第1話
この物語は、一人の高校生が大切な存在を喪った喪失感を抱えながらも、日常の中で前を向こうともがく心の動きを描いた一幕。静かな教室と短い静寂が象徴するのは、まだ癒えきらない傷と、失われた存在を意識せずにはいられない切なさ。何気ない風景やクラスメイトとのやりとりの背後に、主人公のやわらかな悲しみと寂しさがにじみ出ている。そこで見つかるのは、完全には埋められない空席と、思い出を胸に抱えつつ通い続けるしかない日常の重み。彼女がいたころの光景が鮮やかによみがえるたび、主人公は再び「いない」という現実を痛感しながらも、一方であの日々を忘れたくないという未練を手放すこともできない。この静かな始まりが、やがて新しい希望につながるのか、それとも胸を締めつける痛みへと続くのか――物語は、そんなかすかな問いを抱えて動き出す。
朝のチャイムが鳴り終える直前、廊下には忙しなく足音が響いていた。急ぎ足の生徒が教室へ駆け込んでくるが、そのざわめきが落ち着くと、教室には特有の静寂が戻る。黒板には担任の先生が書きかけの予定表を放置したまま、職員室へ何か取りに行ったのか姿が見えない。
窓際の席に座るぼくは、その短い静寂の間に、無意識に前列の机を数えていた――正確には、数えなくてもわかってしまう。ひとつだけ、誰も座らなくなった席があるのだ。出席番号の都合で、常にそこだけ“空席”としてカウントされることになってしまった場所。時間が経てばクラス替えもあり、いずれは机ごと配置を変えるだろう。でも、それまでの間、その席はずっとそこにあり続ける。
最初のホームルームが始まるはずの時間だというのに、担任の先生は戻ってこない。クラスメイトたちも特に騒ぐことなく、スマホをいじったり、ノートをぱらぱらとめくったりして、それぞれの「待ち時間」を過ごしていた。ぼくも教科書を開いてみるが、まったく文字が頭に入らない。
ふと、その空席のことを意識してしまう。正面から見ると、ほかの席と変わらないはずなのに、なぜかそこだけ光の当たり方が微妙に違うように見える。隅のほうに埃がうっすら積もっているのを見て、胸が痛んだ。誰も掃除しないわけではないのだけれど、座る人がいない席はどうしても空気が淀む気がする。
――彼女がここに座っていたのは、ほんの半年前のことだ。
事故という現実を、ぼくらはまだどこかで受け止めきれていない。それを深く話題にする者はいないが、皆が分かっている。いつも朗らかに笑っていた彼女が、もうこの世界にいないことを。けれど、「もういない」という言葉ですら、実感としてはぼやけてしまうくらい、あまりにも唐突だった。
友達以上恋人未満、と安易に言ってしまうには複雑な関係だったと思う。クラスメイトたちは「付き合っちゃえばいいのに」と茶化すこともあったけれど、ぼくたちは必要以上に距離を詰めようとはしなかった。傍にいるだけでいい、そんな感覚。大切な人であることには変わりないが、それを明確に名前づけする必要はない――それが、あのときのぼくらの自然な姿だった。
チャイムが鳴り終わってしばらく経った頃、ようやく担任の先生が戻ってきた。バタバタと音を立てながら、「ごめんなー、ホームルームちょっとだけ延長する」と告げる。先生の声が教室に響き、生徒たちの視線が前を向いた。その空席にも、先生は一瞬目をやったように見えたが、すぐに予定表の話へと移っていく。
ホームルームが始まると、進路相談や部活動の予定など、事務連絡が次々と告げられる。誰もが普段通りに耳を傾け、黒板にメモをとる。ぼくもノートを開くが、視線の端に空席が残り続けていた。そこに彼女が座っていた頃、彼女は丸文字でノートをとって、ぼくの方をちらりとのぞき込みながら「字が汚いね」と笑っていた。そんな他愛のない記憶が、今でも鮮明に蘇る。
ホームルームが終わると、クラスメイトたちはそれぞれの授業の準備を始める。ある者は教科書を入れ替え、またある者は「眠い」と言いながら机に突っ伏す。高校生活という日常が、何事もなかったように動き出す。でも、ぼくの中では“何かが欠けてしまった感覚”がずっと消えないままだ。
少しだけ誰もいない教室を出て、廊下へ出てみる。窓ガラス越しに外を見下ろすと、まだ校庭の桜はつぼみを固く閉じている。春になりかけているけれど、全体的に灰色がかった空の下、うっすらと寒々しい風景が広がっていた。
――彼女がいつも笑っていた場所。
思い返せば、廊下を並んで歩いたり、階段の踊り場でこっそり話をしたりする時間が、ぼくにとって何よりも大切だった。それは「好き」という単純な言葉だけでは語れない、もっと不思議で深い関係のように思う。けれど、それを言葉にできないまま、彼女は突然ぼくの前からいなくなってしまった。
教室の扉を振り返ると、ちょうど友人が「次、英語だから準備しとけよ」と声をかけてくれた。ぼくは曖昧にうなずいて教室へ戻る。すると、その空席がやけに目につく。先生が席替えをしないのは、生徒が減って机が余るのを嫌ったからなのかもしれない。それとも、誰かが「そこはそのままにしておいてほしい」と言ったからか――定かではない。
ただ、一つだけわかるのは、ぼくがその空席を見ずに済む方法は「教室に来ないこと」しかないという事実だ。だから、毎日苦しくても通い続ける。そこにぼくの未練と希望が、同時に宿っているような気がしてならないのだ。
ひとつだけ空席がある教室の風景と、そこに漂う喪失の空気は、高校生活という日常に潜む“欠落”を象徴していました。喪われた人の存在はもう戻らないと頭ではわかっていながらも、記憶の奥にはたしかな笑顔や仕草が色濃く焼きついている。それが、朝の短い静寂をいっそう際立たせ、主人公の視線を空席へ釘付けにするのです。
しかし、この痛みを抱えた静寂こそ、主人公が毎日教室へ通い続ける理由にもなっているのでしょう。彼女の思い出を大切にしたい、手放したくない――その純粋な未練と希望が、空席と向き合う主人公の心を支えているのかもしれません。日々の喧騒が再び動き始める教室のなかで、何かが欠けている感覚とどう付き合うのか。本編では、その喪失と再生の物語が、より深く静かに描かれていきます。