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第76話 「あっ。本名でお願いしま〜す!」

 俺がLINEを放置している間に、同窓会の時期は今年の年末、ということで決定していた。当初の話ではエスコンフィールドが活発な時期に……という話だったが、やっぱり社会人が都合を付けられる時期と言えば年末辺りに落ち着くんだろう。


 俺の感覚では、新宿で刺されてから十二月に入るまで殆ど間がなかった。まず、入院一週間とはいえしばらくは痛みに苛まれる夜が続いたし、それに、仕事の調整が結構大変だったのだ。だが、年末が近づくにつれてその忙しさも引いていき、あとは時期を待つようなタスクだけが俺の身に残る。


 東京で過ごす暇な時間は、多少虚しかったかな。……十二月か。


 羽田空港発、新千歳空港着の飛行機に、俺は乗っている。


 最終便だった。


 飛行機の窓から見える外は全くの闇だ。到着予定時刻は二十三時三十分。今日取れる飛行機ではこれが一番安かったんだ。俺の貯金は、基本的に事故、入院、急な転居のどれか一つに対応できる程の金に加え、夏の同窓生捜しで得て、使い忘れたままのあぶく銭がある。


 ……しかし、すっかり目減りしてしまった。今や俺の貯金額はかつての三分の一程度に落ち込んでいるのだ。貯金額が十万を上回らないというのは、これほど寂しいものなのだったか。


 人生の厳しさが俺に牙を剝いたような一ヶ月だった。俺には最早、まともな時間の飛行機を取れる程の資金もないのである。


 これが、運命に不倫した人間の末路ということなのか。


 俺はそんなに悪いことをしたのか?


 今の現実を顧みるに、そうなんだろう。


 後悔の念が、足下からじわじわと這ってきていた。

 

 *


 真冬の札幌に到着する頃には十二時を回っていた。


 駅構内からその気配はしていたが、外に出たらぞっとするほどの寒さがジャケットの隙間から肌に浸食して、体の芯からガタガタ震えてくる。この時期の北海道には薄着すぎたらしい。


 夏の昼間には人待ちの人間が座っていたガラスのオブジェ周りのベンチも、今は綺麗な雪だけが占有していた。……確か、あそこは終電を逃した伊勢がやさぐれていた所だった。懐かしいな。


 ……宿は決めていない。


 年末の同窓会までには、まだ丸一日の空き時間があった。


 別に忘れていたわけじゃないんだが、夏のことを考えれば、寝泊まりできる場所は幾つか心当たりがあった。まず、誉美の部屋。次に、伊勢の家――は、距離的に離れてるか。


 札幌までの道中で電車は北広島に停まった。が、降りなかった。今日俺が札幌に来ていることは、伝えていなかったし。誉美の部屋だってそうだ。今からいきなり訪れて泊めてくれと乞うのは現実的じゃないと感じる。


 取りあえず、すすきのに向かって歩こう、と決めた。幸い雪は降っていないが、札幌駅からすすきのまでの道のりは、この真冬は結構辛い――というか、寒い。


 寒い、寒い。


 寒い……。


 *


 真夜中に雪道を歩いていると、病院で交わした甲斐との会話が勝手に頭の中でリピート再生されていた。


 冷たい終秋の風が吹いていた頃だったかな。


「お前がやったことは、我が探偵事務所に対する裏切りだ」


「……俺は、何もしていませんよ」


「とぼけるな。あの女子高生と接触したんだろうが。それくらい、起こったできごとを考えれば想像が付く」


「……」


「お前が何を考えてそうしたのか、ということには興味が無い。大切なことは、お前が我が社のルールを逸脱したということだ。分かっているのか、松尾。お前は俺に……」甲斐はそこまで言いかけて、苛立たちげに換気扇へ煙を吐いた。「まあ、過ぎたことか」


「……あの」


「う」


「なんで、この一ヶ月間俺にばかり仕事を回してたんですか?」


「なんで、だと?」殆ど端まで燃やしたピースを消炎灰皿に向かって弾いた。頬を歪めたが、すぐに真顔になった。少しだけ悲しそうに見えた。「当然だろ。お前は俺の右腕だ」


「あ――」


「今、うちの事務所で一番当てになるのがお前だったからな。だから仕事を回していたし、お前は見事にそれを捌いた。その分、給与も弾んでいただろう」


「…………」


 何故か俺は、この時の甲斐の台詞を思い出す度に泣き出しそうになる。実際に泣くことはないのだが。


 *


 道すがら、パラパラと小雪が散り始めていた。これが粘つくような雪で、俺のジャケットをすっぽりと覆うように張り付いている。だが、却ってこの方が良いんだ。雪はジャケットの表面を冷やしてしまうが、それで体が冷えきるわけではない。むしろ、半端に溶けて濡れてしまう方が厄介だからな。


 すすきのにあるサウナに到着した。出入り口前でジャケットを叩くと、張り付いていた雪がばらりと解ける。靴の側面にもへばりついていた。その場で地団駄を踏むようにして、これも剥がす。


 それからサウナに入ると、


「いらっしゃいませ〜。……あっ!!」と、受付の女性がいきなり息を飲んだ。


 何事かとその女性の顔を見ると――


「バイト女!?」


 見慣れた顔がそこにあるではないか。茅森……名前は忘れた。 とにかく北海道大学の大学院生で、なんだか社会やらなんやらのことを研究しているという変な女である。


「バイト女、じゃなくって茅森っすよお。忘れちゃったんですかあ? そういうあなたは――」と、俺を指で差して、変な顔をした。「あなたは――あれ、そういえば私、あなたの名前……」


「名乗ってないな。そういえば」


「なんで名乗らないんすか!? あんだけ人生相談しといて!?」


「だって、なんかヤだし……研究の材料にされそうで」


「大学院生をなんだと思ってるんですか……?」


「とにかく」俺は、受付カウンターに貼り付けられた料金表を爪で叩いた。「大人一人。平日深夜、ナイトタイムでよろしく」


「……はいはい。大人一人平日深夜ナイトタイムすね〜。一度施設を出たら再入場不可ですけど、大丈夫ですか?」


「平気だから、さっさと受付を済ませてくれ」


「それじゃあ、はい」と、茅森は一枚の紙を俺に差し出してくる。


「……あん?」


「ここに、生年月日、住所、電話番号、氏名を書いてくださ〜い!」


「……」


「あっ。本名でお願いしま〜す!」


「…………」

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