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第72話 ――三十になったら結婚するか。三十……

 月本の部屋は、ベッド以外に人間が座れるところは存在しない。本当に、パッと見た限りじゃ様々な大きさの本がそこらの床を埋め尽くす勢いで散らばっているのである。……よく見ると、部屋の隅にクローゼットらしきものはあるが、強いて生活的な要素を見いだせるのはそこら辺あたりか。


 床に座ろうとも思ったが、そうすると、尻で潰れる本が少なくとも三冊ある、という見当だ。大体ベッドに寝転がっている月本と視線が合わないのは、どうも。


 自然と俺が収まるべき場所はベッド、寝転がっている彼女の隣、ということになってしまう。


 恐る恐る本の隙間をつま先歩きしながらベッドに近づくと、


「ぐう」と、彼女の喉の奥から低い音が鳴り出した。


 ……いびき?


 驚いて寝ている彼女の顔を真上から見てみると、長いまつげを震わせてとても気持ちが良さそうに寝ているじゃないか。


 思わず腕を組んで、真剣に考え込んでしまった。


 俺を家に招待した月本が、帰って数分も経たないうちにベッドで寝ている。誘っているというにはやる気がなさ過ぎるし、無防備というには俺への信頼みたいなのを感じなくもないし。


 ――そうか。分かった。


 月本はきっと、性だとか愛だとかということはナシにして、ただ単純に自分の生活空間を仲の良い友人に開示しようと思ったんだろう。だから、彼女からすれば俺を家に招いて、この部屋を見せた時点で満足なんだ。


 ……なんだ、そりゃ?


 俺は、月本の両足を布団に引っ張り上げ、殆ど彼女の体を無理矢理回転させてちゃんと寝かせた。


 そのまま居室を出て、玄関横の鍵を取り、外に出て鍵を閉めて郵便受けに放り込んでおいた。


 *


 夜十一時の昭和通り近辺は閑散としていながらも、灯りの付いている居酒屋では馴染みの客達が楽しそうに、顔を赤らめて酒を飲んでいる。そんな光景を横目に歩いていると、妙に肌寒いことに気がついた。


 それもそうか。仕事で忙しいから曜日感覚も狂っていたが、いつの間にか九月も終わろうという時期だ。残暑はとっくに消え失せて、いつものアロハシャツ一枚では寒いに決まっている。


 ……さっきは、月本と親密になる機会だったな。


 風で冷える二の腕を手で擦りながら、人肌寂しさに思わずそんなことを考えた。こう、女性と肌を合わせることばかり考えるのは、我ながら無粋極まりなく、下手をすれば友情を壊しかねないことだとは分かっているんだが、こればかりは男として仕方の無い部分だろう。


 それだというのに、さっきは無防備に寝ている月本をどうにかしよう、とは全く思い至らなかった。このまま寝たら冷えるだろうな、と普通に心配して彼女をちゃんと寝かせただけなのだった。


 なんでだろう。別に、月本が好みじゃない、というわけでもない。これからも仲良くしていきたい。――月本との縁には、運命的なものを感じる――しかし、将来彼女の横を歩く俺が、恋人としてそこに立っている、というのがどうしても想像できないんだよな。


 不思議で仕方がない。月本自身はどう考えているんだろうか……。


 *


 仕事の忙しさは日を追うごとに酷くなっていた。というか、ハッキリ言ってブラックな労働環境になりつつあった。


 別に、うちの興信所が大変繁盛している、というわけではない。実際、他の調査員は俺程忙しくしていないようだし。


 甲斐が何を考えているのかは知らないが、確実に夏前より俺の業務量を増やしている。


 ……まあ、多忙の原因は俺にもあるんだけど。仕事に対するスタンスが、北広島の出来事があってから少し変わったのだ。


 例えば、こんな仕事があった。


 *


 相談者は定年まで区役所の仕事にしがみついて一生を終えようという典型的な公務員の男だった。


 おどおどと事務所に訪れた彼が言うには、最近、高校生の娘の帰りが遅いのだという。仲の良い友達の家に泊まることは前からあったが、最近はそんな日が増えた。それに、妻が娘のクローゼットから見覚えのないブランドバッグを見つけた。極々真面目な子で、通っている女子校に悪い友人もいない。だけど、少し心配らしい。


 取り越し苦労だとは思うのだが、夜安心して眠るためにも、不安な目は潰しておきたいというわけだ。


 そんなわけで俺が娘を内偵する運びとなったわけだが、まあ、その娘は予想通り援助交際していたわけだ。


 別に珍しい話じゃない。この手の活動が「パパ活」という名前でカジュアルに(実体は全く援助交際と同じなのだが)若者の間で広まる前から、こういう依頼は多々あった、らしい。


 タチが悪いのは、女子高生がとあるホストに入れあげているということだ。例のブランドバッグは、恐らくそのホストからプレゼントされたものなんだろう。そして、そのホストは別の女性からそのバッグをプレゼントされたんだろう。それ以前のルーツがあるのかもしれないが、とにかく世間というものはそうして回っているということだ。


 ここで問題なのが、彼女の両親、つまり依頼人の公務員はそういう世間に対して全く無知であったということ。


 ありのままの事実を報告すれば、依頼は簡単に達成できた。きっと、今までの俺ならそうした筈だ。だが、必ず家庭は崩壊するだろうということは分かっていた。


 ……色々、悩んだ。


 職業倫理としてなら当然報告するべきだ。……だけど俺は、くるみちゃんの一件で少し絆されたのかもしれない。あの棚橋さんみたいに、人間の中に眠れる善性みたいなものを信じてしまったのだ。


 結局俺は、学校帰りのその女子高生を脅すことにした。


 ――直ちに援助交際を止めるのなら、今回の件は黙っておく。そうでなければ、ありのままの出来事を報告する。


 驚いたことに、彼女は自分が援助交際をしている自覚が無かったらしい。非常に困った顔で、「私、パパ活しかやってないんですけど」と、こう言うんだ。


 だから俺は、パパ活というものは援助交際と同じなんだよ、と結構丁寧に説明してやった。すると今度は、パパ活と援助交際の違いというものを説明してくる。つまり、パパ活にとっての行為は付き合った末にある偶然のできごとであって、初めから行為を目的とする援助交際は全然違う、というのだ。


 知るか、そんなこと。


 きっとそれは、誰かに何度も言い含められた説明を繰り返していただけだろう。馬鹿馬鹿しいが、これは洗脳みたいなものだ。


 説得するのは諦めるしかなかった。即座に止めなければ報告すると繰り返し言ってその場は別れたのだが――その晩、彼女は再び家を出てホテルに向かった。


 ……そんなことがあって、俺は結局彼女の活動を依頼人に報告することにしたんだ。勿論、彼女に交渉を持ちかけたのは伝えていない。こんなことをしたと知れたら当然クビだし。


 それからの彼女の家庭のことは知らない。もう俺の裁量の外である。


 結局この件は、俺が余計なことをしました、というオチになる。余計なことをして無駄な仕事をした。馬鹿だ、俺は……。


 *


 いつの間にやら、十一月になっていた。十月の記憶は殆ど無いが、仕事をしていたんだろう。多忙のお陰なのか、ちょっとびっくりするくらい預金が増えていた。


 月本と数度目の飲み会をした。この頃、俺たちは一人では行きにくいが気になる店へ二人で行くのに凝っている。今日は新宿ゴールデン街のとあるバーだ。この辺りは新宿の喧噪のど真ん中にあるわけだが、何故か店に入るとホッと一息を吐けるような穴場の店が幾つかある。そこでは大抵どこかの業界の連中がこそこそと内情を語っているのだ。


 狭い通りを進めば、店先にぶら下がった提灯がごろごろと並び、その少し上には一昔前のスナックみたいな、長方形のネオンの看板がざっと整列している。


 月本はこういう、ごちゃごちゃとした空間が好きらしいな。どうやら。


 ちょっと休憩がてらタバコを吸いに店先へ出ると、滅茶苦茶な大雨が降っていた。最近はこういう急な土砂降りが多い。軒先からはみ出ないように、汚い壁に身を寄せてタバコに火を点ける。


 ふと、北広島の夜のことを思い出した。


 ――三十になったら結婚するか。三十……


 今、北広島ではどういう時間が流れているんだろう。この頃俺は何の感慨もなく日々を過ごしているような気がするが、やはり伊勢みたいな仕事だと違うのかな。一日一日に意味があるというか。


 タバコは何の味もしなかった。


 ふと気配を感じて隣を見ると、びしょ濡れの女が立っている。


 手元のナイフは、路上に滴る雨でゆらゆらと光を揺らしていた。

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