死神か天使か
そこは和室だった。
八畳ほどだろうか。視界には押し入れと床の間、襖が見える。振り向かずとも、背後には障子窓があることを知っている。
ここは、自分の家だ。……そのはずだ。
イグサと埃の香りの中、足元の畳と襖の向こうに続く廊下のフローリングの上で、散らばる色とりどりのそれ。めいめいに床に転がっているそれらが、ここが自分の家だと自信を持てない理由だった。
足を踏み出すこともためらうほどの猫、猫、猫。
白猫、黒猫、サバ白、茶白。靴下猫にハチワレ、キジトラ。艶やかな短毛に優雅な長い尻尾の猫たちの中で、何より多いのは三毛猫だ。
「……はっ」
半開きの口から息がこぼれた。
別に猫が嫌いだとかではない。無意識だった。この時になって初めて、自分の呼吸が荒いことに気づく。
なぜ?
わけがわからない。何も思い出せないのだ。ただなんとなく、何かから逃げていたような気がする。……自分の家の中で、何から?
突如悪寒がした。足元をゆるりと通り過ぎる茶トラから目を上げ、襖の先、一対の黒い瞳と目が合う。
ぞくりと背筋を駆け上がる、強烈な恐怖。
「……」
「……!」
そうだ、思い出した。
なぜそうしたかはわからない。けれど、この男を招いたのは自分だった。招いた後にどうしたのかは思い出せないが、とにかく今は逃げなければ。
中肉中背のスーツを着た男を凝視したまま後退る。それと同時に、スーツの男が廊下を振り返って合図をした。警戒して廊下に目を向けると、ぬうっと現れる人影。そのあまりの大きさに息を呑んだ。
窮屈そうに体をかがめる、二メートルを越える身長の男。高い身長に不釣り合いなほど痩せた体には薄気味悪さを感じる。
室内と廊下。ほんの数歩先。たったそれだけの距離なのに、顔を合わせて話している二人の声が聞こえない。
恐怖に立ち竦んでいると、長身痩躯の男が僅かに、一歩にも満たない程度にこちらへ近づいた。天井にぶつかりそうな頭を低くし、ふっと息を吐く。
その途端、何もなかった空間にこぶし大の泡が現れた。
「……!?」
驚きはしたが、だからなんだというのだろう。ぷかぷかと浮かぶ泡は目の前まで来ると、顔に触れる前に勝手に弾ける。
その瞬間だった。
麻酔を打ったように全身の感覚が薄くなった。足からも力が抜け、気付けば目の前は畳で真っ暗になる。唯一感覚があるのは顔だけ。なんとか首を捻って上を見ると、大きな手が迫ってきている。
殺される!!
恐怖に追い立てられ、麻痺した体を死に物狂いで動かした。そこまで頑張っても、できたのは仰向けになることだけ。こちらを見下ろす二人を目を見開いたまま凝視する。
……なぜだろうか? 見つめ返す二対の目が見開かれているのは。
自分とは違って怖がっているのではなく、単純に驚いているように見える。突然倒れ込んだことや気合で仰向けになったことに? いや、違う。二人が目を見開いたのは自分と目が合ってからだ。……まさか、怯えられていることに驚いている?
二人はまた顔を見合わせると、納得したように頷き合う。
「……?」
唐突に、頭を一色に染め上げていた恐怖がすうっと抜けていく。代わりに胸を占めるのは温かな感情。この人たちは自分のためを思ってくれているのだと、心の底から信じられる安心感。その幸福感はずっと浸っていたくなるほどだった。
痺れの抜けた体を起こし、改めて二人を見る。中肉中背の男は穏やかに目を細めて微笑を浮かべているが、長身痩躯の男は無表情で鋭い目つきをしている。二人に共通するのは短い黒髪だけで、身長も体格も表情も、まるで違う。
そこでふと、猫たちの様子がおかしいことに気づいた。つい先程まで好き勝手に過ごしていたというのに、二人の男を警戒して距離を取っている。不思議に思いつつ、比較的優しそうな中肉中背の男に声を掛けた。
「な……なんで自分なの?」
見知らぬ人たちがなぜ、縁もゆかりもない自分を殺そうとしてくるのかわからない。そう問うと、中肉中背の男は無造作に青いファイルを寄越してきた。開いてみると、ポケットに正方形の大きな顔写真が入っている。これはまさか殺害予定の標的の写真だろうか? そのままパラパラとめくっていった先に見つけた写真に、思わず手を止めた。
友達の写真だった。
今、自分がとてつもなく嫌な人間なのがわかる。それでも口に出してしまった。
「ねえ、この人じゃ駄目なの?」
中肉中背の男は首を横に振った。
「なんで……?」
「つまらないから」
「!?」
つ、つまらないから!? 驚きすぎて声が出ない。つまり自分を殺すのは面白いということ? 殺人に面白いも何もある? それは表情や反応のことだろうか。そもそも面白いの定義とは……?
つらつらとそんなことを考えていると、上から影が掛かった。顔を上げると、いつの間にか長身痩躯の男が背後に回っている。頭の隅でまた『殺される』という言葉が浮かんだ。けれど、ふわふわとした幸福感の中では現実味がなかった。
挟み込んでくる二人から距離を取り、交互に顔を見る。殺意はない。恐怖も湧かない。どこまでも穏やかで心地よいこの場所を離れるのが酷く惜しかった。
不意に猫たちが一斉に毛を逆立てた。
それまで大人しかったのが信じられない勢いで、猫たちが二人に飛びかかっていく。まるで足止めをするように。
奮闘する猫たちを見てようやく、重たい足を動かして部屋を抜け出した。異様に長く伸びる廊下を必死で駆け、途中にある部屋の一つに飛び込む。畳の大広間だ。襖を開け部屋から部屋へと移り逃げ回るが、豪邸でもない家の中で、成人男性二人組から逃げるのは困難だった。
ぱちんと泡の弾ける音が耳に届いた瞬間、足がもつれて倒れ込んだ。麻痺しているからか痛みはない。しかし倒れた衝撃で、なぜ彼らを招いたのか思い出した。
彼らを招き入れたのは__死にたかったからだ。




