第4話
ここでは、土曜の午後の学校という、普段の喧騒から少し解放された空間が舞台となり、静寂の廊下で“彼女”との思い出を辿る主人公の内面が映し出されている。かつては誰も知らない場所を二人で探検し、笑い合っていた日の記憶――その残響が封鎖された踊り場の埃や、使われなくなったポスターの欠片に重なり、胸を切なく震わせる。けれども、その切なさは単なる痛みだけではなく、主人公の中に大切に息づき、あたたかな温度をも与えるもの。過去に足を止めながらも、未来へと向かおうとする意志の芽生えが、静かな校舎の空気とともに丁寧に描かれている。
土曜の午後、校舎の裏手を歩いていると、人通りの少ない渡り廊下が目に入った。普段は部活の生徒が往来するはずなのに、今日は大会か何かで外へ出払っているのだろうか。人気のない廊下は静寂に包まれ、足音がやけに響く。薄暗い照明の下、天井近くにある小さな窓から差し込む光が、埃を帯びた空気をぼんやりと照らしていた。
まだ彼女がいた頃、よくこの辺りを探検したことを思い出す。使われなくなった備品置き場や、古い階段の踊り場など、「誰も来ない場所」を見つけるのが妙に楽しかったのだ。彼女はまるで子どものように目を輝かせて、「ここだけが秘密の空間みたいだね」と笑っていた。その笑顔が、今になって胸に焼きつく。
そっと渡り廊下の扉を開けると、埃のにおいが鼻をついた。薄汚れた窓ガラスの向こうには、中庭が見える。そこではボランティア部の生徒が植え替えたらしい花壇が広がり、色とりどりの花が風に揺れていた。こんなに鮮やかな花なのに、ガラス越しに見るとどこか遠い世界の出来事のようで、少し切ない。
彼女とここへ来たときは、手作りの地図みたいなものをノートに描き込んでいたっけ。「この廊下の突き当たりには、誰も知らない小部屋があるんじゃない?」なんてわくわくしながら歩いて、結局ただの物置だったとわかったときの落胆ぶりを、今でも覚えている。その様子を微笑ましく眺めるぼくを、彼女は「もっと夢を見なよ」と茶化していた。
渡り廊下の先には、ぼくが記憶している踊り場がある。そこは狭くて、埃まみれの窓が一枚あるだけだが、彼女のお気に入りのスポットだった。「ここ、夕方になると光がきれいに差し込むんだよ」と言って、放課後に二人で座り込んだことがある。あのときは校内を巡回していた先生に見つかり、「そんなところに座り込むな」と注意されたが、彼女はむしろそれを楽しんでいた。
踊り場まで足を進めると、案の定、ひどい埃で足跡さえつきそうな状態だった。今は封鎖されているのか、周囲に段ボール箱が積まれており、かつてのように腰を下ろすスペースはない。外の光もほとんど入らず、昼下がりだというのに陰が濃い。
ふと、その段ボールの山の上に、やけに鮮やかな色をした紙切れが見えた。学校行事のポスターか何かだろうか。端のほうが破れていて、文字も半分しか読めない。よく見ると、文化祭の告知らしい記述がある。おそらく何年か前のものだろう。
――そういえば、今年も文化祭は秋に行われる予定だった。彼女はいつも出し物に積極的で、クラスTシャツのデザインを考えたり、ポスターのラフ案を描いたりしてくれていた。あの頃は、まさか彼女がいなくなるなんて思いもしなかった。
段ボールの隙間から、小さな埃の塊がこぼれ落ちるのを見て、ぼくは急に物悲しくなった。この場所も、昔とは様変わりしてしまった。でも、それはぼくたちの思い出が消えたわけではない。むしろ、こうして足を運ぶことで、心の中にある彼女の痕跡が息を吹き返すのだ。
――もし彼女が今ここにいたら、「また探検しようよ」なんて言っただろうか。ぼくはそう想像してみるが、返ってくる声はない。それが現実なのだと、改めて突きつけられる。しかし、その現実があまりにも寂しくて、ぼくは小さくため息をつく。
渡り廊下を戻りながら、ふと窓越しに見える青空が広がる中庭を見つめた。屋外に出れば、花壇を手入れしている人たちの笑い声が聞こえてきそうだ。けれど、今はこの静かな廊下を、彼女の記憶とともに歩いていたい――そんな思いがぼくの足を止める。
人のいない校舎の片隅には、不思議な温度が宿っている。それは彼女と過ごした時間の余韻にも似て、ぼくの胸を切なく満たす。きっと誰もこの気配に気づかないだろう。彼女とぼくが共有した秘密のような空気は、まだここに残っているのだから。
最後にもう一度踊り場を振り返る。重ねられた段ボールの向こうに、うっすらと差し込む光。その薄明かりの中に、彼女の笑顔が浮かんだような気がして、胸が詰まる。ぼくは心の中でそっと「ありがとう」と呟いて、踊り場を後にした。
渡り廊下を抜けるころには、夕方の予感がじわりと空気に混じっている。まばらに吹き込む風に、彼女の面影を感じながら、ぼくは再び学校のメインフロアへと戻っていく。
――まだ、次へ進む覚悟はできていない。けれど、過去にしがみついているだけではないと信じたい。この廊下で感じた微かな温かさは、きっと彼女が残してくれたものだ。それを胸に抱えて、いつかもう少し前へ進める日が来るのだろうか。そう思いながら、ぼくは昏れかけた校舎を後にした。
人気のない渡り廊下や踊り場は、“彼女”がもういない現実をより鮮明に浮かび上がらせながらも、同時に二人の記憶を温かく呼び戻す不思議な場所でした。そこにはもう物置や段ボールが積まれ、かつてのように座り込めないけれど、主人公はなおも「彼女が残してくれたもの」を感じ取り、前に踏み出す糸口を探しているのです。探検ごっこに胸を弾ませた姿や、文化祭を楽しみにしていた笑顔はもう見られない。しかし、その痕跡は校舎の片隅と主人公の心の奥底に確かに宿っている。
静かな廊下を後にするとき、主人公はまだ覚悟を決め切れないながらも、過去にしがみつくだけではないと信じようとしています。それは失った存在が、いまだに彼の人生を照らしている証拠ともいえましょう。暮れゆく夕闇とともに、物語は希望と寂しさが同居する新たな一幕へと続いていくのです。