のようなポジショニングのまま、白黒。
「目が醒めた? もう、変な所で寝てるのね」
「おうおう、変な所たァ失敬な! オオガミ兄貴が〝いいよもう、それじゃあここ好きに使えよ…〟っつって快く快く快ォーく貸してくれた寝床ですやい!」
「とりあえず、昨日振り。もう元気になったみたいね。心配したのよ」
「ニャーはははァー。やっぱし雨模様を一ツでっち上げるような力の使い方は相当キましたわ。ま、なんとか昨晩夜にはこれこの通り!」
「そう。それじゃ、稜牙さん。私そろそろ学校行きますね。また後でお邪魔します」
「―――――。お、おう、気を付けてな。ああ眼鏡っ娘? 何かと物知らずなガキだ、色々と教えてやれな」
「ええ分かってます稜牙さん。じゃあ、白黒君? そもそも一緒の学校なんだし、案内するわ」
「おおう、心遣い痛み入りまさァ! ま、方角は判ってますけども正しい道筋は判ってねえのが正直な所。これを機会にきっちりと覚えさせて貰いましょっかや」
「そうね。精一杯案内するから、しっかり覚えてね。でも帰って来なくていいわよ」
「…ウェ?」
ガシ。
猫に対して行うそれのように、拒は白黒の首根っこを引っ掴んだ。――右手で。
「地獄までの片道一方通行だっつってんのよこの色ボケ猫――!!!!!」
二〇二六年四月二五日土曜日、時刻は朝七時半ごろ。
喫茶店『Wolf in forest』前、車道沿いの歩道にて、作務衣姿の銀髪小僧の顔面をアスファルトにゴリゴリ擦り付けながら疾走した後に右足でのトゥキックによる追撃を派手にぶちかます眼鏡っ娘の姿が確認された。
どこからともなく現れた着流し姿は「四十六代目ェェェェェ!」と絶叫し。
店先のプランターに水を遣る為にジョウロ片手に表へ出て来た喫茶店店主はこう呟く。
「フレンチトースト、手ぇ付けられてねえなあ…。どうするか。俺が喰っておくか」
彼が会計がお済みでないことについてもぼやくのはこの三秒後である。




