出口のない檻①
マリーシアが死んで、屋敷の空気は重く、暗いものになった。はずだった。
しかし今、屋敷の誰の顔にも寂しさを感じないのは何故か。それは少し前に遡る。
『病気がよくなったのね、マリーシア!』
あの言葉から全てが変わっていった。
あんなに優しくて、可憐だった母はマリーシアの死をきっかけに壊れてしまったのだ。
そしてその悲しみを母の強大な魔力が暴走し、私がこの世界の全員にとってマリーシアに見えるように魔法をかけた。これは、母の負の感情の詰まりに詰まった呪いだった。呪いをかけた当の母は、呪いをかけたことすら覚えていない。
あの夜に死んだのは私だということになっている。
あの呪いを受けたのは私だけでなく、マリーシアも私の姿をして死んでいた。
母は自分の本当の娘であるマリーシアの生をとても喜んでいた。死んだのがあの子でよかったと、今までの母なら言うはずもないことを悪気なく毎日のようにペラペラと呟いている。
葬式の際も、墓石に彫られていたのは私の名前だった。オフィーリア様やシャルル、何故か国王陛下に王妃陛下までお越しになっていたので驚いた。
みんな、私の顔をしたマリーシアを、私だと思って悼んでくれていることがほんの少しだけ嬉しかった。
少し前までは、私のことなんて誰も知らないし、生きる価値もない人間だと思っていた。
でも同時に、私がスピリットとして誰にももう見向きもされないことが幼心に悲しかった。
今この場にいる人にとって、スピリットは死人。二度と帰らぬ人。そうなってしまったのだ。
私は生きているのに。
死んだのはマリーシアだったのに。
でも、あの母の歪んだ笑みを見ると、どうしても怖くてあの頃を思い出してしまう。どうしても、ダントの顔と重なってしまうのだ。
癒えたと思った古傷は、一度でも抉られてしまえばそう簡単にもとの状態に戻すことはできなかった。
「……マリーシア」
葬式の後、父が私を呼んだ。
振り向くと、父は大分やつれた顔をしていて、本来そうではないのに目にひどい隈をつくっていた。
「何か御用でしょうか、お父さま」
父からマリーシアの振る舞いをするよう言われていたが、今この状況で心がマリーシアになることは憚られた。
「すまない、…スピリット。マリーアがあんな事をしてしまって。」
あんな事、とは聞かなくても分かる。ただ私に謝罪を述べる父はとても辛そうで、私には見えていない何かと闘っているように見えた。
「私には言う資格も願う資格もないが、君にひとつ渡したい物があるんだ。」
そう言って父がくれたのは、小さなラピスラズリの埋め込まれたペンダントだった。
「そのペンダントをつければ、君は一時的ではあるけれども呪いを弱めてもとの姿に戻ることができる。マリーシアの最期を知る神官さまも、君が教会まで訪ねれば教育を受けることができる。私にできることはこれくらいしかないが、ずっとスピリットの味方でいることは約束するよ。」
今、マリーシアはまだ教育を受け始める7歳には至っていないため、まともに勉強することができない。
しかも母はマリーシアを過度に可愛がり出し、教育を受けさせる必要はないと言っていた。だからその父の申し出はとてもありがたいものだった。
「ありがとうございます、お父さま。このマリーシア、クランドール伯爵家のため最善を尽くします。」
その時の父の苦しげに笑う姿を私は忘れることはできないだろう。
あれから5年。
私は11歳になった。
今ではもうスピリットとして生きていた頃のような振る舞いをすることは全くなく、どこにいても私の心の中に生きるマリーシアとして行動している。
スピリット(マリーシア)が亡くなり、私が7歳になったところでようやく母が少しずつ落ち着きを取り戻し、私に勉強が他の子女よりもできるようになりなさいとおっしゃったので私はもう隠れずに勉強を思いきりできるようになった。
マリーシアとして生きることに慣れ、変に油断していたせいか、ある日私は最悪な失態を犯した。
「お前、誰だ!何故娘の部屋にいる!?」
私が父にもらったペンダントをしていた時だった。
どうして。お母さまは今日、夫人たちが集まる茶会に行くと聞いていたのに。しかしカレンダーを見ると、それはちょうど1週間後の予定だった。
捕えよ、という母の声は私の脳内を素通りしていった。私は屋敷の騎士たちに取り押さえされ、地下牢に入れられた。
寒い。暗い。辛い。助けて。誰か__。
煉瓦造りのこの部屋には、誰もいない。時折微かに風の音が聞こえるだけ。
屋敷の中にこんな部屋があるなんて知らなかった。
立とうと体を動かせば、ジャラリと錆びついた鎖の鈍い音がする。
手には手錠をかけられ、ぼんやりと見えたのは重圧感のある鉄格子。
お腹が空いた。喉が渇いた。この空腹感も、遠ざけようとする絶望にも憶えがあり過ぎて呼吸もままならなくなっていく。
死、という文字が頭に浮かんだ。
いっそこのまま死んでもいいとさえ思った。
しかし、周りが、母が、そうはさせてくれなかった。
「お前は今から罰を受ける。ついて来い。」
私の手錠を魔法によって女騎士でもあるメイド長が解く。そして私を人気のない屋敷の裏庭に連れて行った。
そこには、古い血の痕や人骨なんかも残っていて、恐怖しか感じなかった。
私がクランドール家の養子に出される前に、シャルルは言っていた。
『今は法律で禁止されていますが、古の時代、クランドール伯爵家は罪人の処刑の役割を担っていたと聞きます。』と。
その時の道具がまだ残っているというのだろうか。
母が満面の笑みを浮かべてやってきた。
「罪人さん。これはね、鞭という物です。これで叩く回数によっては生死が危うくなるのだとか。素敵な代物でしょう?ありがたく思ってね。」
そう言って後ろに控えていたメイド長に鞭を手渡し、メイド長が私の背後に回る。
抵抗しようにも、魔封じの腕輪をつけられているためできない。体が重くていう事を聞いてくれない。
私の味方でいてくれている父も、今は長期の出張中だ。私1人ではどうにもできない。
「やりなさい」
その命令により、私は20回の鞭打ちの刑に処された。凄く痛かった。
でも、泣くことはできなかった。私の僅かに残っていた自尊心が許さなかった。そんなもの、さっさと捨ててしまえばいいのに。
私が悲鳴ひとつ上げなかったからか、母はつまらなさそうな顔をしていた。
本当にあの優しかった母は、人柄がガラッと180度変わってしまったのだなと思う。
2日後、父が出張から帰ってきて、私のもとへやって来た。
たくさん謝られた。ただの自己満足だろうと思った。
「マリーシア、マリーアは今マリーシアは友人の屋敷に滞在していると思い込んでいる。……こんなこと言いたくはないが、これからはマリーシア兼収容される罪人の役を演じてくれないか。」
「かしこまりました、お父さま。」
「本当に君にはいつも迷惑をかける。すまない。」
もう、諦めた。自分の人生を生きたいと思うことも、父と母の願いならぬ命令ではなく自分の意思で生きることも。
スピリット、12歳。
この日から私のマリーシアと罪人としての二重生活が始まった。
父曰く、この事を知っているのは父とメイド長のみ。
従わなければ、私の明日は保証されない。
従わなければ、勉強を思いきりすることができない。
私の心は、この日、完全に死んだ。
死なせたんだ。私が。
『__お姉さま!』
夢の中に毎日のように出てくる本物のマリーシアの笑顔。
ああ、マリーシア。どうして貴女は死んでしまったの。貴女さえ生きていれば、私が今地下牢の中で夜明けを待たなければならない、なんてこともなかったかもしれないのに。