第11話
いよいよ合唱コンクールの本番が訪れ、練習で培ってきた“声”と“思い”が一つになるときが来る。教室では慌ただしい最終準備が進み、胸に緊張を抱えた主人公もクラスメイトたちと互いに励まし合う。その背景には、いまだに空席のイメージと、彼女の笑顔を幻のように追いかける気持ちがあるものの、ステージへ足を踏み出す瞬間には、不思議と「やってみよう」と前向きな意志が芽生えている。曲のクライマックスで生まれる高揚感とともに、“彼女がいない世界”を生きることへの一歩を、主人公が静かに確かめる。
合唱コンクール当日がやってきた。体育館のステージには紅白の幕が下がり、椅子が整然と並べられている。全学年が参加するイベントだけあって、朝から先生たちや係の生徒が慌ただしく準備をしていた。クラスメイトたちも思い思いに「声が出ない」「喉飴ない?」などと騒ぎながら、わずかな時間で最終調整を進めている。
ぼくの胸も、独特の緊張感に包まれていた。控え室として使われている教室の一角で、友人たちと小声で「大丈夫だよ」「落ち着け」などと励まし合う。いつの間にか「あの空席」も自然に机が移動され、今は臨時の荷物置き場になっている。以前ならそれを見て胸が痛くなっただろうが、今日は不思議と気にならなかった。むしろ、彼女が「いってらっしゃい」と背中を押してくれているような気さえする。
一クラスずつステージに上がり、曲を披露しては拍手を浴びる。観客席からは保護者や他学年の生徒たちが見守り、応援の声が飛んでいる。テンポの速い曲、しっとりとしたバラード調の曲、いずれもそれぞれのクラスの個性が感じられて面白い。時々ミスがあっても、みんなでカバーし合って歌い切る姿に、ぼくも胸が熱くなってくる。
自分たちのクラスの順番が近づくと、クラスメイトがざわつき始めた。担任の先生が「落ち着いて、いつも通りにやれば大丈夫だ」と声をかけ、みんなでうなずき合う。ぼくもこっそり深呼吸をして、自分の気持ちを整えた。心の中で、もう一度だけ彼女の名を呼ぶ。返事はないけれど、確かに何かが胸を支えてくれる感覚があった。
ステージ袖に移動すると、すでに前のクラスが歌い終わり、拍手とともに生徒たちが降りてくる。「結構上手かったね」「やばい、緊張する」と会話を交わす中、ぼくたちのクラスにも出番の合図がやってくる。整列しながら息を合わせ、いよいよステージへ足を踏み出した。
ステージ上にはスポットライトのように照明が当たり、観客席の方は逆光でよく見えない。けれど、ざわめきと視線が一斉に向けられているのを感じる。ぼくは自分の立ち位置を確認し、楽譜を持たずに控えめに背筋を伸ばす。隣に並ぶクラスメイトと目が合い、小さくうなずき合った。合図のピアノが始まる。
曲の冒頭、ソプラノパートが柔らかい旋律を奏で、続いてアルトが下支えするように入る。ぼくたちテノールとバスは、まだ小さくハミングする程度だ。胸がドキドキして息苦しい。それでも、ここまで練習を重ねてきた記憶があるからこそ、一歩一歩声に乗せていける気がした。
やがてサビへ向けて全員の声が重なる瞬間、ぼくは強く意識して声を出す。合唱においては、決して一人が頑張ればいいというわけではない。周囲の息遣いを感じながら、自分の声を埋もれさせず、しかし出しゃばりすぎもせず――その微妙なバランスが心地いい。まるで、みんなと手を繋いで進んでいるようだ。
もし彼女が生きていたら、どこでどんな声を重ねていたのだろう。そんな問いが頭をかすめる。でも、不思議と涙は出てこない。胸の奥で何かがほんのり温かくなるような、不思議な安心感が湧いている。彼女の笑顔が、まるで後押しをしてくれているように思える。
クライマックスのフレーズに差しかかり、曲が一気に高揚する。みんなの声量が上がり、最後の和音が重なり合った瞬間、ぼくの背中に鳥肌が立った。これが合唱の力なのかと、身体で実感する。視界の端に、観客席のわずかな人影が見える。彼女はいない。その事実は変わらない。でも、それでもいい――少なくとも、今この一瞬は「生きていてよかった」と思える気がするから。
曲が終わり、拍手が大きく響いた。思わず息をつくと、クラスメイトたちも顔を見合わせながら笑顔を交わしている。「やったね」「ミスしなかった」と言い合う声が耳に入ってくる。ぼくも心臓がバクバクしているが、最高の達成感に包まれていた。
退場し、ステージ袖から下りると、先生が待ち構えていて「お疲れ!」と声をかけてくれる。みんなも「イェーイ」とハイタッチしたりして、妙なテンションになっている。ぼくは一人、少し後ろからその様子を眺めながら、胸にこみ上げる熱いものを感じた。
――ありがとう。いろんなものに、ありがとう。
そう心の中で繰り返す。クラスメイトにも、支えてくれた先生にも、そして今ここにいない彼女にも。思えば、彼女がいると信じていたあの時間があったからこそ、ぼくはこうして前を向いて歌おうと思えたのかもしれない。
結果発表は、このあとすべてのクラスが歌い終わってからになるが、ぼくにはもう順位なんてどうでもよかった。一緒に声を合わせたこの瞬間こそが、何より大切だったと思えるからだ。彼女のいない世界で、こんなにも満たされた気持ちを味わえるなんて、少し前のぼくには信じられなかった。
控え室へ戻る道すがら、廊下の窓から外を覗くと、早春の光が体育館の外壁をやわらかく照らしている。季節は巡り、ぼくも少しずつ変わっている――そんな確信が、あたたかな風とともに胸を撫でていく。
ステージで歌い終え、大きな拍手に包まれたとき、主人公はこれまで閉じ込めていた感情を解放し、仲間や先生、そして失われた彼女にも心のなかで「ありがとう」と言えるほどの達成感を味わいます。順位や評価ではなく、“一緒に声を合わせる”この瞬間にこそかけがえのない意味があると気づいたのです。
かつては想像すらできなかった満たされた気持ち――それは、彼女の存在や思い出に縛られながらも、新しい時間を受け入れ始めた証でもあります。出番を終えて廊下を歩く主人公は、早春の光とともに確かに成長している。その温かい感触が、物語がいよいよ次のステージへ踏み出すことを予感させるのです。