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第69話 現実はそんなもんだ。

 もう寝てしまったかな、と思ったが、インターホンを押したらすぐに棚橋さんが出てきた。明日は仕事で朝が早いと言っていたけど、結局寝ずにいたようだ。衣服は最後に見かけた時のままで、赤く充血した眼を扉の隙間から覗かせている。


 寝過ごしを防止するために起き続けていた……というよりは、家に帰って一人になってから、みるみる不安な心が大きくなっていた、という感じかな。


「……あのう……何か……?」


 棚橋さんは、相変わらず弱々しい声で聞いてくる。どうして俺がやってきたのか、見当がつかないんだろう。不審に思われていないようなのは、探偵という肩書きの威光だろうか。……自称なんだけどな。


 俺が何かを言う前に、横に控えていた伊勢が前に出た。伊勢に両肩を捕まれているくるみちゃんは不貞腐れたような顔をしている。くるみちゃんに胴体を持たれている猫は少し興奮している様子で身を捩らせている。


 ここまでの道中、横で聞いてて嫌になるほど伊勢の説教が続いていたんだ。まあ、これは小学校教師として当然の責務と言えるだろうが。


「くるみちゃんッ!!」


 聞き慣れない声は、なんと目の前の棚橋さんが挙げたらしい。思いのほかハスキーな声色だ。これが本来なのか?


「ほら。お母さんに言うこと。あるでしょう」


 伊勢が切れ味満載の語調でくるみちゃんに囁く。すると、


「しんぱいかけて、ごめんなさい」と、まるで卒業式の別れの言葉みたいに感情のない声で言う。


 やれやれ、これで一件落着かな――と思っていたら、くるみちゃんと棚橋さんの間に不吉な沈黙が落ちていた。てっきり、親子二人が感動の再会、抱き合って終わり……みたいなことになるかと思ったんだが。伊勢も緊張を感じ取ったのだろう。くるみちゃんの肩から手を離して、少し後ろに下がってくる。


 次の瞬間、頬を張る音が空気を切り裂いた。


「何を考えてるの!! あんたは!!」


「うっ……えっ……」


 くるみちゃんの腕からするりと猫が飛び降りて、何故か一目散に俺の足下に擦り寄ってきた。


「一体、どれだけの人に迷惑掛けたと思ってるの!? どうしてこんなことをしたの!? 私を困らせて、楽しい!?」


「あ、いや、あの――」


 思わずくるみちゃんを庇おうとした俺を、伊勢が止める。猫もしがみついてきた。


「楽しく……ない」


「この馬鹿ッ!!」


「……うっ。……うえ! うえっ! えぇぇ……」


 案の定、くるみちゃんはあっさり泣き出してしまった。あの剣幕で怒られては、あの年頃は誰だって泣くしかないよな。けれど、棚橋さんが思いのほかきちんと怒る母親であることに俺はどこかほっとしていた。今回の出来事がショックで、彼女の母親としての人格が蘇ったのだろうか。さっきまでの弱々しい棚橋さんは影も形も残っていない。


「早くお風呂入って、寝なさい!! 明日、みなさんに謝って回るから!!」


「ええぇぇん……あぁぁぁ……」


 手の甲で涙を拭うくるみちゃんがこちらにやってきた。俺の足下の猫を掴んで、泣きながら家の中へ連れて行く。棚橋さんは一瞬「えっ」という顔をしたが、すぐにこちらに頭を下げてきた。何度も。


「ありがとうございましたっ。ありがとうございましたっ。本当に、なんと言ったら良いか……」


 まだ厳かな空気が張り詰める早朝の通りで、北広島を一晩騒がせた一件は終結したのだった。


 *


 くるみちゃん発見の朗報が町中に広まるには、まだ早い時間だった。


 昨日捜索に参加した面々は今、数少ない睡眠時間を大事に使っているところだろう。彼らが喜ぶ様子を見られないのは少し残念だが、もうすぐ始発がやってくる時間だ。


 伊勢は、疲れているはずなのに結局俺を駅まで送ってくれた。駅構内に人気はない。幾ら何でも始発に乗らない人間が一人もいないことは無いと思うんだが、どうしてか、その時は俺と伊勢以外に乗客らしき人間は目に付かなかったのだ。


 まるで北広島という町が、電車が到着するまでの二十数分だけを俺たちに席を空けてくれていたような気がした。


「お前、本当に大丈夫なのかよ」


「ん……?」


 伊勢が明らかに気のない返事を返す。彼女が履いているジーンズもまだ湿気が残っていて、裾から靴下には泥が付いている。髪の毛は所々が跳ねていた。目には隈がこびり付いていた。


「明日、……というか、数時間後仕事じゃないか。流石に休んだ方が良いと思うけど」


「平気。今日の授業はそんなに大変じゃないから。それに、夏休み明けの授業開きって、すっ――ごい大事なんだから!」


「そうなの? 夏休み明けなんて、何をしていたか全然覚えてないけど」


 仕事の話を始めると、伊勢は目をギラギラ光らせて楽しそうに話す。


「大事なの。夏休み明けの子供たちなんて、みんな憂鬱な気分で登校してくるでしょ。学校が楽しいことを思い出させるのがすっごく大事。まず、宿題を回収するついでに、クラスの子達と言葉を交わさないといけないでしょ? それに、朝の授業で夏休みの思い出をグループで発表会するの」


「ふ〜ん……」


 そっけない感じの相づちになったが、俺は伊勢が楽しそうに仕事の話をするのを聞くのが結構好きだ。


「そんな初日に、先生が休むなんてマッジでありえないから。児童が不登校になっちゃったら最悪!」


「くるみちゃんは、今日来るかな」


「あれだけ寝たんだから来てほしいけど……どうかなあ?」


 伊勢が交差した両足首を持ち上げて、ソファの前でぶらぶら揺らし始めた。


「棚橋さんが尻を叩いてでも登校させるんじゃないか?」


「んー。……ははっ。あの人があんなに怒るなんてねえ!」


「豹変って感じだったな。母親ってのは、皆あんな感じになるものなのかな」


「私に聞かれても知らないけど。そうなんじゃない?」


「まあ……そうだよな」


 悠長にこんな話をしている場合じゃない気がしている。だが、今の疲れた頭では具体的に何をすれば良いのか、というアイディアが湧いてこない。昼飯時に、腹は減っているのに自分が何を食べたいのかが分からない時みたいだ。


 少し黙って自問自答をしていると、空白の時間を慌てて埋めるように「でさあ。ねえ、でさあ」と伊勢がまた話しかけてくる。


「なに?」


「で……さあ」


「なんだよ」


 伊勢は肘を膝において、自分の親指の爪をぐいぐい押し始めた。


「……まだ、約束は反故にしてないから」


 約束。――三十で独身だったら結婚する、か。


 とうとう、伊勢とは一度も肌を合わせないまま帰ることになってしまった。しかし、改めて思い返すにこれ程縁が恵まれない男女の仲ってあるんだろうか? 伊勢だって奥手にも程があるが、……いや。それにしても、だ。


「今度、同窓会でこっち来たときさあ」


 まだ親指の爪を押している。


「同窓会って、年内か、来年だろ? そんとき俺たちって――三十まで、まだ三年か二年だよな?」


 伊勢の指先の動きがピタリと止まった。


「ああ。……ん?……え……」


「いや。だから、三十にならないとって。……?」


 俯いている伊勢の顔が、どんどん赤くなってきている。


「……くるみちゃん見つけたら、家に帰って、って……」


「んん?――あっ! ああ!」すっかり忘れていた。そういえば最後に家を出る前に、くるみちゃんを見つけたら帰ってセックスするとか言ってたんだ。「……そっちか」


「なんか、私が滅茶苦茶すけべみたいで嫌なんだけど!」


「いや、まあ、それは追々――」


 その時、構内に始発の到着を予告するアナウンスが響き渡った。


 ……最後の最後が、こんなアホみたいな会話で終わるとは。


「じゃ、俺行くな。色々世話になったよ。ありがとう」


「うん」


 それから、改札の前までちんと静まった彼女が付いてきた。何かスキンシップを求めるでもなく、話しかけるでもなく、ただ、北広島を発つ友人を見送るために付いてきた、という感じだった。


 そのまま改札を抜けると、閉じたバーが俺たち二人の距離感を圧倒的に突き放してしまう。この感覚は、多分に俺の感傷が入った気の迷いというか、酩酊だと思うが。


 お互いの姿が見えなくなる瞬間があった。その時、何かドラマチックな台詞をお互い吐くのかとも思ったが、そんなことも無かった。


 ただ、現象としては――疲れ切った二十後半の男女が、駅の改札で別離した、ということになる。


 現実はそんなもんだ。

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