第1話 静かに忘れられたノート
俺の住む町の駅の隣にある“町立図書館”の奥に、小さな“学習スペース”と名付けられた知る人ぞ知る、特別に設けられた作業スペースがある。
そこは喫煙室のように壁で仕切られた部屋の中に四つの席がある。
それは机が横に並ぶだけの簡素なつくりだ。
席にはそれぞれ番号が振られていて左から①から④番まで印がついている。
向かって、一番左の席が①番で一年間、ここに通った上での俺の特等席だ。
なぜなら一番左の席だけは少し特別なのだ。左端の席。その席のすぐ右側には柱がある。そこには赤い火災報知器のベルがついていて、その右側から並ぶ他の三つの席とは違って特別感があるのだ。
学習スペースを使用するのは無料で他に利用客がいなければ一日中使える。認知度が低いからなのか、一度受付に行くのがみんな億劫なのか、固定の利用客は数少ない。
ここ一年で毎週必ず来るのは俺ともう一人――
一番右端の④の席を特等席としている、黒髪のあの子――
俺と同じように週末の土日、いつも同じ時間に来て、いつも同じ姿勢で勉強する女子高生の席だ。
俺の名は一ノ瀬 蓮。今年で高二で、土日はだいたいここに入り浸っている。家では弟が友達を連れ込んでゲームで騒がしいし、カフェは長居すると肩身が狭く何よりお金もかかる。
ところが図書館は無料で、冷暖房完備で、時間制限はあるもののフリーWI-FIも使える。
俺は図書館という制度を作ってくれたこの国には感謝しかないのだ。
ただし、図書館特有のルールもある。
壁にはこのような張り紙が張ってある。
『私語禁止』
快適な環境を提供してもらっている以上、ルールは守らないといけない。
(よし、今日も俺の特等席が開いてたぞ)
学習スペースでは今日もシャープペンシルの音とページをめくる音だけが続く。
顔ぶれは自然と固定される。彼女以外によく見るのは新聞を丁寧に畳むおじさんや、ノートパソコンを持ち込んでフリーWI-FIを使って、なにやら仕事をしている若い男性くらい。
今日は土曜日。
いつものように俺の後にやってきた彼女は一番右端の席についた。
彼女は、フードの付いたアウターを脱ぐと椅子に掛けた。
たまに平日の放課後に彼女をここで見る時もある。
その際はグリーンのブレザーと、グレーのケーブル編みのカーディガンを着ているので俺とは別の高校の生徒なのだろう。
勿論、話したことはない。
でも、なんとなくだけど互いに相手の存在はわかっている。
目が合えば、わずかに会釈を交わすくらいの距離感。
そんな彼女は春が過ぎて、夏が来るころから、ひとつの“妙な癖”ができた。
帰り際、B5サイズのノートを一冊、机に置き忘れていくのだ。
それも毎回、必ず。
俺は最初は偶然だと思った。
(忘れ物かな? このままでもアレだし、受付に届けておこう)
そして二回目――
(ああ、まただ。結構抜けてるのかな?)
内心で笑った。
さらに三回目――
(今回で連続三回目だ。こんなことあるか?)
それでも俺は中を見ずに受付へ届けた。
そして、四回目の今日――
いつもの時間に彼女が荷物をまとめて席を立つと、やはりノートだけが残った。
(やっぱり、明らかにおかしい。)
俺はそのノートの表紙を見た。
表紙の端には、細い緑のペンで書かれた名前がある。「四宮 澄香」。学年の欄には、俺と同じ「高二」とある。
(さすがに多すぎる)
俺はノートを手に取り、受付に向かおうとして、足を止めた。
この一年の間の彼女の俺の中の印象が、頭に浮かんでくる。
彼女は静かで、真面目で、騒いだりしない。ふざけて何かをするタイプではない。忘れ物が多いようにも見えない。
それでもこんなことが四回も続けば、偶然以外の何かを疑いたくなるものだ。
俺は①番の席に戻り、ノートを開いた。先頭のページに、英語の短い文が四行だけ並んでいる。どれも、受験の例文みたいな、あまり意味のない文だ。
He reads in the library.
Every weekend I see him.
Little by little I trust.
Please notice.
(一見、普通の英文みたいだけど)
英文の意味を訳してもそれほど意味があるようには思えない。
俺はしばらくその綺麗な筆跡で書かれた文字を見つめていた。
(ん。ひょっとして!)
その英文の頭文字を縦に読むと、きれいに「HELP」になっていた。
一瞬嬉しさがこみ上げたが、しだいにその意味を考えていた。紙に触れる指先が、じわりと汗ばむ。
(いたずら、じゃないよな。……あの子が、これを?)
俺の中の彼女の印象が、縦読みの四文字を支える。彼女はこんなことを悪戯にして面白がる人じゃない、と思う。
もし、仮にこれが本物の「SOS」だとしたら。何か人に言えない事情があって、直接は声にできなくて――誰かに気づいてほしくて、ノートを「わざと」忘れているのだとしたら。
俺は水筒の水を飲み干して、深呼吸をした。
一応、先頭ページだけスマホで撮った。
その後、表紙を閉じ、いつものように受付へ届ける。
カウンターの司書さんは「またですね」と笑って、名前と日付の付箋を貼る。それはいつもどおりの風景で、俺の胸の内だけが、いつもと違っていた。
(次、彼女が来たときだ。――声じゃなくて、書く)
シャーペンを握り直し、俺は問題集へ視線を戻した。エアコンの風が一定のリズムで頭上を渡り、シャープペンシルの芯が紙をこする音が、再び波のように続いた。