第78話 「私が、幻滅すると思ったわけ?」
病院の喫煙室で俺は、甲斐にハッキリとクビを宣告されたのだった。
後々になって思い返すに、それは至極当然のことであった。何しろ俺は、いわゆる確信犯というやつなんだから。俺は、自分の裁量であの女子高生と、彼女の家庭を救えると信じていた。
これが全く青臭い勘違いというヤツで、結果的に俺は大きなトラブルを引き起こしてしまったということになる。
女子高生は逮捕されて、幸い警察はホストの方に調査を進めているが、俺の勤めている興信所はかなり危うい立ち位置になってしまった。事件の端緒が興信所の調査にあるとすれば、かなりキツい取り調べに発展するだろう。
依頼人――女子高生の親に、契約を反故にしたことがバレるのも大問題だ。もし俺がやったことが明るみに出れば、裁判は避けられない。
だから、甲斐は俺がしでかしたことを黙殺することにしたらしい。というか、そうすることしかできなかったんだろう。俺が刺されたことについて、言い逃れはしようと思えばできる。……すぐさまクビにしなかったのは、警察に疑いを向けられるのを避けるためだったのか、馬鹿な俺に恩情を与えたつもりなのかは今ひとつ判断がつかない。
とにかく俺は今、推定無職の状態にあるということになる。
探偵でもなく、調査員でもなく、事務員でもなく、無職。財布やスマホに挟んだ名刺は、目に入る度悲しい気分になるので全部捨てた。
こんな人生のクレバスに墜ちたような俺が、助手席に座っていることがとても恥ずかしい。恥ずかしいし、申し訳ない。
「それで、私から逃げようとして、滑って転んで腰を痛めたわけね」
朝のすすきのを運転する伊勢は、どこへいくとも言わずにただ車を走らせているらしかった。何も説明はしないが、彼女なりの配慮なんだろう。こんな話喫茶店では絶対にできないしな。
「まあ、そう……そうなんだけど、エビに言われると、情けなくなるな」
「何も逃げ出すことはないと思うけど。相談くらいすれば良かったじゃん。電話でさ」
「……」
伊勢は一瞬俺に目を向けて、すぐに前を向いた。
「私が、幻滅すると思ったわけ?」
「……。まあ、うん」
「しないけど、別に」
「なんでしないんだよ。――あ、一つ言い忘れてたけど、俺、金も無いんだからな」
最早隠し立てすることもないので、俺の低いステータスの一つを開示したつもりだった。だが、ハンドルを握る伊勢が、ふはっ、と噴き出しただけだ。手応えが無い。
「なに堂々と情けない告白してんの」
「……俺みたいな男って、女性からしたらゴキブリみたいなもんだぞ。普通は幻滅する筈だ」
「私ゴキブリ見たことないし」ニヤニヤしながら、歌うような口調でそう言い返す。
「そういう話じゃないって……」
「私だって、月本さんから色々聞いてるよ。松尾はよかれと思ってそういうことをしたんでしょ。悪意を持ってやったことならともかく、それなら仕方がないって思わない? 人生、そういうこともあるよ。それに、お金のことなら――ちょっと、ダッシュボード開けてくれる?」
言われたとおりに目の前のダッシュボードを開いてみた。ティッシュか何かを取って欲しいのかと思ったのだ。だが、そこに見たことがある封筒があったんで驚いた。
「お前、これ」
「北方先生から頂いたお金。自分の分持っていってないでしょ」
……そうか。あの時こっそり少しだけ抜いていったから、彼女は俺が取り分を持っていったことを知らないのか。
「俺の分はちゃんと持って行ってるよ」
「そんなの、ほんの数割だし。私だって金額確認してないわけじゃないんだから。気を遣ったのか知らないけど、そういうの普通に迷惑なんですけど」
俺はたっぷりと太った封筒の中身を見て、ああ、これ程のお金があったらどれ程ありがたいか分からないな、と心底思った。……が、しっかりと封を折ってダッシュボードに戻す。
「……いや。やっぱり、一度渡したつもりの金をやっぱり貰うのはな……」
「あ、それ受け取らないんなら今すぐ車からたたき出すから」
「ええっ」
平然と恐ろしいことを言うじゃないか。
「そんなに格好付けることが大事なわけ? 良いじゃない、格好悪くたって。人生にはやること全部が裏目に出て、どうしようもなく惨めになっちゃうタイミングってあるよ。そういうとき、素直に誰かに頼るのって結構大事だと思うけどね。私だって、夏はさ……」伊勢は、そこで言葉を切って首の後ろを摩った。「私と松尾の仲じゃない」
そういう彼女は、なんだか凄く格好良く見えた。
「……そうだな。ありがとう。助かるよ、すごく」
だから俺は、素直に彼女の厚意を受け取ることにした。格好悪い人間は格好良い人間に逆らうことができない。そのうち格好良い人間が格好悪くなって、格好悪い人間が格好良くなる……人間関係というのは、そういう風に回っているんだろう。
*
それから、俺たちは市内を適当に走りながら色々と話をした。
主には俺がクビになる切っ掛けとなった、刺傷事件の話だ。傷の具合を聞かれたとき、何とも答えようがなくて困ってしまった。サウナで怖がられたことを思い出したのだ。
その代わりに伊勢の仕事は平気なのかと尋ねると、
「なに言ってるの。今は冬休みじゃない」と言うではないか。
「えっ? あー……」
そういえば、学生にはそういうものもあったな。社会人になってからはとんと縁が無くなったんですっかり忘れていた。……今の俺も長期休みのようなものかと気付いて、ちょっと虚しくなる。
「それより、これから仕事どうするつもり?」
「取りあえず札幌で捜そうかと思ってる。東京の同業他社に勤めるってのはどうも……商売敵になるわけだし」
「! 良いじゃあん。どうせなら、北広島で探せば?」
繰り返しのことだが、北広島に俺みたいな人間が収まるスペースは存在しないだろ。
……いや、この際探偵から足を洗うのもアリか。あれだけ痛い目を見た稼業に拘ることもない。
「一応、伝手、みたいなのがあるんだ。これから顔出そうと思ってたんだけど」
「あっ! 分かった。それ、きっとあれでしょ? 月刊ヨミの……ほら! 私、一回行ったよね!」
「当たり。ちょっと、そこに向かってくれるかな」
「オッケー」伊勢は軽く言うと、嬉しそうにハンドルを切った。「……ふふっ。なんか、この感じめっちゃ久しぶり」
同じことを考えてた。
*
通りから吹き込んだ雪が、細い階段の四段目までに傾斜を作っていた。その横、ビル一階のラーメン屋のガラス扉には男達の丸まった背中がぎっしり映っている。盛況なことだ。靴の先で雪を崩しながら、階段を上がっていった。
月刊ヨミの事務所の扉を叩くと、磨りガラスの向こうで人影が蠢く。……扉が開いた。この時期によくあることだが、外気の冷たさと室内の暖気の壮絶な差で少しくらっとする。
顔を見せたのは、ショートカットのイケメン美人、冴羽さんだった。疲れ切った顔をしているな。隈が凄い。
「松尾君じゃない。こっち戻ってきてたの」
「ええ。どうも」
――と、冴羽さんの背後に幾人もの記者が汚い事務所の中にごろごろと横たわっているのが見えてしまった。
何なんだ。
「なんか……あれですか。忙しいんですか、今」
「まあね。ウチ、年末は大体こんなもんなの。悪いんだけど、これ以上人間が入ったら定員オーバーになるわ」
「構いませんよ」本当に構いません、という気分だ。言っちゃ何だが、事務所全体から人間の肌の細菌が汗と反応した臭いが立ちこめている。言っちゃ何だから言わないけど。「社長にちょっと用事があったんですが……」
「ああ、そう。いるわよ。社長! 社長ー!」
冴羽さんが呼びかけると、細菌と汗の臭いの主みたいな存在が奥からやってきた。他の社員に劣らず、誉美もまたゾンビみたいな顔をしている。
「おう。松尾じゃねえか」
「お久しぶりです。ちょっと話せます? 近くの喫茶店でも」
「おう。……しかし、ちょっと臭うな……。誰だ?……全員か」




