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第75話 「四月までに、身の振り方を決めておけよ」

「……そうですか」


 頭の中がかなり混乱したが、なんとか取り繕ってそう言えた。こういう告白を受けて、動揺したり嘲笑したりするのは格好悪いと思う。


「勘違いするなよ。女を抱いたことくらいはある」


「はあ」


「ただ、世間一般で言われる普通の手順で、つまり、恋愛の過程を経て女を抱いたことは、一度も無いということだ」


「……」


「この歳になると、もうどうでも良いけどな。……若い頃は色々悩んだんだ。俺は多方面から恨みを買っていたから、女を作るのは弱みを作ることと同じだった――と、当時は思っていたんだな」


 俺は、なんで背中を刺された挙げ句、おっさんの恋愛エピソードを聞かされなきゃいけないんだろう。


「それってすすきのにいた頃の話ですよね?」


「そうだ。ところが、誉美の奴は上手くやっていて……何だかな……」誉美は頬をぐっと歪めて、当時のことを思い出したらしい。「元を正せば、俺が上京したのも同じような理由さ。当時すすきので幅を利かせていたヤクザ連中が、数日後に俺を襲撃するという報せがあってな」


「……そんな事情があったんですか」


「理由の一つだ。他にも上京する理由は山ほどあったんだ。……俺が言いたのはな」疲れ切った西郷隆盛みたいな顔を、こちらに向けた。「生き方を選ぶのならば、他の生き方を捨てる覚悟を持たなければならないということだ」


「はあ」


「お前は、二つの運命と不倫を働いたわけだ。今回のことは当然の仕打ちさ」


「……はあ」


 甲斐は、聞き分けの悪い子供を前にしたような、苛立ったような表情を浮かべた。だが、息を吸って吐いたらふっと平静な顔付きになって窓の外を眺める。


「四月までに、身の振り方を決めておけよ」


「はあ。……え?」


 煙の向こうの甲斐の目元には濃い影が刻まれている。


「お前は――」


 *


 それから誉美と少し話をして、俺は喫煙室に一人残った。


 ショックが抜けきらないが、俺の人生が大きく、それも底に向かって変わったことは確からしい。


 背中の刺し傷はじくじくと痛んでいた。


 廊下を一人で歩く俺は、少しだけ泣きそうだったかも。


 人口密度の高い病室に戻ると、月本が俺のベッドの近くに座っていた。小さな棚の上には既に小説やら新書やらが積み上げられていて、どうやらそれらは近くの古本屋で買ってきたものらしい。読んでいる小説を膝の上に閉じて、俺に振り向いた。


「ありがとう。金は……あぁっ」


 また頭を抱えてしまった。所持品が無いということは、金がないということだ。……警察は、いつまで俺の所持品を鑑定しているんだろう? 非常に不便なので、すぐに返してほしい。


「お金無いんでしょ。いいよ別に。全部で千円行かないくらいだから」


「そう言われると俺が貧乏みたいだけど……悪いな」重たい体をベッドに横たえると、心まで重く地面に張り付くようだった。体も心も疲れていた。「あっ。そうだ。エビ」


「伊勢さんね。まっちゃんは大丈夫だって伝えておいたよ」


「何て言ってた?」


「馬鹿みたい、って」


「馬鹿みたい、か」


 なんとも解釈に困るコメントだ。怒っているのか、心配しているのか、俺への関心を失ったのか。まあ、そのまま受け取るとすれば、その通り俺は馬鹿なんだよ、というところだけど。


「というか自分で話せば?」


「俺の所持品、多分押収されてるんだよ、今。そのうち返しにくると思うけど……」


「じゃあ、ほら」と、月本が彼女のスマホを俺に突き出してくる。「これ使っていいよ。パスは……」


 彼女は自分のスマホを操作されることに不快感がないのだろうか?


「待て待て。別に借りなくても電話番号聞いて貰えれば、病院の公衆電話で連絡取れるよ」


「だって、お金無いんでしょ?」


「ああっ」と、俺はまた頭を抱えた。


 *


 月本にスマホを借りて、院内の通話可能エリア――と呼ばれている非常階段の踊り場に出た。若干錆の浮いている欄干からは、周辺のマンションがぎしぎしと身を寄せ合っている様が眺望できる。病院の前には車通りの少ない道路。少し先には小さな川が流れていて、向こうの交差点へは橋が掛かっている。


 一応病院の名前は聞いていて、どの駅が近いのかも分かっているが、全く知らない町並みだった。病院自体は結構大きい方らしい。


 眼下の道路を、ぶうんと車が走る音が吞気に響いてきた。なんとも平和な空気感だが、却って焦燥感が湧いてくるのはなんでだろう。


「あっ」


 仕事か! 俺の仕事は甲斐が巻き取ったらしいが、よくあんな量を一挙に引き受けられるもんだ。


 ……そういえば、入院して以来初めて外の空気を吸ったな。


 月本のスマホで、極力最小限の操作で伊勢をコールした。すると、三コール位の時間を掛けて向こうの空間の音が聞こえてくる。


「……月本さん? 今度は何?」


「俺だよ」


 伊勢の息を飲む音がハッキリ聞こえた。


「まっちゃ――松尾!?」その場の空間に彼女の声が響いたようだ。ガサガサとその場を移動する音が聞こえて、やがてまた喋り始めた。「一体何があったの。刺されたって本当!?」


 久しぶりに伊勢の声を聴いて、俺もどこかホッとしたんだろうか。胸の中に焼き付いていた将来への不安が、雲一つ無い青空に吸い込まれてくような気がする。


「月本は何て説明してた?」


「……松尾が、ナイフで刺されたって。あれ、結局嘘だったんだよね? あれ、でもなんでいま松尾が月本さんのスマホ……」


 どうやら月本の説明じゃ、ショッキングな部分以外の事実が湾曲して伝わっているらしい。俺は車の通らない交差点の信号が赤と青に切り替わるのを眺めながら、事態の顛末を伝えた。あまり長い話にはならない。甲斐と話したことについては言わなかった。


「――それじゃあ、すぐに退院できるんだ」


「うん」


「平気なの? なんか元気なさそうだけど」


「好調ではないけど、なんとか生きてはいるって感じ」


「そう。……何さ……」


 突然伊勢の声色が暗くなった。なんかまずいこと言ったか? 俺。


「どうかしたのか?」


「何さ、突然……月本さんのスマホなんかで私に連絡寄越してきてさ」


「何って――だから、俺のスマホ、今警察に押収されてるから」


「その前から、私の連絡無視してたくせに」


「えっ!?」瞬間的にそんな連絡があったかと思い返した、無い。「俺、そんな連絡されてないんだけど」


「したでしょ!! グループラインでも、個人チャットでも! 何度も!!」


 そういえば、ここ最近多忙を極めていたんで全然LINEを見てなかった。通知はあったと思うが、仕事の連絡に埋もれて見逃していたらしい。


「え、通話は? 通話なら流石に気付いたと思うんだけど」


「通話――は、なんか……恥ずかしいじゃん」


「恥ずかしい?」


「松尾と何を話せばいいのか分かんないし。気まずいし」


 北広島じゃ散々無駄な話をしていたというのに、今更こいつは何を言っているんだ。


「別に雑談するために連絡したわけじゃねえよ。取りあえず、こっちは近況報告まで。で?」


「ん?」


「伊勢が連絡しようとしてたことって、何?」


「あ、ああ。――同窓会の日程が大体固まったから、その連絡」

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