たぬきとひつじ
太陽が真上から容赦なく照りつける初夏の森。今日も下生えの青々としたシダの葉をかきわけ、風を切るように颯爽と駆け抜ける一匹の狸がいた。
彼の名前はない。厳しい野生の世界を生き抜く動物にとって、名前などという甘っちょろいものは必要ないからだ。彼は森に住む他の狸たちとは、生き方も考え方も一線を画していた。
通常の狸というものは、家族や小さな群れを作り、身を寄せ合って生きるものである。冬の厳しい寒さを凌ぎ、狐や野犬といった外敵から身を守るためには、それが最も理にかなった生存戦略だからだ。しかし、この狸は違った。彼は物心ついた頃から群れることを嫌い、己の力と知恵だけを頼りに生きてきた。
「おれ様は一匹狼ならぬ、一匹狸だ。徒党を組んで群れるなんて、ちっともクールじゃないぜ。自分の身は自分で守る。それが本物の野生ってやつさ」
彼はよく、月明かりに照らされた切り株の上にふんぞり返って立ち、誰に聞かせるでもなくそう嘯いていた。
実際、彼は並の狸よりもずっと賢く、そして素早かった。狐の縄張りの匂いを敏感に察知して危険を回避し、野犬に追われれば川を泳いで匂いを消し、時には人間の畑に忍び込んで見事に熟したトウモロコシやスイカを失敬してくる。彼の毛並みはお世辞にも美しいとは言えなかった。木の枝で擦れた傷跡がいくつもあり、泥にまみれ、あちこちに枯れ葉や小枝が絡みついている。しかし、彼にとってそのガサガサに荒れた毛皮こそが、一切の妥協を許さず、厳しい自然界をたった一匹で生き抜いてきた何よりの勲章であり、誇りだった。
そんな誇り高き一匹狸である彼が、現在向かっている場所がある。
森を抜け、人間の住む領域との境界線にある、ある寂れた農家の放牧場だ。
「ふう、今日は腹いっぱいドングリも虫も食ったし、暇だからな。あいつをからかってやるか」
狸は独り言を呟きながら、短い四肢を器用に動かして倒木を飛び越え、ぬかるんだ土の上を滑るように駆け抜けた。鼻腔をくすぐるのは、湿った土の匂いと、どこからか漂ってくる甘いクローバーの香りだ。彼の足取りは軽く、尻尾はピンと上を向いていた。口では「からかってやる」などと悪ぶっていたが、彼の頭の中は、これから向かう先で待っている、あの白くてのんびりした生き物のことでいっぱいだったのだ。
木立を抜けると、視界が一気に開けた。錆びついた鉄の柵に囲まれた、広大な放牧場。所々ペンキの剥がれた古いサイロが傾いて建っており、足元には見渡す限りのクローバーの絨毯が広がっている。
狸は柵の下の隙間から顔を出し、辺りを見回した。
いた!
目当ての暇つぶし相手を見つけて、狸の顔がパァッと明るくなった。彼は得意げな顔を作り、柵をくぐり抜けて放牧場の中へと足を踏み入れた。
「お~い! おれ様が来てやったぞ!」
狸は大きく息を吸い込み、よく通る声で呼びかけた。
この無駄に広い放牧場には、たった一頭の羊しか飼育されていない。
かつてはもっと多くの家畜がいたのかもしれないが、今ではこの一頭の羊が、この広大なクローバーの海を独占しているのだ。
狸の呼びかけに対し、返事はすぐに返ってこなかった。羊は遠くの方で、地面に顔をこすりつけるようにして何かに夢中になっている。
狸はため息をつき、「仕方ねえな」と呟きながら、羊の元へと小走りで近づいていった。
近づいてみると、羊はクローバーの若葉を食べるのに夢中になっていた。もぐもぐと口を動かし、時折幸せそうに目を細めている。
狸は羊の正面に回り込み、わざと怒ったように大きな声を出した。
「おい! また来てやったぞ!」
その声に驚いたのか、羊は目をまん丸にして食べるのをピタリと止めた。口の端からは、食べかけのクローバーの葉っぱがはみ出している。
羊は狸の顔をじっと見つめ、数秒の間の後、にへらとだらしなく笑った。
「あ~……たぬきさんだねぇ。また来てくれたんだ~。とっても嬉しいよぉ」
間延びした、どこまでも呑気な声。緊張感の欠片もないその態度に、狸は「ふんっ!」と鼻を鳴らし、わざと横を向いてドカッと草の上に座り込んだ。
この、どこまでもマイペースでのんびり屋の羊と、せっかちで虚勢ばかり張っている狸の性格は、まさに正反対といってもよかった。
野生の厳しさを知る狸からすれば、人間に囲いの中で飼われ、ただ草を食べて寝るだけの羊の生活は退屈そのものに思えた。逆に羊からすれば、いつもせかせかと走り回り、傷だらけで泥まみれの狸の生き方は、想像もつかないほど過酷なものに見えただろう。
だが、狸はこの羊と一緒にいると、不思議ととても落ち着くのだ。
森の中で常に気を張り詰め、いつ襲われるかわからない恐怖と戦いながら生きている狸にとって、この羊が放つ圧倒的な「無害さ」は、一種のオアシスのようなものだった。羊は狸のガサガサの毛皮を馬鹿にしないし、自慢話も黙って聞いてくれる。狸は、群れを嫌う一匹狸のプライドを保ちながらも、心の奥底で感じていた孤独感を、この羊との時間で密かに埋めていたのだ。だからこそ、狩りの合間や暇な時間を見つけては、こうして足繁く通ってきてしまう。
思い返せば、最初からこんなに平穏な関係だったわけではない。
最初のころ、狸は放牧場へ忍び込んだところを、飼い主の人間に見つかってしまった。人間は恐ろしい形相で「この泥棒狸め!」と叫びながら、鋭い三本鍬を振りかぶって追いかけてきたのだ。狸は死に物狂いで柵を飛び越え、森の中へ逃げ帰った。あの時は本当に尻尾の毛が全て抜け落ちるかと思うほど恐ろしかった。
それでも狸は諦めきれず、人間の目を盗んで何度も放牧場へ通い続けた。何度目かの遭遇の際、人間は鍬を構えたものの、狸が羊に危害を加える様子が全くなく、ただ横で一緒に日向ぼっこをしているだけだということに気がついた。それ以来、人間は狸を見ても大きな声を出して追い払うことはなくなり、「また来てるのか」と呆れたように無視するようになったのだった。
「……継続は力なり、ってやつかな。おれ様の熱意に人間も負けたってわけだ」
狸は過去の武勇伝を思い出し、一人で満足げに頷いた。
「たぬきさん、今日も話を聞かせてくれる?」
もぐもぐと口を動かしながら、羊が首を傾げて聞いてきた。
「ん? ああ、おれ様は森中を飛び回ってるからな。毎日が冒険の連続さ。なんだって話してやるぜ」
「本当? わぁい。じゃあね、この間話してくれた、たぬきさんが、さるさん・きじさん・人間をお供にして鬼退治に行った話、また聞きたいんだ~」
そのリクエストを聞いた瞬間、狸の背筋に冷たい汗がツーッと流れ落ちた。
(しまっ……た! あれは適当にでっち上げたほら話じゃねえか!)
数日前のことだ。狸は羊に自分の凄さをアピールしようと、昔どこかで人間の子供が読んでいた絵本の内容をパクり、さらに自分が主役になるように大幅な脚色を加えて語ってしまったのだ。
「おれ様が隊長でな、最高に美味いドングリを腹いっぱいに詰めた袋を腰にぶら下げて出発したんだ。途中で頭の悪そうな猿が絡んできたから自慢の牙で一喝して子分にし、目のいい雉を斥候として雇い、図体がでかいだけの人間を荷物持ちとして連れて行ってやったんだよ!」などと、調子に乗ってペラペラと喋ってしまった。鬼ヶ島の描写も、「空は常に真っ赤に燃えていて、地面からは熱湯が吹き出している」などと無茶苦茶な嘘をついた。細かい設定など全く覚えていない。
話をねだる羊の、キラキラと期待に満ちた純粋な瞳。それに耐えきれず、慌てた狸は目を泳がせながら、必死に取り繕った。
「お、おう! あの話な! いやー、あれは凄かったぜ。なんせ鬼の親玉の角を……いや、待てよ。おれ様は同じ話を二度しない主義なんだよ! 過去を振り返るなんて、クールな狸のやることじゃねえ!」
前脚をバタバタと振り回し、顔を真っ赤にして叫ぶ狸。
それを聞いた羊は、怒るでもなく、「そっかぁ。ざんねんだなぁ」と、少しだけ眉尻を下げて微笑んだ。
その優しすぎる反応に、狸はさらに申し訳なさと気恥ずかしさを感じ、そっぽを向いて鼻先を前脚でこすった。
嘘を誤魔化した気まずさから、狸が押し黙ってしまったため、二人の間にはしばらく静寂が降りた。しかし、それは決して居心地の悪いものではなかった。風がクローバーを揺らすサラサラという音と、遠くで鳴く鳥の声だけが響く、無言の優しい空間。
ぽかぽかとした太陽の光を浴びながら、狸がうとうとし始めた頃、羊がふと空を眺めだした。
「見て、たぬきさん。あのふわふわの雲、わたしに似ていない?」
羊が鼻先で指し示したのは、青空にぽっかりと浮かぶ、巨大な入道雲の欠片のような白い雲だった。
狸は目をこすりながら空を見上げたが、野生の狸である彼にとって、雲の形などどれも同じように見えた。どれも白くてふわふわしていて、どの部分が羊に似ているのか、皆目見当がつかなかったのだ。
「うーん……? 雲は触ったことがないからな! どれが似てるかなんて分からねえよ。でも、多分……お前の方がふわふわだと思うぜ!」
分からないと正直に言うのは癪だったが、羊の機嫌を損ねたくなかった狸は、咄嗟に羊が喜ぶようなお世辞を言って誤魔化した。
すると、羊は目を細めて、嬉しそうに「あははは」と笑った。
「ありがとう。自慢の毛並みなんだ~。毎日お日様の光を浴びて、風に吹かれているからね。でも、もうすぐ刈り時なんだけどねぇ」
羊は自分の真っ白で分厚い毛皮に顔を埋めるようにして言った。
(刈り時……)
狸はその言葉に少し胸がチクリと痛んだ。野生動物である狸にとって、自分の毛皮を他人に刈り取られるなど、想像しただけでも恐ろしいことだ。家畜としての羊の宿命。それは狸には到底理解できない、人間の支配下にあるという残酷な現実を突きつけられているような気がした。
狸はしまったと思い、その重い空気を振り払うように、強引に話題を変えることにした。
「く、雲といえばな! おれ様、とんでもないものを見たことがあるんだぜ!」
狸は立ち上がり、胸を張って言った。
「この間、山の麓にある人間の町に忍び込んだ時のことだ。夜だっていうのに、町はまるで太陽が落ちてきたみたいに赤々と光っていてな。おれ様が茂みから覗いていると、なんと人間どもが『雲』を食べていたんだ!」
羊は目をぱちくりと瞬かせた。
「雲を? 食べるの?」
「ああ! 本当だぜ!」
狸は身振り手振りを交えて熱弁を振るい始めた。
「赤い提灯がずらりと並んでいて、美味そうな肉の匂いがプンプンする中でな。ある屋台の裏で、人間のおっさんが細い木の棒を持ってかき回すと、空中からピンク色や白色の『ふわふわの雲』が湧き出してきて、棒に巻き付いていくんだよ! 人間の子供たちはそれを買って、口の周りをベタベタにしながらかじりついていた。おれ様も気になって、人間が食べ終わって捨てた木の棒を拾って舐めてみたんだが……驚いたぜ。雲ってのは、目が飛び出るくらい、とびっきり甘かったんだ!」
それは夏祭りの夜に狸が目撃した「わたあめ」のことだったのだが、狸にとっては正真正銘「甘い雲」であった。
羊は狸の話を食い入るように聞き、感嘆の声を漏らした。
「わぁ……そうなんだ~。甘い雲かぁ、食べてみたいなぁ。たぬきさんって、本当にどこにでも探検に行くし、何でも知っているんだね。わたし、たぬきさんのお話を聞くのが、だーい好きだなぁ」
純度百パーセントの尊敬のまなざしを向けられ、狸はまんざらでも無い顔をした。尻尾が嬉しさで千切れんばかりに左右に揺れているのを必死に抑え込みながら、「ま、まあな! おれ様にかかれば、人間の秘密なんてお見通しってわけよ!」と鼻高々にふんぞり返った。
その後も、狸は自分が森で見つけた珍しい色の虫の話や、川で魚を捕まえようとして溺れかけた話などを語り、羊はそれに静かに耳を傾けた。
太陽が西の山に沈みかけるまで、二人はそんな優しい時間を過ごしたのだった。
季節は進み、梅雨の湿った空気が去り、本格的な夏が到来しようとしていたある日のこと。
狸はいつものように、ウキウキとした足取りで放牧場へとやってきた。
「おい! また来てやったぞ!」
いつものお決まりのセリフ。しかし、今日の羊は草を食べておらず、ずっと空を見上げていた。
狸の声に気づいた羊は、振り返って嬉しそうな顔をした。
「あっ、たぬきさん。間に合ったぁ。ずっと空を見ててね、やっとたぬきさんに似た雲を発見できたんだよ。ほら、あそこ」
羊が視線を向けた先を狸も追ってみる。しかし、相変わらず狸には、どの雲もただの白い塊にしか見えなかった。
(くっ……また雲の話かよ。おれ様には全然わからねえ……)
分からないと言えば馬鹿にされるかもしれない。悔しくなった狸は、わざと鼻で笑って言った。
「似ていないね! そもそも、おれ様の毛並みはあんな雲みたいにふわふわじゃねえしな。おれ様には、ふわふわよりもこのガサガサの毛皮が似合うんだよ! 泥にまみれ、棘のある茂みを抜け、戦い抜いてきたこの毛皮のおかげで、何度命を助けられたことか。お前みたいなふわふわとは年季が違うんだぜ!」
ついつい、強がるあまりに棘のある言い方をしてしまった。言った直後に狸はハッとし、「しまった」と口元を押さえた。いくらなんでも言い過ぎたかもしれない。
しかし、羊は怒るどころか、その深い茶色の瞳で狸の荒れた毛皮を見つめ、優しく微笑んだ。
「うん、そうだね。たしかに、ふわふわのたぬきさんよりも、泥だらけでガサガサのたぬきさんの方が、ずっとかっこいいね。強くて、たくましいよ」
その言葉には一切の嫌味が含まれておらず、心からの賞賛であることが伝わってきた。
狸は顔を一気に熱くさせ、「べ、別に褒めろなんて言ってねえよ!」と照れ隠しに叫びながら、羊の隣にドスッと座り込んだ。
二人は並んで座り、しばらくの間、一緒に無言で空を眺めていた。夏の初めの強い日差しを、放牧場を吹き抜ける風が心地よく冷ましていく。
「わたし、雲を眺めるのが好き。風の匂いを嗅ぐのも好き。そして、たぬきさんの面白いお話を聞くのもすき。……幸せだなぁ」
羊が、ふとそんなことを呟いた。
普段、自分から感情を大きく表現することのない羊が急に言い出した言葉に、狸は少し驚いて羊の横顔を見た。
羊の横顔は、いつもと変わらないのんびりとしたものだったが、どこか遠くを見透かしているような、不思議な静けさを帯びていた。
そして、羊はゆっくりと狸の方を向き、信じられない言葉を口にした。
「たぬきさん。ざんねんだけど、明日からしばらくはおわかれだよ。わたし、飼い主さんと一緒にりょこうに行くんだぁ」
――ピキリ、と。狸の頭の中で何かが凍りつく音がした。
「……は? りょこう?」
間の抜けた声が出た。狸の脳が、その言葉の意味を必死に処理しようとフル回転する。
旅行? 飼い主と? 家畜が?
そんな馬鹿な話があるはずがない。人間が家畜を連れて行く場所なんて、野生の動物である狸でも知っている。トラックの荷台に乗せられ、見知らぬ場所に連れて行かれ、そして……二度と戻ってこない。それは森の動物たちの間でも恐ろしい噂として語り継がれている。牛も、豚も、そして羊も。人間に飼われている生き物たちは、ある日突然『いなくなる』のだ。それが何を意味するのか。肉にされるのか、毛皮を剥がれるのか。
狸は心臓が早鐘のように打つのを感じた。全身の血が冷え、背中のガサガサの毛が逆立つ。
とうとう、この日が来ちまったのか。
狸は立ち上がり、羊の正面に回って、これまでにないほど真剣な顔つきで怒鳴った。
「おい! ふざけんな! 旅行なんて嘘に決まってるだろ! 戻ってこられなくなるんだぞ! 一緒に逃げよう! 今すぐここを出るんだ!」
狸は前脚で羊の白い毛皮をバンバンと叩いた。
「な~に、心配すんな! 森での生き方ならおれ様が全部教えてやる! 食い物ならおれ様が良い場所を知っているから困らないぞ! 甘い木の実が落ちてる秘密の場所も、雨風を凌げる安全な洞穴も知ってる! だから、おれと一緒に来い!!」
必死の説得だった。群れを嫌い、一匹で生きることを信条としていた彼が、自らの縄張りに他者を招き入れようというのだ。それは彼にとって、自らの生き方を曲げるほどの大きな決断だった。
しかし、羊の反応は狸の期待を裏切るものだった。
羊はしばらく狸の必死な、泥だらけの真剣な顔を見つめていた。そして、ゆっくりと首を横に振り、いつものように、にへらと笑ったのだ。
「ありがとう、たぬきさん。でもね、逃げる必要なんてないよ。だって、これは必要なことだって、わたしちゃんと分かっているから」
その瞳には、恐怖も、絶望もなかった。ただただ、己の運命を完全に受け入れた者の、不気味なほどの達観があった。
(……こいつは、覚悟が決まっていやがる。いや、最初からすべてを知っていて、その上で家畜としての生を受け入れているのだ)
狸には、それがどうしても理解できなかった。生きたいと足掻くのが生き物ではないのか。なぜそんな穏やかな顔で、自ら死地に赴くような真似ができるのか。
理解できない感情が、苛立ちとなり、深い悲しみとなって狸の胸を締め付けた。
「……勝手にしろ! お前なんか、もう知るもんか!」
狸はそう言い捨てると、羊に背を向けた。これ以上あいつと話しても、喧嘩になるだけだ。そして何より、あの静かな瞳を見ていると、狂いそうになる。
狸は一度も振り返ることなく、森の奥深くへと走り去っていった。
それが、羊との最後の会話になるかもしれないと、心のどこかで分かっていながら。
それから一か月後。
季節は完全に夏の中腹に入り、夜になっても蒸し暑い空気が森に立ち込めていた。
狸はあの日以来、放牧場には近づいていなかった。ドングリを集め、川で魚を捕り、元の「一匹狸」としての生活に戻ったはずだった。しかし、彼の心には常にぽっかりと穴が空いたような虚無感があった。何をしてもつまらない。どんなに美味い木の実を食べても、味がしない。
(もしかしたら……あいつ、「旅行」から帰ってきてるんじゃないか?)
そんなあり得ない淡い期待が、狸の足を動かした。どうしても心配になり、狸は日が落ちて完全に暗くなった頃、隠れるようにして農家の放牧場へと向かった。
もし何事もなく羊が居て、狸が羊に見つかった場合は、「やっぱり逃げなかった馬鹿を笑いに来てやったぜ」と憎まれ口を叩いて、今度こそ喧嘩になるだろう。それでもいい。生きていてくれさえすれば。
月の光に照らされた放牧場に到着した。
狸は茂みからそっと顔を出し、柵の中を見渡した。
……居ない。
広大なクローバーの海は夜風に揺れているだけで、あの白いふわふわした姿はどこにもなかった。
焦った狸は柵をくぐり、農家の母屋の横にある羊小屋の窓から中を覗き込んだ。
中は空っぽだった。干し草の匂いだけが残り、主の姿は消えていた。
「馬鹿なやつだ! ……本当に、ばかやろうが!」
狸は小屋の壁に爪を立て、ギリッと歯を食いしばった。後悔の念が波のように押し寄せてくる。
なぜあの時、喧嘩してでも、無理やりにでも首根っこを噛んで森へ連れ出さなかったのか。あの達観したような顔に気圧されて、逃げ出してしまった自分の臆病さが憎かった。
狸がうなだれ、踵を返して森へ帰ろうとしたその時だった。
ギィィ……と、人間の住む母屋の裏口の扉が開く音がした。
狸はビクッと体を震わせ、咄嗟に小屋の陰に身を隠した。
扉から出てきたのは、あの農家の飼い主だった。男は手になにかの皿を持ち、酒の入ったグラスを片手に、夜風を浴びに外へ出てきたようだ。男は月明かりの下で、小屋の陰にうずくまっている狸の影を見つけた。
「おっ! こんな時間に、いつもの狸が来てやがる」
男は驚く様子もなく、むしろ面白そうに声をかけてきた。
「なんだ、お前。あの羊がいなくなって、友達が居なくて寂しいのか~?」
男の悪気のない、しかし無神経極まりない言葉が、狸の胸を鋭くえぐった。
「まぁ、仕方ない。お前も寂しいだろうから、これをやるぞ」
男はそう言うと、持っていた皿から何かを一つ摘み上げ、狸の目の前へと放り投げた。
ボトッ、と鈍い音を立てて土の上に落ちたそれ。
月明かりに照らされたそれは――赤黒い、肉片だった。
「旨いぞ~、さばきたてのラム肉だ。特別に分けてやるよ」
そう言って、人間は投げたのとは別の、手に持ったラム肉の塊を自分の口に放り込み、クチャクチャと美味しそうに咀嚼し始めた。
――ドクン。
狸の心臓が、痛いほど大きく脈打った。
狸は一瞬、人間に何を言われたのか、目の前に落ちているものが何なのか、理解できなかった。
ラム肉。羊の肉。さばきたて。
……あいつの、肉?
狸は呆然としたまま、目の前に落ちている肉片を見つめた。生の肉の、血の匂いが鼻をつく。あの、お日様とクローバーの匂いがした白くてふわふわの羊が、こんな無惨な赤黒い塊になってしまったというのか。
しばらくの間、ピクリとも動かない狸を見て、人間が訝しげに首を傾げた。
「なんだ? 嬉しくないのか? 野生の狸なら肉はご馳走だろうに」
その言葉が引き金となった。
狸の全身の毛が逆立ち、喉の奥から「グルルルル……!」という低い唸り声が漏れた。
キッ! と、狸は人間に殺意を込めて睨みつけた。
(この人間め! あれほど、あれほど可愛がってた羊を、家族みたいに一緒にいた羊を、「旨い」だと!? 貴様ら人間には血も涙もねえのか!!)
狸の牙がむき出しになり、今にも人間に飛びかかってその喉笛を噛みちぎりたい衝動に駆られた。
しかし、野生の理性が彼を強烈に引き留めた。噛みつくことなど、圧倒的な力を持つ人間に対しては最悪の悪手だ。返り討ちに遭い、殺されるだけだ。そうなれば、あの羊のことを覚えておく者すらこの世からいなくなってしまう。
狸は怒りと悲しみで全身をガタガタと震わせながら、地面に落ちた肉片には一切触れず、人間をもう一度強く睨みつけると、闇の中へと走り去っていった。
背後で「変な狸だなぁ」という男の能天気な声が聞こえたが、狸の耳にはもう入っていなかった。ただただ、涙で視界が滲んでいた。
それから更に一か月が過ぎた。
季節は秋へと移ろい、森の木々は赤や黄色に色づき始め、吹く風にははっきりとした冷たさが混じるようになっていた。
狸は狩りの帰り道、ふとした偶然で、もう二度と行くことは無いと固く誓っていたあの放牧場の傍を通りがかってしまった。
錆びた鉄柵越しに見える放牧場は、相変わらず静まり返っている。クローバーの花は枯れ始め、少し寂しげな風景になっていた。
狸は立ち止まり、高く澄んだ秋の空を見上げた。あの日、羊と一緒に見上げたような白い入道雲はもうなく、薄い筋雲が流れているだけだった。
「あいつ。。。本当にふわふわの雲になっちまったな」
狸はポツリと、誰に聞かせるでもなくそう呟いた。胸の奥の痛みが、再び蘇ってくるのを感じた。
するとその時だった。
「メェ〜」
放牧場の奥から、微かに、しかし確かに羊の鳴き声が聞こえたのだ。
「……え?」
狸は耳をピンと立てた。聞き間違いかと思った。しかし、もう一度「メェ」というのんびりした声が風に乗って聞こえてきた。
「嘘だろ!」
狸は持っていた木の実を放り出し、驚きで目を見開きながらも、矢のように放牧場へと走った。
いた!
そこには、秋の日差しを浴びて、のんびりと枯れかけた草を食んでいる一頭の羊がいた。
間違いない、あのマイペースで、どこまでも呑気な、あの羊だ。少し毛が短くなっているが、紛れもなく彼女だった。
「おい! おい! おれ様だ! こっちを見ろ!!」
狸は全速力で走り、羊の足元までスライディングするようにしてたどり着いた。息を切らし、鼻水を垂らしながら叫ぶ。
狸のただならぬ気配に気づいた羊は、草を食べるのをやめ、ゆっくりと振り返った。そして、狸の顔を見ると、以前と全く変わらない、にへらとした笑顔を浮かべた。
「あっ、たぬきさんだぁ。久しぶりだねぇ。ずっと会いたかったんだよぉ」
生きている。幽霊じゃない。ちゃんと足があるし、草の匂いもする。
狸の目から、ブワッと大粒の涙が溢れ出した。
「おいおいおい! おれは……おれはお前が、人間に食べられちまったんだと覚悟してたんだぞ! あの後、飼い主がお前の肉を食ってるのを見たんだからな! ほんっとうに……ははは、本当に無事で良かったよ!」
狸は顔をくちゃくちゃにして笑い、羊の足にすがりついて、その無事を自分のことのように、いや自分の命が助かったかのように喜んだ。涙で自分のガサガサの毛皮が濡れるのも構わなかった。
ひとしきり泣いて落ち着くと、狸はふと羊の姿に違和感を覚えた。
「……ん? お前、少しスッキリしたか? 前はもっと腹のあたりが丸かった気がするが」
しかし、羊は狸の激しい歓喜の涙と疑問を見ても、いつものように首を傾げ、にへらと笑ってこう言ったのだ。
「あははは。たぬきさんたら、おかしなこと言うねぇ。そんなわけないじゃん」
その言葉を聞いて、狸はハッとした。
(そうか……。俺の早とちりだったのか。あの時飼い主が食ってたラム肉は、よそで買ってきた肉だったんだな)
狸は心の底から安堵し、飼い主と羊の絆にひそかに感謝した。長年この広い放牧場でたった一頭、大切に飼育してきた羊を食べるなんて、いくら人間でもあり得ないのだ。
狸は涙を前脚で拭いながら、自分の勘違いを笑い飛ばそうとした。また、あの夜、出された肉片を怒りに任せて無視してしまったことを、少しだけ「もったいないことをした」と後悔する余裕すら生まれていた。
「だよな! ははは、おれ様の勘違いか! だって飼い主のやつ、あんなに旨そうに食ってたもんな。長年一緒に暮らして大事にされているお前だと分かってて、あんな顔で食うなんてありえないもんな!」
完全に安心しきった狸は、笑い話だと言いながら、少し意地悪なトーンで羊をからかうように言った。
「いやー、でも飼い主のやつ、本当に旨そうに『さばきたてのラム肉』を食ってたぞ~? お前も気ぃつけねえとな!」
冗談めかして脅す狸。
それに対して、羊は空を見上げ、やはり穏やかに、にへらと笑った。
「そっか。旨そうに食べてたんだ。……良かった」
その声は、どこまでも優しく、そして底知れぬ静けさを孕んでいた。
羊は再び顔を上げ、高く澄んだ秋の空を見上げた。
風が吹き抜け、羊の少し短くなった毛を揺らす。
そして、羊は愛おしいものを思い出すような、甘い声で呟いた。どこまでも透き通った茶色の瞳には、一切の感情の揺らぎがなかった。
「頑張ってうんだかいがあったよ」




