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第7話

ここでは、合唱コンクールの練習がひと段落し、初夏へと移ろう季節の教室が舞台となる。クラスの喧騒から少し離れて訪れた最上階の踊り場で、主人公は失われた存在へ思いを馳せつつ、日常の変化を静かに感じ取っている。空席に象徴される喪失感は相変わらず心の奥にとどまっているものの、友人の誘いやクラスメイトの気遣いを受けながら、少しずつ前向きな感情が芽生えはじめる。誰もいない踊り場で感じる透き通った光と風が、どこかでまだ彼女の存在を感じさせてくれる――

 合唱コンクールの練習が一段落したころ、季節はゆっくりと春から初夏へ移り変わっていた。五月晴れの空は高く、校舎の窓から見える景色がどこか眩しく感じられる。休み時間の度に、クラスメイトたちは「あついね」「そろそろ夏服に替えたいな」などと口々に漏らしていた。


 そんな日々の中、ぼくはふとした拍子に、校舎の最上階へ足を運ぶことが増えていった。きっかけは、合唱練習のあとに隣のクラスの友人が「屋上に行ってみない?」と誘ってくれたことだった。学校では安全上の理由から基本的に屋上は解放されていないが、最上階の階段踊り場までは自由に上がることができる。そこには古い窓があって、外の光が強く差し込む場所があった。


 彼女がこの学校にいたころ、あの踊り場で一緒に過ごしたことはない。でも、なぜだろう――その場所に立つと、どこかで彼女の声を思い出せる気がして、気がつくと昼休みや放課後に足を運んでしまうのだ。白い壁と灰色の床、そしてくすんだ窓ガラス。見渡すかぎり余計なものはなく、ただ静かな光が降り注いでいる。合唱練習のざわめきやクラスの喧騒とは切り離された世界がそこにはあった。


 窓の外を見下ろすと、中庭や校庭が小さく見える。グラウンドでは運動部が走り込み、別棟の音楽室からは吹奏楽部の音が微かに漂ってきた。耳を澄ますと、少しずつ聞き分けられる音の数々――生徒たちの声、遠くで響くチャイムの試し鳴らし、風にそよぐ木々のざわめき。いつもの学校なのに、ここから見下ろすとまるで別世界みたいだった。


 ある日の昼休み、ぼくは少し早めに食事を済ませて、いつものように最上階へ向かった。踊り場には誰もいない。大きな窓は半分ほど開いていて、暖かい風がゆっくり入り込んでいる。壁に背をあずけ、床に座り込むと、ぼくの中に沈殿していたいろいろな感情がふっと浮かび上がってきた。


 ――彼女がいなくなってから、随分経った気がする。けれど、まだその事実を実感しているのかどうか、自分でも判然としない。空席を目にすれば胸が痛むし、ふとした瞬間に笑い声を思い出しては切なくなる。それでも、確実に時間は流れていて、季節は変わり、クラスメイトたちは行事に追われながら元気に過ごしている。


 「君は、今どこでこの景色を見ているのかな」


 心の中で、そんな言葉を呟く。答えが返ってくるわけもないのに、窓の外を見下ろしながら、まるで彼女と会話するような錯覚を覚えるときがある。死という事実は変わらない。なのに、ぼくはまだどこかで「もしかしたら会えるかもしれない」という甘い幻想を捨てきれずにいた。


 階段を上がってくる足音が聞こえて、ぼくは慌てて立ち上がる。誰かに見られるのは少し恥ずかしい。すると、扉の向こうから顔を出したのは、同じクラスの女子だった。ぼくがここにいることに軽く驚いた様子で、「あ……ごめん、もしかして邪魔しちゃった?」と声をかけてくる。


 「いや、そんな……。ただ、眺めがいいから来てただけ」


 正直に答えると、彼女は少し笑みを浮かべた。「ここ、秘密基地みたいで落ち着くよね。わたしも時々来るんだ」と言って、ぼくの隣に立ち、窓の外を見下ろしている。ちょうど昼休みの終わりが近い時間帯。校舎のあちこちで人の動きが活発になり始めていた。


 しばらく黙っていたが、彼女がふと口を開いた。「そろそろ合唱コンクールだし、クラスで練習する機会も増えるけど……大丈夫?」

 「え?」と聞き返すと、「あんた、無理してないかなって思って」と。そこには、彼女なりの気遣いが含まれているのがわかった。おそらく、彼女もまた、同じクラスだった“彼女”の不在を感じ、ぼくがどう受け止めているのかを気にしているのだろう。


 「ありがと。でも……最近は少しだけ前向きになれたよ」

 そう答えながら、ぼくは窓の外のまばゆい景色に目を細める。もし彼女がいてくれたら、こんなときも笑いながら「頑張ろうよ」って背中を押してくれたに違いない。その姿が頭に浮かんで、胸が少し痛む。でも、不思議と、痛みだけじゃない温かさが同居していた。


 チャイムが鳴り、昼休みの終わりを知らせる。ぼくと彼女は軽く会釈して、階段を降りていく。下へ向かう足取りは、思った以上に軽かった。少しずつだが、クラスメイトたちと支え合いながら、彼女の不在を乗り越えようとしている自分がいる。


 廊下に戻ると、いつもの賑やかな空気が流れ込む。友人が「そろそろ授業だぞー」と叫びながら教室へ急いでいる。ぼくも後に続き、扉を開けたとき、自然と空席が視界に入った。でも、前ほど胸を抉られるような痛みは感じなかった。もちろん寂しさはあるが、それを抱えつつも生きていくしかないのだという諦念と、少しの覚悟が芽生えてきたからかもしれない。


 この最上階の踊り場には、しばらくお世話になりそうだ――そんなことを思いながら席に着くと、先生が入ってきて午後の授業が始まる。ノートを開き、教科書を準備しながら、ぼくは静かに呼吸を整えた。窓の外からは、強い日差しと初夏の匂いが混じった風が流れ込んでくる。


 彼女がいない世界は、確実に変わり続けている。季節は動き、人は成長し、日常は生まれ変わる。ぼくもその流れの中にいる。いつか、彼女のいない未来でもちゃんと「楽しい」と思える瞬間がやってくるかもしれない。そんな予感が、ほんの少しだけ希望として胸に灯り始めていた。

静かな踊り場からクラスへ戻り、通り慣れた廊下を歩く主人公の足取りは、かつてのような重苦しさからいくらか解放されつつあります。季節が変わり、人々の生活も動き続けるなかで、忘れられない彼女の思い出は、悲しみとともにやわらかな温もりをも宿しはじめている。空席はまだ胸を痛めるけれど、それでも「生きていくしかない」というささやかな覚悟が、日常の風景に同化してきたのです。やがて訪れる未来では、彼女のいない世界を受け入れながらも、ちゃんと「楽しい」と感じられるときがあるのかもしれない――そうした予感が、初夏の匂いを運ぶ風とともに主人公の胸に灯る。この先も、小さな踊り場は、彼が前に進むための秘密の隠れ家となっていくのでしょう。

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