第71話 「月本の家ってここら辺から近いのか?」
職場に復帰して、まずは先輩が担当する仕事の手伝いを任された。それで、仕事の手順を思い出せ、ということらしい。
それは何てことのない業務だった。大体、北広島で俺は休暇を取っていたわけではない。これでも一応探偵みたいなことはしていたんだ。……調査員、か。
甲斐に直接それを伝えると、次からは元のように俺が一人で仕事を受け持つことになった。初めの一週間を過ぎれば、ひっきりなしに調査依頼が舞い込んで、あっというまにマルチタスクが日常となった。
これで我が社が有する調査員は現在七人ということになっている。業界の規模としてはこれで中堅くらいになるんだろうか。この業界は殆どが個人経営か、そうでなければ百人を超える大手だし。とにかく、人手が自分以外にある、というのは結構頼もしい。
人が殆ど行列になって行き来するスクランブル交差点で俺は、東京という町のどこにこれ程興信所の需要が眠っているのだろうか、と心の底から不思議に思った。大抵の物事はわざわざ金を払わなくたって、自分で足を動かせば十分なのに。きっと、みんな忙しいんだろう。
伊勢との個人的な連絡は、帰京した夜を最後にふっつりと途絶えていた。
代わりに勃興したのが、以前小樽に行った時に委員長が立ち上げた俺、伊勢、けいちゃん、委員長という四人組のグループラインである。
何故かは知らないが、伊勢とけいちゃんはそこで同窓会開催に向けての具体的な話を進めていた。やれ時期はどうするだの、会場はどこにしようかだの……。いつの間にやら委員長のツッコミがちらほらと目立つようになり、なし崩し的に実質的な同窓会幹事は伊勢とけいちゃんと委員長ということになったようだ。
俺は、特に発言をしないまま三人のやり取りを眺めていた。初めのうちは結構な頻度で見守っていたが、疲れ切って帰ったある夜に、この会話は自分に殆ど関係ないことに気がついて、通知を切った。
それから、ふと思い出したときにやり取りを眺めるのみとなった。俺の発言は一切無くても、話は順調に進んでいるようだった。
月本から連絡が来る頃には、寂寥感は殆どかき消えていた。
*
「よう」
先に店に入っていた月本は、二人で座るにはやや広いテーブル席でハイボールを半分空けていた。別に俺が遅刻したというわけではない。マイペースなんだろう。グラスの横には読みさしの小説が置いてある。
いつものように、ぐねぐねとうねった天然パーマ。しかし、仕事帰りということもあってかシンプルで小綺麗な白いブラウスをベースとした服装だ。これで彼女はIT系なんだよな。
「悪いね、秋葉原まで来て貰って」
「いや、いいよ。こっちの方が、静かな店が多いようだし」金曜夜に秋葉原と聞いて、俺は電気街――歩行者天国を想像していたのだが、月本が指定した店は駅を挟んで反対側、昭和通り方面の小さな居酒屋だった。店先には小さな屋外テーブルがあり、渋い爺さんが厨房に立ち、優しそうな婆さんが注文を聞いて回る、という店である。客は屋外席以外の席を埋めているが、皆粛々と料理を摘まみながら天井隅のテレビをぼんやり眺めている。「良い店じゃないか。よく来るの?」
「一人でね。夜本読むのに丁度良くてさ。会社の人には内緒なんだ」
「……居酒屋で酒を飲みながら……料理を摘まみながら、本を、読む?」
「うん。他にすることないし。あっ、おばさーん! ビールでいい? ビール頂戴!」
俺の背後から快活な「はいよー」という応答が聞こえた。月本はこの店に何度か来ていて、店主夫妻と仲が良いんだろう。ということは、月本には外で酒を飲む習慣があるということだ。……結構、意外。
「結局伊勢さんとはどうなったの?」
「どうもなってないよ」
「どうもなっていないことは、ないと思うんだけど」
俺は、だらだらと伊勢と過ごした日々のことを喋った。月本の素直な相づちの前には隠し立てをしようという気持ちにはならなくて、つい自分のありのままを喋ってしまう。流石に淫靡な箇所は飛ばしたが、彼女の家に数度泊まった、ということまでは言った。
「そう……伊勢さんと、別れて残念」
「いや、別に残念というんでもないんだけど。結局エビとは何もなかったし。何もなかったって言うことは、縁が無かったってことなんじゃないかな」
実際、俺は心の底からそういう気分でいた。今や伊勢とは津軽海峡を隔たって生活しているわけだ。元道民と道民の感覚からすれば、海を隔たっているという時点で東京と北海道は非常に遠い世界の話なのである。たとえ飛行機で一時間半程度だとしても。
「縁が無い、ということなのかな? もしかすれば、ただ、丁度今だけ巡り合わせが悪かっただけかもしれない、小学校の頃の初恋を今も続けているなんて……ちょっと壮絶だよ」
月本は、少し引いている様にそう言った。……それは、そうかも知れないが。
「……。いや、エビの話は良いんだよ。それより、月本のことを聞きたいな」
それから、月本から彼女に関することを色々と聞いた。どうやら、彼女も東京では忙しく、楽しく暮らしているようだった。ただ、恋人はいない――というか、いたことが無いという。彼女はそれを全く気にしないで、ひたすら趣味の読書の時間を愛しているらしい。
きっちり二時間程近況報告や思い出話をして楽しく過ごした。
月本とは、まだまだ会う度に楽しい時間が湧き出してくる感触があった。こういう時間はいつか、絞りきった雑巾みたいに枯れ果ててしまう類いのものだろうか。……いや、そんなことはないだろう。
そういう楽しい時間は、これから月本と二人で色々な体験をすることで、止めどなく溢れてくるものの筈だ。
「月本の家ってここら辺から近いのか?」
ふと、前回は彼女の実家近くに呼び出されたことを思い出して聞く。誓って言えるが、俺は月本と今日どうしようと思ったわけじゃない。ところが彼女は、
「そう。ここから徒歩五分もかからないの。寄ってく?」と言い出したのだ。
*
月本の部屋は俺の部屋とは違い整然と片付いていた。間取りは1Kで、俺の家と大して変わらないが若干空間が広い。基本テレワークだが、会社は徒歩十数分の距離にあるそうだ。で、それを公表したら出社しろと言われそうなので秘密にしているらしい。
居室はやはり本に囲まれていた。それは壁一面を覆う本棚に小説がぎっしり詰まっている、という生やさしいものではない。
ワンルームの空間をEの字に別つかの如く部屋の中に大きな本棚……いや、本の山が立ち並んでいるのである。一応ベッドはあるんだが、倒壊した本が毛布の上に雪崩れ込んでいた。
「お前が外で飲む理由が分かった」
散らかった本を片付けながらそう言うと、月本は笑いながらベッドに腰掛けた。
「流石にもう置くところ無くてさ。最近は電子書籍に手を出している。ははっ」
そう笑って、ぼふんと布団に倒れ込んだ。月本の控えめな胸がちょっとだけ揺れたのが、ブラウス越しにも分かった。




