第3話
主人公が昼休みから放課後にかけて「何気ない日常」の中で、かつて隣にいてくれた彼女の面影を探している様子が描かれている。空席に視線を奪われながら、他愛ない話題が飛び交う教室の昼下がりをやり過ごす主人公。その胸には、失った存在の思い出が絶えず去来し、時には重く、時にはささやかな救いにもなる複雑な感情を伴う。行事のプリントや友人の気遣いといった小さなできごとを通じて、改めて痛感する「もういないんだ」という現実と、「でも、まだ心は彼女とつながっていたい」という願い――そんな相反する思いがこのシーンを淡く彩っている。
昼休み。食堂へ向かう生徒たちが廊下を右往左往し、購買前には長い列ができている。ぼくは購買のパンに興味はあるが、あの列に並ぶだけの気力が沸かず、教室で弁当を広げることにした。
机を並べて昼食をとるグループや、一人でスマホを見ながら食べる者、友達と自販機のジュースを買いに行く者――昼の教室は雑多な空気に包まれつつも、どこか緩やかな温かさがある。そんな雰囲気の中、彼女がいつも座っていた席はやはり空っぽだ。
隣の友人が「ちょっと、教科書貸して」と声をかけてきた。半ば反射的に教科書を渡すと、「あ、悪い」と謝りながら受け取っていく。彼女がいた頃は、いつも彼女が「教科書一緒に見よう?」と誘ってくれて、それが当たり前になっていた。もうその姿はない。
ぼくは箸を動かしながらも、味がしない弁当をただ口へ運ぶ。会話の輪の中で、誰かが映画の話をしている。別のグループからは試験の話がちらほら聞こえてくる。いつもの昼休みの光景だ。
しかしふと、遠くから誰かの笑い声が響くたび、「彼女が笑っていたら、どんな声を重ねるだろう」と想像してしまう。頬杖をつきながら、空っぽの席を見つめていると、クラスメイトが気を遣ったのか、やや気まずそうに目をそらすのがわかる。ぼくが意図してそうしているわけじゃないのに、結果的に周囲に暗い空気を与えてしまう自分がもどかしい。
弁当を食べ終えたぼくは、鞄からノートを取り出し、何となく落書きのようにペンを走らせる。彼女が描いていた謎のキャラクターを真似してみるが、うまく描けない。かすれた線が頼りなく、ぽろっとため息がこぼれる。
やがて昼休みが終わりに近づくと、担任の先生が教室へ姿を見せた。どうやら次の行事に関する配布物を配るためらしい。先生は手際よくプリントを配り終えると、空席を一瞥して、少し気まずそうな表情を浮かべた。もちろん先生自身が悪いわけではない。それでも、その視線がぼくの胸をえぐる。
「来週の金曜日、進路ガイダンスがあります。希望進路をまだ出していない人は、早めに提出するように」
先生の声が淡々と教室に響く。卒業後の進路――彼女は確か、大学へ行って音楽を学びたいとか言っていた気がする。軽い冗談交じりだったかもしれないが、「ピアノを弾けたら素敵だな」と笑っていた姿が焼き付いている。ぼくは将来についてのビジョンがまったく描けなくて、彼女のその言葉に憧れを抱いていた。
昼休みが終わりに近づき、再びチャイムが鳴る。プリントを配り終えた先生が出ていくと、一瞬だけ静寂が教室を支配する。それは、まるで彼女が座っていた席に宿る空気が、全体を包み込んでいるかのようだ。周囲のクラスメイトたちも、その瞬間だけは声を出さない。まるで、皆が同じ想いを共有しているように感じた。
けれど、それもわずかな時間だ。すぐに次の授業の準備が始まり、同じ空気は日常の波に飲み込まれていく。ぼくはこの学校という環境が好きなようで嫌いだった。彼女との思い出が詰まっている分、いっそ何もかも忘れてしまえれば楽なのに、と思ってしまう瞬間がある。
午後の授業が続くなか、ぼくの頭の中は依然として「もし、彼女がここにいたら」という空想で渦巻いていた。そんなことを考えてもどうしようもないとわかっているのに、抜け出せない。むしろ、その空想だけがぼくを支えているようでもある。
そして終業のチャイムが鳴り、放課後がやってくる。教室の人間模様が一気に変わり、部活へ向かう者、バイトへ急ぐ者、仲間内で遊ぶ約束をする者――様々な動きが交差して、クラス内は再び活気づく。
ぼくはふと、彼女が残していった小さなメモを書いた紙切れを、鞄の中から探してみる。いつかそれを見ながら笑っていた時期があった。ところが、いつの間にかなくしてしまっているらしい。探しても見当たらない。
その事実に急に焦りを覚え、机の中や引き出しもひっかき回してみるが、結局見つからない。いよいよパニックになりかけた頃、友人が「どうした?」と声をかけてきた。
「いや……大したものじゃないんだけど、ちょっと思い出の品っていうか……」
友人は何も聞かなかった。けれど、その表情に「わかるよ」という空気がにじんでいるのがわかり、ぼくは助けられた気分だった。やがて友人は「よかったら一緒に探そうか」と言いかけたが、ぼくは首を振り、「もういいよ」と小さく微笑んだ。
思い出の品は大事かもしれないが、きっと一番大事なのは、ぼくの中にある記憶の方だ。彼女の声や笑顔を、ぼくはまだしっかり覚えている。もしかしたら、それだけで十分なのかもしれない――そう思えたら、なぜだか少しだけ心が軽くなった。
廊下に出てみると、差し込む夕陽が赤く校舎を染めていた。明日もまた同じように始まって、彼女の席はそこにあるだろう。ぼくがその光景をどんな気持ちで眺め続けるのかは、まだわからない。けれど、今日一日をこうして無事に過ごせたことは、彼女がぼくの記憶に生きている証拠でもある。
――まだ、終わりじゃない。そんな曖昧な確信を胸に抱きながら、ぼくはいつもの下駄箱へ向かって歩き出す。校内放送で部活動の終了時刻が告げられ、外では吹奏楽部の音が微かに聞こえる。
夕焼けに染まる階段を下りながら、ぼくは心の奥で彼女の名を小さく呼んだ。返事はもちろんない。けれど、確かに何かが応えたような気がして、ほんの少しだけ背筋が伸びる。明日もまた、彼女の不在を痛感するだろう。それでも、そこに通い続ける意味がきっとあるはずだ。
そうして、ぼくの長い一日が終わる。けれど、本当に終わりなのは、ただの日常だけ。心の底では、失われた存在との“再会”を信じたい気持ちが、小さく灯り続けている。その矛盾を抱えながら、ぼくは明日もこの教室へ足を運ぶ。未練と希望を同時に抱きしめながら――。
放課後の教室や夕暮れの校舎を背景に、失われた存在に思いを馳せる主人公の姿が静かに綴られました。たとえ形ある“思い出の品”をなくしてしまっても、胸の奥にある記憶こそが何より大切なのだと悟り、心が少しだけ軽くなる瞬間がある。けれど、その安堵と同じくらい、彼女の座らない席や何気ない時間の流れが、生々しい喪失感を映し出してもいるのです。
「まだ、終わりじゃない」という曖昧な確信と、「いつか再会できるのではないか」という淡い幻想が、日常の繰り返しにわずかな希望の光を差し込む。痛みと希望を抱えながら、それでも学校へ足を運ぶ主人公――そこに残る思い出を携えて、少しずつ前に進めるのか、あるいは同じ場所に留まるのか。物語は、彼女との深い絆が紡ぎ続ける未来の扉を、静かに開きかけているようにも見えます。