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第66話 「棚橋さんも、大変なんだよ」

 伊勢の車に乗り込んで、ダッシュボードのデジタル時計を見て驚いた。とっくに一時半を回り、もうすぐ二時になるところだ。そういえば、時計というものを随分久しぶりに見た気がする。


「私の家に戻るって、いったいどうするつもり?」


 俺は、東栄通沿いに貼られた二つのシールが気になっていた。


「ひょっとして、あの家に来ていたんじゃないか、と思うんだ。それも遠巻きに眺める、というんでもなくて、インターホンを押したんじゃないかと」


「……どうして?」


「くるみちゃん、自由研究で悩んでいたからさ。例えば今日、机の上で残りの宿題を整理していて、こうなったら直接取材をしよう、なんてことを考えたのかもしれない。ついでに、伊勢の家でお菓子でも食べながら、漢字ドリルを片付けるつもりだったりするんじゃないかな」


 自分でも、かなり強引な考え方をしていると感じた。黙って近くの歩道に視線を貼り付けている伊勢も、同じことを考えたんだろう。


「……まあ、仮説に過ぎないことは分かってるよ。けど、くるみちゃんの行き先と行ったら、やっぱり伊勢の家しか思いつかないんだ。彼女の自由研究はお前の周りをうろつく怪しいおっさんの謎だろ。俺たち、今日は夜からけいちゃんの家に行っていたから、その間に来たんじゃないかなって気がするんだ」


 頼もしいジジババ捜索隊の助力もあって、今、市内ではほぼローラー式にくるみちゃんの捜索が行われている。見つかっていないが、見つからなかったということは、そこにくるみちゃんはいない、ということだ。増水した河川の周りにも、公園にも、学校近くの通りにも、同級生の家にもいない。


 ……となると、くるみちゃんは今、何処かでひっそりと雨を凌いでいると考えるのが筋ではないか。例えば、伊勢の家のポーチとか。あそこはオートロックを通り抜けられなくても入り込めるスペースがある。


「うん。分かってるから。……うん。そうだね。もしかしたら、私たちが帰ってくるのを待っているのかも。急ごう!」


 俺は思わず伊勢の横顔を見た。冗談を言っている雰囲気ではない。彼女は、本気で「急ごう!」と言って、全く速度の変わらない安全運転を続けているのだ。……これだから、時間があっという間に過ぎているのだろうか? まあ、安全運転は良いことだけど。


「……」


 伊勢の家まで時間が掛かりそうだったので、俺はけいちゃんに連絡することにした。コールをすると、なんと一回目のコールが終わりきらないうちに応答する。


 だが、すぐにスピーカーからごそごそと衣擦れの音が聞こえて……パッとマイクが開けたところに出た気配がした。


「よう、まっちゃん。どした?」


 声色は極めて普通の、いつも通りのけいちゃんだ。今町中で起こっている騒動は全く知らない様子。こっちからけいちゃんの家まで、まあまあ距離があるからな。


「ああ、けいちゃん。悪いな、こんな夜中に……って、待った。もしかして、今隣に委員長いる?」


「いねえよ!!」


「別にそんなムキになって否定しなくても良いじゃないか。今日はけいちゃん家に泊まってるんだろ」


「……いや。本当に、俺と委員長は、何でもないんだぞ? 今は、母さんの部屋で布団敷いて寝てるし。俺は、今自室で一人、ドローンを弄ってたわけさ」


「なるほどな。一人で悶々としていたわけか」


「…………」


 珍しく、けいちゃんが気分を損ねている気配がある。別に俺は、けいちゃんと委員長がそういうことになっても全然構わない、というか、どうでも良いんだが。


「いや、こんなことを話してる場合じゃないんだ。今ちょっと大変なことになっててさ――」


 と、俺があらましを説明している間に、けいちゃんはさっさと部屋から出て、階段を降り、カッパを着て外に出ていた。


「水くさいしょやあ。なんで早く駆り出してくれなかったんだ」


「ちょっと、こっちもバタバタしてたもんだから」


「それで、近くの子供が雨宿りできるようなとこ見て回ればいいんだべ?」


「あ、うん」


「分かった分かった。じゃ、またな」


 よし。これで気がかりを一つ潰せる。……けいちゃんには悪いけど望みは薄いだろうなと感じていた。だが、調査っていうのはこういう地味な可能性を潰していくことが大事なんだ。なにしろ真実というものは、大抵地味な可能性の一つなんだから。


 そして、電話を終えて驚愕したのだが、伊勢の運転する軽は未だにのろのろ運転を続けていた。流石に急かそうと思ったら、


「棚橋さんも、大変なんだよ」と、伊勢がひくい声で呟いた。


「……あの、めそめそした母親が?」


「松尾の言いたいこと分かるよ。そりゃ、こういう状況でああいう態度をされたら、なんかこの人おかしいなって思うよね」


「……」


「だけどね、棚橋さんの家が離婚した切っ掛けっていうのが、父方の、つまりくるみちゃんのお父さんの方のお母さんがね、病気で寝たきりになっちゃったんだって。それで介護をしなくちゃならないって話になったんだけど、棚橋さんが、小学生のくるみにそんなことさせられない! って」


「そうなのか」


「そうなの。私もびっくりしたんだけど、そういうお母さんっていうのもいるんだね。……お父さんの方は北海道の片田舎出身っていう人なんだけど、棚橋さんの方は東京生まれ東京育ちっていう人でね。こう、家族観みたいなのも違うのかもね。介護で私たちの人生を消費するくらいなら、施設に入れた方が良い! って。それってなんか……ねえ?」


 伊勢は明らかに父方に共感しているらしい。


 愕然としたが、辛うじて顔には出さなかった。と、思う。


「それからはもう、揉めに揉めたらしくって。離婚まですぐだったんだって。信じられないよね?……けど棚橋さんもね、離婚して初めて、本当に自分は正しかったのかなあって悩んで、病んじゃったらしいの。だから、というわけでもないんだけど、私はね……くるみちゃんが幸せになったらいいな、って思うんだよね。こういうの、贔屓みたいで良くないんだけど。だって……」


 それから伊勢は、自分の感情を申し訳なさそうにぼそぼそと言い訳し始めた。


 *


 ようやく家について、俺たちは車の鍵も閉めずにポーチに駆け込んだ。


 くるみちゃんは、いなかった。


 入り口から吹き込んだ雨が、オートロックのガラス扉に飛び散っている。あまりがっかりはしないようにしていた。ここで見つかるのは、非常に運が良ければの話だと俺たちはお互いに何度も言い聞かせていたのだ。しかし、俺たちは結局がっかりしてしまった。


 扉の前で佇む俺たちの間に言葉はない。……時間は刻々と進んでいる。それはつまり、事件性が増しているということだ。


「あっ!!」と、伊勢が叫んだ。


「どうした!?」


 俺の言葉に応えず、彼女は大慌てでオートロックを開いて中に入っていった。


 ――あっ、そうか。ここのオートロックは番号四桁の単純なものだ。何かの拍子でくるみちゃんが番号を知っていたのかもしれない。


 だが、屋内の廊下にもやはりくるみちゃんの姿はなかった。流石にがっくりしてしまったが、伊勢は俺には全く構わず、勢いそのままに自分の部屋に駆け込んでいった。一瞬出遅れて、俺も続く。


「……どうしたんだよ!?」


「カメラ!」


 玄関に靴を脱ぎ散らかして、伊勢は必死にリビングの照明スイッチ横の端末を操作している。確かそこにはオートロックの前に繋がるドアホンが――


「あっ!? 録画!?」


 俺も大慌てで上がり込んだ。


 くるみちゃんがインターフォンを鳴らしていたのなら、ここに録画が残っている筈だ。伊勢はこの操作に不慣れらしく、あちこちのスイッチを押してはホーム画面に戻ることを繰り返していた。


 もどかしく思いつつ様子を見ていると、不意にオートロック前の空間が映し出された。そこには、不思議そうにカメラを覗く、カッパを着た少女が立っている。右上の時刻は、それが午後八時の出来事であると告げていた。


 俺は、本能的に伊勢と抱きしめ合った。

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