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第73話 雪が見たかった。

 勿論、大雨の夜の新宿にナイフを持った女が突っ立っているからといって不思議なことはなにもない。ここは東京でも特に治安の悪い新宿歌舞伎町なのだし。


 ところが、その震える先端は俺に向いていたのである。


 あっ、と思った次の瞬間には、脇腹から背中にかけて固く鋭い切っ先がずるりと擦ったような感覚があった。脇腹を刺そうとしたが、カットソーの繊維で滑って、切り裂いたような感じになったのか。


 絶句する程の痛みに、思わず背中を向けて体を曲げる。これがよくなかったのだが、人間急な危難に際してそうそう冷静ではいられないもんだ。


 背中に二回ほど肌が貫かれる感覚。


 そして痛み。意識が真っ白になるほどの。


「お前……」


 首を捻って襲撃者の方を見ると、そこには目をかっ開いて手を赤く染めている、あの援交女子高生が立っているではないか。俺は、瞬間的にブチ切れた。


「お前……おいッ! お前っ!!」


「うっ……があああぁぁぁ」


 言葉にならない声を叫ぶと、女子高生はナイフを地面に叩きつけた。自分が今何をしているのか分かっていないみたいだ。俺が報告してから、彼女の家庭では一体どういうことがあったんだろう。お前はこんなところで、こんなことをしている場合じゃないはずだ。人生は一度きりしかないんだぞ。


「お前っ……」


 怒りに塗れた俺の呼びかけも虚しく、女子高生は大雨に塗れながら大声を上げて走り去って行った。もしかすれば、なにか薬物でも摂取しているのかも。


 どうして彼女は俺を見つけた? 彼女がいれあげているホストクラブはこの町にある。ここまで来る道すがら、どこかで月本と歩く俺を見かけたのか。


 ……店を出たのが月本じゃなくて、俺で良かった。


 俺は、驚いた拍子に地面に落としたタバコを拾おうとして少し屈んだ。灰皿に入れようと思ったのだ。ポイ捨ては格好悪いことだ。だが、一度膝を折ったら再び立つことができなかった。


 そういえば、俺は刺されたのだと思い出した。


 足に力が入らないというか、ガタガタと震えだして、もう立つ気力が無くなってしまう。


 そのまま小汚い壁に凭れた。買ったばかりのカットソーが汚れるのは嫌だったが、もはや自分の体から溢れてくる血で使い物にならなそうだ。下は履き慣れたジーンズで、路上から伝ってくる雨や汚物に黒ずみ始めている。


 ……なんでこうなったんだ?


 痛みでぼやけてきた思考で、俺は一生懸命そんなことを考えた。体感では一時間くらいをとっぷりその疑問に費やした気がする。


 答えは簡単だった。俺が、調査員としてのタブーを犯したからだ。調査対象の前に姿を現し、交渉をした。なるほど、我々調査員がそれを禁忌とするのはこんな風に恨まれるからだったんだな。分かっていた、筈なんだが。


 ……俺は、なんであんなことを……?


 この疑問の答えは中々出なかった。


 確かなのは、俺の中に、北広島で、一生懸命子供に勉強を、教える伊勢が、焼き付いていた、こと――本当のところ、俺は、ああいう生き方に、憧れていたのか?


 いつの間にか頭ががっくりと項垂れていたので、渾身の力で首をきちんと伸ばした。みじめなのはいやだ、という思い一つで俺はこれほど頑張れるのだ。


 俺は、……伊勢みたいに、誰かを幸せにする、という生き方が、してみたかった。くるみちゃんに、あの秘密基地を譲った、あの時のような、


 きちんとした大人って、そういうもんだろ?


 また首が項垂れていた。全力で顔を上げる。痛みというのは一定ラインを超えると、強烈な虚しさを身に齎すのだと初めて知った。


 ……だけど、どうやら、俺の仕事で、そういう生き方をするのは、難しいようだ。


 伊勢に会いたいなあ。


 意識の底に残っていたのは、そんな素直な気持ちだった。血が流れるほど、腹の中で澱になっていたそんな気持ちがぞくぞくと湧いて出てきた。


 ――あっ。そうか。


 *


 十一月の肌寒い空気の新宿ゴールデン街、とあるバーの前の小汚い壁に、伊勢里映という女性を愛していた自分を発見した松尾良一という男が、腹から血を流してそこにいた。「俺」という存在は、そんな光景の数メートル上空をふよふよと気ままに漂い、炉端の活動の灯りを見届けて、やがて雲の上に昇る。


 雪が見たかった。


 雲の上の世界は、まさしく銀色の雪原だ。空から降り注ぐ黄色い光が、真っ白い雪原にごろごろとした陰影を付けている。ここまで高い空だと雲の形は殆ど大地のように安定しているんだな。地上から見ればゆっくり変形しているように見えるが、それは下層の方の雲なんだろう。


 「俺」は、雲に寝転んで空を――宇宙を見上げた。月は優しくそこに光っていた。日本中を照らして、今も比喩の対象になっていて、それを黙認してくれているんだろう。


 少し飛んで行けばあの光の一部になれる気がした。それはきっと、とても幸福なことに違いない。今まで「俺」のように碌でもない人間が碌でもない死に方をしたときは、皆そうしたんじゃないかな。


 だから、「俺」もそうしようと「俺」をふよふよと月の周りに漂わせた。


 ところがその時、急に「俺」は伊勢に会いたいという強い欲求を俺が抱いていたことを思い出したのだ。


 月は、その思いを汲み取ってくれたのだろうか。


 月は自分の周囲を漂っている「俺」を、ニュッと突き出した腕でバシンと地球に向かってたたき落とし、その勢いで「俺」は真空を豪速で渡り、大気圏をヌッと通って雲を突き抜け、雨を弾いて光に向かってネオンに塗れて、十一月の肌寒い空気の新宿ゴールデン街、とあるバーの前の小汚い壁に、伊勢里映という女性を愛していた自分を発見した松尾良一という男の中に戻って――


 薄れゆく意識の俺は渾身の力で店の扉を叩いたのだった。

もう少しで最終話です。

評価を頂けているおかげでたくさん読者が増えました。ありがとうございます。

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