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第9話

期末試験と合唱コンクールが迫り、校内に特有の忙しない雰囲気が漂うなか、主人公は“彼女”を失ってからも合唱練習に取り組み、少しずつ前へ進んでいく日々を送っている。一方で、ふと目に入る“旧館の立ち入り禁止”の張り紙が、かつて彼女と夢中で探検した渡り廊下や謎の小部屋の記憶を呼び覚まし、胸に淡い痛みを残すのだ。すでに日が傾き始めた夕刻の校舎。そこには、合唱の残響や思い出の残り香がかすかに漂っていて、主人公は“新しい時間”が流れていることをはっきりと感じ取る。声を合わせる合唱の響きと、閉ざされる旧館の区画――変化していく学校環境の中で、彼女との思い出がなおも主人公を見守っているかのような、静かな余韻が広がる。

 週末が近づき、校内には妙な活気が漂っていた。理由のひとつは、期末テスト前の慌ただしさ。そしてもうひとつは、合唱コンクールまで残りわずかとなり、各クラスが最後の追い込みをかけているからだ。昼休みや放課後、教室や音楽室に集まって自主練をする生徒も増えた。


 そんな中、ぼくは相変わらず彼女の不在を感じながらも、クラスメイトたちと声を合わせる時間を悪くないと思い始めていた。歌うこと自体には慣れていないし、正直恥ずかしさもある。けれど、誰かと協力して何かを作り上げる行為には、確かに独特の高揚感がある。部活経験が乏しいぼくには新鮮だった。


 放課後、クラスで自主練の声がかかった。担任の先生も巻き込んで、教室内でパートごとに分かれて音の確認をしている。最初はバラバラだったハーモニーも、徐々に合いはじめ、先生が「いいじゃん!」と親指を立てたときには、小さな拍手が自然と起こった。ぼくも少なからず達成感を感じる。彼女がいたら、もっと楽しめたのかな――そんな想いが胸を横切るが、それを抱えながらも前を向いて声を出そうと決めた。


 自主練が終わると、クラスメイト数人が「あー疲れた! ちょっと廊下を歩いて頭を冷やそう」と言い出し、ぼくもなんとなくついて行く。雑談しながら校舎の端を曲がると、そこに見慣れない張り紙が貼ってあった。


 「何これ? “旧館の立ち入り禁止のお知らせ”……?」


 そこには、古い校舎の一部が老朽化のため改修工事に入る旨が書かれていた。使用されていない教室や倉庫がある区画で、ぼくはまだ足を踏み入れたことがなかったが、彼女は興味津々で「今度行ってみよう」と言っていた場所だ。結局、彼女が突然いなくなってしまったため、一緒に探検に行くことは叶わなかった。


 クラスメイトたちは「ふーん、あんなとこまだ使ってたんだね」と軽い反応を示して通り過ぎる。ぼくはその張り紙をぼんやり眺めていた。彼女が生前に言っていた「誰も知らない小部屋があるかもね」という言葉や、渡り廊下を探検したときの記憶が一気に蘇る。思わず張り紙の端を軽く触れてみたが、当然そこにはただの紙と糊の感触しかない。


 すでに日は傾きかけている。クラスメイトの一人が「ちょっと保健室に用事があるから先に行ってて」と離れていき、ぼくは一人で廊下に取り残された。長い夕日が床を染めて、静かに伸びる影を眺めていると、どこからか切ないメロディが聞こえてくる気がした。合唱練習の残響だろうか。それとも、遠くの音楽室で個人練習している生徒がいるのかもしれない。


 ふと、あの古い区画の方へ足を向けてみたい衝動に駆られる。立ち入り禁止は来週からだという話を聞いた気がするし、今ならまだ入れるかもしれない。けれど、一人で行っても何もないだろうし、時間も遅い。少し考え込んでから、結局ぼくはクラスに戻ることにした。


 彼女と探検した渡り廊下の記憶は、ぼくにとって宝物のような時間だった。もし、あの区画にも同じように“何か”が残されているなら、いつか誰かと一緒に行ってみたい。そんな淡い期待が、心のどこかに小さく根を張っている。


 教室に戻ると、数人のクラスメイトが残っていて、合唱のパート練習の反省会を続けていた。「そこの音程がまだ怪しいかも」とか「もっとブレスを揃えよう」などと意見を出し合っている。ぼくもそれに加わり、自然と会話に花が咲く。彼女のことは話題に出ないが、みんなの顔を見ると、それぞれが「やる気」という光を帯びているように見えた。


 ――彼女がいたら、きっと先頭に立ってこの場を盛り上げてくれただろう。やや強引に「もう一回、歌おうよ!」って言いそうだ。想像すると、なんだか微笑ましい気持ちになると同時に、少し胸が痛む。でも、以前のような喪失感に呑まれるほどではない。悲しみは変わらずあるけれど、それはもう「ぼくの一部」として受け入れ始めているのかもしれない。


 しばらくしてクラスメイトと別れ、下駄箱へ向かう。校舎を出るとき、ふと見上げた空は淡い紫色に染まっていた。遠くにカラスの鳴き声が聞こえ、部活終わりの生徒たちが続々と帰り支度をしている。温かい日差しが消えて、夜の気配が忍び寄る校庭を一瞥してから、ぼくは門を出る。


 帰宅途中、ふと歩道橋の上で立ち止まり、校舎のほうを振り返った。校舎の窓にはいくつか明かりが残っているが、遠目からだとほとんど暗闇だ。もう彼女はどこにもいないのに、まだそこにいるような錯覚を覚える瞬間がある。でも、同時に「新しい時間」も確かに流れているのだと感じる。


 “旧館の立ち入り禁止”の張り紙、合唱コンクールへの最後の追い込み――日々は次から次へと進み、変わっていく。ぼくも取り残されたわけではなく、その変化の中で一歩ずつ進んでいるのだろう。彼女のいない世界だからこそ、意味のある一歩があると信じたい。


 そう思うと、空気が少しだけ澄んで感じられた。歩道橋を下りながら、ぼくはそっと胸の奥で彼女の名前を呼ぶ。もう応えは返ってこないけれど、想いだけは確かにつながっている。次に学校へ行ったら、仲間たちとの練習にもう少しだけ積極的に参加してみよう――そんな決心が、小さな炎のように胸に灯っていた。

張り紙一枚をきっかけに、二人だけの秘密のような思い出が蘇るところに、物語の繊細な情感が宿っています。行きたかった場所へもう行けない悔しさと、合唱コンクールを目前に控えるクラスの熱気が同時に存在することで、過去と現在が交錯しながらも前に進むというテーマが鮮やかに描かれているのです。

夜の気配が忍び寄る校庭を眺めながら、一歩ずつ前へ踏み出そうと決心する主人公。彼女の不在を“ぼくの一部”として受け入れ始めたことで、取り残されるのではなく、彼女の思い出ごと未来を作っていく意志が芽生えたとも言えます。こうして校舎の窓に灯るいくつかの明かりと同じように、主人公の中にも小さく確かな光が灯っている。あの日々のかけがえのなさが、これから訪れる新しい季節へと続く道筋をそっと示唆しているかのようです。

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