灰色の霧②
周りの歓声が少し収まってきた頃、オフィーリアが歓喜の表情を消し、真剣な眼差しになった。
「……スピリット。本当に貴女はスピリット、なのか……?」
そのすみれ色の双眸は半信半疑に揺られている。
先ほどまでの自信に満ち溢れた笑みはどこにいったのかとツッ込みたくなるぐらいに私は冷静だった。だからちゃんと受け答えできたのかもしれない。
「はい、オフィーリア様。私は紛れもなくスピリット・クランドールです。」
「……っ」
__え?
びっくりしたのだ。あのオフィーリアが、その端正な顔を濡らしていることが。
私は7歳の頃までの彼しか知らないけれど、私の知る彼は人前で泣くような人では、決してなかった。
10年前の彼と今の彼を並べてみても、あの自信に満ち溢れた表情は変わっていなかったし、人がたった10年でこんなに変わるわけ__
ない。とは、思えなかった。私はこの10年で、環境も性格も大きく歪んでしまった。だからきっと、今目の前にいるオフィーリアにも人生が狂う何かがあったとしても何ら不思議なことではないのだろう。そう思うことにした。
「スピリット、君は__」
「はい、ストップ。オフィーリア様、ここは実技ドームです。まだ生徒が大勢います。場所を変えましょう。」
そう言って先導している彼は__
「アラン様……?」
自然と口から零れたその名に、アランは反応してこちらを振り返る。
困惑を一瞬で完璧に隠すところは、やはり只者ではないなと思った。
手を胸に当てて礼をしてくる。
「お久しぶりです、スピリット様。まさしく私はこの御方の従者であるアラン・クレバーでございます。以後お見知り置きを。」
そうして私はオフィーリアの執務室に案内された。
札には『魔王専用執務室』と書かれていた。
「どうぞかけてくれ。」
オフィーリアが私がソファに座ったのを確認して早々に、自らも座り話し出した。
アランはオフィーリアの右斜め後ろに立っている。
「スピリット、先ほどは取り乱してしまい、申し訳なかった。しかし、こちらとしても状況を正確に把握しておきたい。今からいくつかの質問に答えてくれ。」
「かしこまりました。」
答えられることなら、ね。
「貴女は女神を召喚した。記憶はすべて譲渡されたのか?」
「いいえ」
オフィーリアとアランがわかりやすく動揺した。
それはそうよね。だって、普通なら前世の自分と握手したことで記憶がすべて甦るのだから。
しかし、私はそうではなかった。握手はしたけれど、呪いが解けただけで記憶は戻っていない。
「……おそらく、スピリットが1年遅れて儀式を行なってしまったことが記憶譲渡の弊害だったのだろう。」
「そうですか……。」
「では次に、ここにある桜の枝の花を満開にしてみてくれ。」
アランが差し出した一本の枝。でも、そんな魔術は知らない。しかし、逆らうこともできない。
手をかざし、イメージしながら魔力を込める。
すると、以前には現れなかった眩い光の粒子が舞った。でも、桜の花は咲かなかった。蕾すら、できなかった。
「ありがとう、スピリット。質問は以上だ。今夜は学院の寮に泊まってくれ。部屋は用意してある。」
「何故、ですか……?」
寮は、家から遠い辺境貴族や平民が使えるはずだ。だから本来、屋敷も王都にあり、なおかつ伯爵令嬢という身分の私が使っていい場所ではないはず。
しかし本当はずっと寮で暮らしたかった。あの屋敷に居たくはなかった。
「当然だろう。今の君はどう見ても訳ありだろうからな。伯爵家には調査の協力という名目で話を通してある。安心して休め。」
そう言う彼の心遣いはあの頃と何ら変わっていないのだなと思う。
昔から、私の苦境を一変させるのはオフィーリアだったと思い出す。オフィーリアへの感謝と同時に申し訳なさや自分の無力さを痛感する。
「……ありがとうございます。」
今の私に言える精一杯だった。
***
「オフィーリア様、よろしかったのですか」
「何がだ」
スピリットを寮の部屋に案内して戻ってきたアランが入室して早々、紅茶を淹れながら問うてきた。
「普段のオフィーリア様なら、単刀直入に何故1年遅れて入学して来たのか、どうしてマリーシア嬢を名乗っていたのか、何故死んだことになっているのか、聞くかと思っていましたので。」
「仕方がないだろう」
何せ、スピリットの置かれている状況が不自然で、しかもあまりいい状況とはいえないと判断したから伯爵邸には理由を付けて返さなかったのだ。魔王という肩書きを駆使して。
「そうですか」
アランは1を聞いて10を知るような凄腕の従者であるため、今の一言で自分の考えをだいたい理解したようだ。執務机の手の届く絶妙な位置にティーカップを置き、自分の仕事をしに部屋を出ていった。薔薇の華やかな香りが室内を満たす。
香りに浸りながら、脳内にスピリットの姿を思い出す。今の彼女は不思議だらけだ。
彼女は生きているのに、俺は彼女の葬儀に出席した。
入学式で彼女はマリーシア嬢を名乗った。そしてマリーシア嬢の姿をしていた。
彼女の着ていたブラウスから少し透けて見えた痣のある細腕。
ここまでで大抵の予想はつく。今、アランにクランドール伯家を調査させているところだ。
「……しかし、困ったものだな。」
女神の記憶が完全にない。能力も、戻っていない。
治癒再生能力は、今も変わらず女神しか扱えない魔術。先ほど桜の花を咲かせるよう求めたのはそのためだ。
どうすれば、記憶や能力が戻るのか考えなければ。
そして葬儀といえば、思い出すのはシャルルの顔。
あの時、俺よりも泣いて苦しんでいたのはシャルルだった。スピリットはシャルルの一番弟子だった。余程思い入れが強かったのだろう。
今度会わせたらシャルルはきっと喜ぶだろう。
ティーカップをソーサーに戻し、俺はまた仕事を再開した。
***
アラン様に寮に案内されてから、どれくらいの時間が経ったのか。未だにこの状況を嚥下できていない私にはわからなかった。
部屋の窓から見える景色は夕暮れ色に染まっていて、空は橙、雲は薄紫や薄ピンクの色をしていた。
これほどじっくりと空を見たのは初めてだと思う。いつだって上を見る気力も時間もなかった。否、少し視点を変えるだけなのに私はそうしなかっただけだと気づく。
前世召喚の儀によって私が女神の生まれ変わりだとわかっても、こんな役立たずの小娘では意味がないだろう。
明日にはまた、あの屋敷の一室の何処かにいるのだろう。
こんな一瞬だけの自由なんか知りたくなかった。
コンコンコン。また瞑想の沼に浸っていた私を、ノックの音が現実に引き戻す。
「スピアナ……」
来訪者は、スピアナだった。彼女もこの寮の利用者のひとりだったのか。
「マリーシア、こんばんは。……えっと、オフィーリア様がわざわざいらしてマリーシアの居場所を教えてくださって。それで、来てしまいました。今、お話しできますか……?」
「はい。わざわざありがとうございます。どうぞ、かけてください。」
「…スピアナ、ごめんなさい」
僅かな沈黙の後、私は向かいに座るスピアナに頭を下げた。
「マリーシア様……」
彼女には、私のお友達でいて欲しかった。やっとできた、私の人生初のお友達。大切な人。
「今までずっと、貴女を騙すような形になってしまって、ごめんなさい。でも、どうか……、私のお友達でいていただけませんか?」
言い訳はしたくなかった。私が言っていいことではないけれど、お友達でいて欲しかった。醜い私が私に本心を言わせる。
短くも長く感じられる沈黙がスピアナの拒絶を表しているようで泣きたくなってくる。泣く資格なんてないのに。
「__頭を上げてください……っ」
彼女の辛そうな声を聴くと、言う通りに頭を上げないわけにはいかない。
するとスピアナは私のマリーシアの藍色の瞳ではないべっこう色の瞳をまっすぐに見つめ、話し出した。
「ここに来る前、オフィーリア様がいらしたとお話ししましたよね。あの時に、貴女のことは生い立ちからすべて、伺いました。狡いですよね、私。貴女のこと何も知らなかったのに、知られないようにしていた貴女の秘密を他人伝に聞いて。でも私、これからは貴女と、もっと対等なお友達でいたいと思ったんです。償いとかではなく、本当に、心から。オフィーリア様は貴女の真名も言おうとされましたが私、聞かなかったんです。何故だか解りますか?」
そう話す彼女の表情は、とても温かいものだった。例えるならふわふわとした、柔らかい桜色の羽そのものだ。
「私が自分で、貴女に訊きたいと思ったのです。欲張りな話ですが、私が自分で訊かないと意味がないと、そう思いました。」
彼女の言葉に、声に、涙腺が緩んでいく。
必死になって堪えていた涙はとうとう耐えきれずに頬を伝った。生温いそれは溢れて溢れて止まることを知らない。
質問に答えたいと、思っているのに。喉が表現し難い痛みや熱に支配される。
彼女は席を立つと、私の隣に腰掛けた。
そっと、抱きしめてくれる彼女の体温が、私に安心感を与えてくれた。
「……貴女の名前は、何というのですか?」
その優しい声に応えたい。
「私の、名前ば……、スピリット」
途中おかしい発音になってしまっても、彼女なら気にしたりしない。
「スピリット…、貴女は私の、大切なお友達です……!」
肩に一瞬濡れた感触があった。
空が橙から紫に変わる頃、私たちは本当のお友達になれた。
マリーシアとしてではなく。
私の、お友達。
次回予告:前世を召喚した先に立ちはだかる新たな壁は__?
11月10日更新です♪




