NueroPlasticity
読んでいただいてありがとうございます。これは間違って消してしまったものを再度アップロードしたものです。何卒宜しくお願い致します。
翌週木曜日。教育棟横の簡易テラスで黎は昼食を取っていた。校内のキッチンカーで買ったジャンクフード。最近は、春人と昼食を共にすることが多かった。
そんな休憩など知ったことか、と言わんばかりに、それは起こった。
ピピピピ!と、けたたましい音が2人のデバイスから鳴り響く。
「あちゃちゃ、こりゃ、多分…」と言い残し、春人はデバイスをいじり、通話画面を開く。
黎も同様の操作をする。すると目の前に画面が立ち現れる。
その画面にはノアと絵里の2人の名前が記されている。
【ヴェイルの存在が確認されたわ。すぐにARC前に来て】
やっぱりね、と言わんばかりに、春人は肩をすくめる。
「黎の最初の任務だよ。まあ、気合入れずに行こうか」
と軽い口調で金属製の椅子から立ち上がった。黎もそれに合わせる。
持ち物は何もいらないようだ。持っているのは、さっき購入したハンバーガーだけ。
それを携え、ARC正面へと向かう。
春人からは大したやる気を感じない。けど、ある程度、慣れていることだけは伝わってくる。
ARC前にはバンのような形状の大きな車が止まっていた。滑らかな曲線上に黒で縁取られており、それ以外はガラスで構成されている。透明で車内がよく見える。
ノア達ともすぐに合流した。車両の傍らで、春人がノア達に手を振っているる。
「早くいかないと誰か死んじゃうよー」言葉とは裏腹に気楽なノリ。
「分かってる。皆早く乗って」
ノアが先行して輸送車に入る。ドア付近に近づくと、ドアが中央を境に左右にスライドする。乗車後、ドア横のリーダーにリスト型デバイスをかざす。それにより乗車中の生徒が誰なのかを特定しているようだ。これはARC専用車らしい。
ノアと絵里と春人は車内中央に配置された円形のテーブルを囲む円形のソファにそれぞれ腰を下ろす。春人が開けてくれたスペースに黎は座った。
全員が座ると輸送車が移動を開始した。この車は完全無人運転車のようだ。
ガラス越しの景色が変化し始める。皆の顔を見渡しながら、ノアが話し始める。
「ではこれからヴエイルの居場所の特定に向かいます」
「待ってました」
「ヴェイルが確認されたのは、ここから約40キロ離れた、だいたいこの辺の地域と情報が入っている」
ノアは中央の透明ディスプレイテーブルに表示されたマップに指で丸く囲んだ。
黎がそれを確認すると、ヴェイルの位置情報はかなりざっくりしたものだった。
市の8分の1程の広さがマークされている。場所の特定と言えるものではなかった。
こんな広い場所から、化け物を感知して、倒す必要があるってのか…?
「だいたいの位置情報しか分からないものなんだな…」と黎はつぶやいた。
「だから、探すのも一苦労なんだ。ほんと、嫌になっちゃうね」と春人。
「でも、そもそも、どうやってヴェイルを見つけてるんだ?」当然の疑問だろう。
そもそも、黎はヴェイルについてほとんど知らなかった。昼食時に、春人と話す時も、ノアに訊いたら、とめんどくさがられ、そのノアに訊いてみても、任務の時に話す、としか言われなかった。だから黎はヴェイルについて何も聞かされていない。
そもそも、こいつらにそんなこと出来るのか、と今更ながら、黎は疑問を感じた。
「ヴェイルの居場所を特定出来るのは、ARCに所属する、私たち以上に優れた感知能力を持つ方達がずっと監視を行っているからよ」とノア。
「だから、ざっくりとした居場所は分かっても特定の位置までは把握できないってことさ。
その細かい居場所を特定するのが僕らの任務ってわけ」と春人。
居場所を特定するのが任務…?
「倒さなくていいのか?」
そう言うと、何故か場が静まり返る。
「…倒すって、僕らが…?」ぽかんとした表情の春人。
「ああ、ノアはヴェイルを”排除”したって言ってたぞ」
さっきの沈黙が嘘であるかのように、高らかな笑い声が車内に響く。
「あはははは、僕らにそんなことできるわけないじゃん!
ノア、ちゃんと僕らの役割を伝えなかったの?」その反応に黎は呆気にとられる。
「あのね、黎。僕らがやるのは、あいつの正確な居場所を特定して、ARCに報告すること、それだけ。あんな怪物と戦うのは国防省の武装部隊だよ。
排除するのは僕らじゃなくてかれら」
全然、話と違っている。黎がノアの方に視線をやると、バツが悪いようにそっぽを向いた。
それで黎は「ああ…」と何かを確信する。
道理でおかしいと思った…ノアや春人なら、百歩譲って可能性としてはあり得るが、絵里に人殺しの化け物を相手に何かを出来るとは思えない。春人も春人で、ずっと気楽そのものって感じだし。もし、ノアが最初っからそう言ってくれていたのなら、あんなに疑うこともなかった。何が「排除した」だ、したのはお前じゃないだろ。
完全に情報伝達の部分で齟齬があったのだ。黎は顔をしかめてノアに告げる。
「お前…よくそれで、この場を仕切る気になったな…」
ノアの顔が、みるみる紅潮していく。
「うるさい!」
「そんなこと言っちゃダメだよ」と絵里が小声でささやいた。
しかし、それが一層ノアをイラっととさせたようだ。
「取り敢えず任務の話を続けます。だから静かにしていなさい」
「えー」春人がやじる。
しかし、戦う役割はなかったが、見つける役割はこなさなければならない。
「なら、俺たちの役割はその化け物を見つけることだけなんだな」
「そうそう。あと他に訊きたいことある?
ノアが全く説明していないみたいだから、質問には僕が答えるよ」
と、春人がノアに代わって仕切り始める。
聞きたいことは山ほどあるが…、どれにしよう。なかなか知りたいことがピンポイントで出てこない。それほどまでに黎は何も知らされていなかった。
ARCに教育機関と研究機関がある理由、どのようにヴェイルの位置を探し当てるのか、ノアと初めて会った時に見せた反響定位、それにヴェイルという怪物の詳細。他にもいろいろ出てきそうだ。けれど、とりあえず黎は時系列順で疑問を解消することにした。
「お前ら全員、ノアみたいに反響定位が出来るのか?」
「無理無理。ノアの聴力じゃないと無理」手を横に払うようにして春人はそう言った。
「聴力って…そういう類の話じゃないだろ。いったいどういう絡繰りだ?」
「鋭いね。そっ、黎の言う通り、もちろん絡繰りはあるんだ」
「神経可塑性」ノアが低めの声でそう発した。しかしそれ以上は口を開かない。
「神経可塑性?」
「聞いたことないよね、普通だよ。でも君が見たあの能力のトリックはそれだよ。
神経可塑性っていうのはね、脳内の神経系の構造が変化する性質のこと、
て言っても、抽象的でよく分かんないよね?」
「ああ」
「うんうん、まず基本的なことから説明するけど、僕たちの脳内には無数の神経回路が張り巡らされているんだ。その神経回路を通じて、音や光などの物理情報を処理している。それで外界の世界を捉えているわけ。けど、神経回路には限りがある。無限に回路があったら、おそらく僕たちはどんな存在にもなれるだろう」
「どんな存在にも?」
「うん、チェスのグランドマスターでもあり、一流の演奏家でもあり、スポーツマンでもあり、芸術家でもあり、詩人でもある、そんな超人だよ。けど、そんな人は存在しない。それはもちろん、時間的な制約もあるけど、それ以上に、脳のリソースをそれほど至ることに割くことはできない。少し、話が逸れたけど、僕が言いたいことは、脳内の神経回路は日々、変化しているということ」
「変化?」どのように話が進んでいくのか想像も出来ない。
「そう、これがノアの言っている神経可塑性。可塑性ってのは、外的刺激に応じて変化すること。脳っていうのは、変わらないものじゃない。というより、日々変わり続けている。
その脳の性質を使って、ノアは聴力を強化している」
やっと、話が繋がってきた。それでもその仕組みまでは分からない。春人は続ける。
「脳のリソースには限りがある、けど、特定の感覚情報を以前に増して処理したい場合、
どうすればいいと思う?」黎が首を傾げると、春人はつづけた。
「それはね、既に使用している神経回路を繋ぎ変えればいいんだよ。
ノアがやっているのはそういうこと。視覚情報を処理するとされている視覚野(脳の一領域)に聴覚情報を処理させる。だから、ノアの聴力は頗る強化されていたわけだよ。
反響定位は聴覚処理が優れていることの証明さ」と春人は説明した。
それでもやはり理解しかねる。
「ほんとにそんなこと可能なのか?」
ここでずっと話を聞いていた絵里が話し始める。
「黎君、身体に障害のある方と接したことはある?」
「いや…特には」急に話題が変わって黎は戸惑う。
「例えばね、目が見えないけどエコロケーション(反響定位)でハイキングをしたり、目と耳が使えない人の中には、話してる人の口を触る読唇法で話していることを理解できる人がいたりするの」
直接的な答えではないけど、頑張って話しているその様子を見て春人がサポートする。
「絵里が言いたいのは、そうやって特定の感覚の処理が出来ない人達は、それ以外の感覚が発達しやすいってこと」絵里はその説明に、うんうん、とうなずいている。
「なるほどな。でも…」
黎は横目でノアの方を見て、考える。
ノアに身体の障害があるようには見えない。
確かに反響定位を見せた時、ノアは目を閉じていた。でも、あれは一時的なものだった。
一時的に視界からの情報を遮断したからといって、すぐにあんな芸当が出来るわけがない。
「でも、ノアは体に障害があるようには見えないよね?」
「ああ」
「そう、実際ノアは何の障害も抱えていない。いたって健康体だ。幸運なことに僕も絵里も」
「じゃあ、どうしてあいつはあんなことが出来る?」
「それがARCのすごいところであり、怖いところさ」
春人はそう言い、ノアに目配せをした。ノアはそれを察して、運転席側後方にある着替えが出来るぐらいのスペースに置かれていたカバンを持ってきた。それをテーブルの上に置く。
「これがあなたの知りたかったこと。私がすぐに脳内の神経回路を再編できた理由」
そう言って、ノアはそのかばんの中から、白色の錠剤を取り出した。
それを指で摘まみ、真面目な表情でノアが話し始めた。
「この錠剤はMS薬と呼ばれている。これを飲むことにより、本来ならもっと時間のかかる神経再編をすぐに引き起こすことが出来る」
ノアは前回の戦闘において、これを飲んだということだ。テーブルの上にはMS薬以外にもカラフルな錠剤が置かれている。それを確認して黎はノアに訊く。
「ほかの薬は?」
「MS薬はあくまで、中枢神経系の再編を即時に促すためのもの。
その効果を発揮するために、私たちは力を得る代償を払う必要がある」
「代償?」
「特定の感覚能力を一時的に底上げしたいなら、一時的に、それ以外の感覚情報を遮断する必要がある。それを可能にするのがこれらの薬。これらは総称としてCS薬と呼ばれている」春人がそれを簡単に説明する。
「簡単に言うと、CS薬っていうのは一時的に特定の感覚器官の機能を停止する薬のこと。
つまりMS薬とCS薬両方を飲むことで、ある感覚情報を知覚できない代わりに、特定の感覚情報の処理を向上させることが出来る。それで出来上がるのが、この前、君が見たノアのような存在だ」
全員が特定の力のために、化け物を見つけるために、これらを飲む。
それにより尋常ではない強化を図る。それはあまりに現実味のない、いや恐怖すら感じさせるものだった。正直、そこまでのことをしているとは黎も思っていなかった。
「じゃあこれからの任務でも俺らはこれを使うのか?」
「そういうこと、怖いかい?」春人が黎の顔を覗き込む。
薬で脳の構造を変形させるというのに、不安を感じないと言えば嘘になるだろう。
特に、黎にはそんな経験がないのだから。
「だいじょうぶだよ、黎君。私でも出来るから」
絵里は力を入れた両手を胸の前に置き、励ますようなジェスチャーをする。
「そうそう、ヴェイルを見たらちょっとびっくりすると思うけど、今回は大したレベルではないって話だし、僕らもいるから。それほど心配する必要はないさ」
春人も同様に黎を励ます。。
ほかにもヴェイルについての聞くべきことが黎の頭の中で張り巡らされる。
けれど、さっきの説明で知識的、精神的にもそれ以上の情報を求めようとは思わなかった。
黎は黙ってガラス越しに移り変わる風景を眺める。
数分が経ちドアに背をかけているノアが話し出す。
「あと20分ほどで目的地周辺に到着する。今は各自リラックスしときなさい」
「りょーかい」
そんな中でも、絵里から緊張が伝わってくる。両手を握りしめ胸の前に置いている。
ノアの表情も普段よりか真剣に見える。
興味を持っていただいてありがとうございます。本当に感謝します。