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第10話

いよいよ合唱コンクール本番が間近に迫る中、クラス全体が熱気と少しの焦りで活気づいている。そんなざわめきの中で、主人公は“彼女”の不在を依然として意識しながらも、クラスメイトと声を合わせる合唱に“悪くない感覚”を見いだし始める。彼女と行きたかった旧館はもう取り壊されるかもしれない――失われた過去の分まで「今」を大切にしようという心の芽生えが、“合唱”という一体感や友人たちとの些細な交流を通じて強まっていく。旧館や秘密の小部屋が閉ざされる寂しさがありながらも、主人公自身が少しずつ「ここで生きよう」とする意思を固めつつあることが、合唱練習と夕焼けに染まる校舎を背景に穏やかに示唆されている。

 合唱コンクール本番まで、いよいよあと数日――。

 クラスの雰囲気は、明るい熱気と一抹の緊張感が入り混じっている。昼休みには有志が廊下を使ってボイストレーニングを試みたり、放課後には音楽室や教室でパートごとの練習をしたりと、いつになくクラス全員がまとまっているように見えた。


 そんな中、ぼくは校内のどこにいても彼女の面影を探してしまう。もうすっかり空席には慣れたはずなのに、練習で教室の机を動かすたび「あそこには誰もいないんだ」と、胸にきしむような感覚が走る。それでも、以前ほど自分の心が破裂しそうになることは少なくなった。きっと「悲しみを抱えたまま生きる」という感覚に、少しずつ慣れてきたのだろう。


 放課後の練習は各パートに分かれて行われる。ぼくは自分のパートであるテノールのメンバーと廊下に出て、壁際に寄りながら発声を繰り返した。声を出すのは得意じゃないし、知らない人の前で歌うのも苦手だった。けれど、いざ声を重ねると不思議と気持ちが浮き立つ瞬間がある。まるで、音が心の澱を洗い流してくれるように感じるのだ。


 練習が一段落したころ、クラスメイトの男子がぼくの肩を軽く叩き、「悪くないじゃん。前よりだいぶ声出るようになったよ」と笑う。素直に「ありがとう」と返事をする自分に、少し驚いた。彼女がいなくなってから、心のどこかで人との距離を置いていた気がするのに、こうして仲間と言葉を交わすことが心地よいと思える瞬間が増えている。


 一方、教室の中では他パートが「ここもうちょっと音程合わせよう」「ブレスのタイミングを確認しよう」と賑やかに話している。担任の先生も職員室から顔を出し、「じゃあ最後にもう一度全員で合わせるか!」と声をかけた。ぼくは席に戻りながら、さっと窓の外に目をやる。いつの間にか陽は傾き始め、校庭には長い影が伸びていた。


 教室で全員がそれぞれの位置につくと、先生が手を叩いて合図を送る。ピアノ伴奏こそないが、足踏みでリズムを取りながら一斉に歌い出す。最初の頃はバラバラだったハーモニーも、今では少しずつ形になっている。クラスメイト同士が視線を交わし、「合わせよう」とする気持ちが伝わってくる。


 ふと、歌いながら「彼女がいたら、どんな声を重ねていたのだろう」と思う。澄んだ、高めのアルトだったかもしれない。あるいはソプラノで無邪気に歌っていたかもしれない。そんな想像をするだけで切ないが、同時に少しだけ幸せな気持ちにもなる。この空間のどこかに、彼女の笑顔がまだ残っているような気がするからだ。


 曲のラストが近づき、みんなの声が大きく広がる。一瞬、ぼくの胸に熱いものが込み上げる。苦しいほどの思い出と、それを乗り越えて前を向こうとする意志が混ざり合い、歌声に乗って周囲と繋がっている感覚――これが合唱の魅力なのかもしれない。


 歌い終わると、教室に拍手と軽い歓声が生まれた。誰が始めたともなく、「なんか今のは良かったよね」と口々に称え合っている。ぼくもこっそり手を叩き、「これなら本番も恥ずかしくないかも」と心の中で思う。先生が笑顔でうなずいて、「よし、今日のところはこのへんにしよう」と告げた。


 そんな熱気の余韻を抱えながら、みんなで後片づけをしていると、ふいに「そういえば、旧館の工事始まったらしいね」という声が聞こえた。つい先日までは掲示だけだったが、今週から本格的に工事が入るようだ。使われなくなった教室や廊下が解体されるらしく、一部の渡り廊下も封鎖されたらしい。彼女が興味を示していた「謎の小部屋」を探検する機会は、もう永遠に失われてしまったかもしれない。


 その話を聞いて、ぼくの胸はかすかな痛みに包まれる。彼女と一緒に「学校の知らない場所」を巡った時間は、ぼくにとってかけがえのない思い出だった。あのときの笑い声や、好奇心に輝く瞳――それらはもう戻ってこない。でも、だからこそ、ぼくは合唱コンクールという今の瞬間を、全力で大切にしたいと思った。失われた時間の分まで、今を生きてみたい。


 放課後の練習が解散になると、友人たちが「帰りに軽くご飯食べに行かない?」と誘ってくれた。普段なら遠慮しがちなぼくだけれど、今日は「うん、行く」と素直に答える。彼女が聞いたら、「お、珍しいじゃん」と笑ってくれただろうか。想像すると、胸の奥が少しだけ暖かくなる。


 校舎を出て夕焼けに染まる空を見上げながら、ぼくはそっと心の中で彼女の名を呼ぶ。返事はない。でも、不思議なほどの孤独は感じない。クラスメイトと共に歌った時間が、ぼくを支えてくれているように思えるのだ。


 この数日の練習の積み重ねが、本番でどんな形になるかはわからない。だけど、ぼくの中ではもう一つの小さな本番が始まっている――彼女のいない世界で、どれだけ自分を取り戻せるのか。その挑戦を、ぼくは止めたくないと思った。

合唱練習が重なり、主人公はクラスメイトと自然な連帯感を築きはじめています。誰もいないはずの空席の隣に彼女の面影を求めていたのに、今は彼女との思い出を抱えながらも、周囲の仲間と笑顔を交わす瞬間が増えている。旧館の取り壊しが象徴するのは、いつか失われる過去への哀惜と、それを超えていく時間の流れ。とはいえ、主人公はもう一度「今」を見つめる勇気を得て、彼女がいない世界に向き合おうとしているのです。

合唱コンクール本番が迫るなか、夕焼けの空の下でひそかな決心を固める――“彼女”の死を背負いながらも新しい季節を生きようとする主人公の心情が、普段ならためらいそうな友人の誘いに素直に乗る様子からもうかがえます。切なさと同時にかすかな高揚感が交差するこの場面は、物語が大きく動き出す前触れとして静かに胸を震わせるようです。

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