第62話 「もう探偵でよくない!?」
再び寝室のスペースに現れた伊勢は、さっきまでの興奮はどこへやら、青ざめた表情だった。その割に妙にせかせかとベッドサイドまでやってきて、ぼんとバネの音を鳴らす勢いで座り込んだ。
「どうした。何の電話だったんだ? こんな時間に」
「なんでもない」
手には久しぶりに見たあのときのゴムのパッケージ。苛立たしげに爪を立てて開くので、箱がひしゃげてしまった。流石に中身をみたことはあると思うが、実際にそれを取り出した彼女はまるで宇宙人の卵を持ってしまったような、恐れるような、だけど大切に取り扱うような……潤滑剤が付いていたんで、びっくりしたようにぬめった自分の指先を眺めている。
やがてそんなものには興味を無くして、
「それじゃ……」と、いきなり俺の股間に装着しようとしてくるので、慌てて身を引いた。
「なっ、なに!? いきなり!?」
「えっ? だって、ゴムは行為の前にって……」
「いや。その」俺は困りあぐねて、思わず胡座をかいてしまった。「そういうのはさ、ちゃんと……そのー……ちゃんと勃っていないと、ちゃんと、着けられないんだよ」
「え。……何でそういう風になってないの?」
歯の隙間から息を吸って、俯いて吐き出した。
「いや、だから、こう、下準備というか、ちょっといちゃいちゃしたりして、……俺、何言ってんだ? というか、急にどうしたんだよ」
「なにが。もういいよっ、どうせゴムがなくたって」
ショーツを脱ごうとする彼女の腕を、いったん掴んで止めた。近くで見る彼女の目元は、下の稜線が少しだけ滲んでいる。そこに、間接照明の揺れる光がちらちらと火を灯していた。
「……おい。ちょっと、本当におかしいぞ。さっきの電話は何? 何かあったのか?」
「だから、何でもないって……」
「なんでもない時のエビはそんな顔をしないことくらい知ってる。どうした?」
尋ね直した俺に対して、感情の滲んだ渋い顔をする。それで、俺は何やら深刻な事態が発生したことを悟った。それでも唇を噛んで口を結ぶ彼女に俺は、
「言え!――里映っ!!」
自分らしくもない、本域の詰め方をしてしまう。怯えさせたかもしれないと不安が寄せてきたが、意に反して彼女は俺の臍の辺りに頭を押しつけてきた。
「今、くるみちゃんのお母さんからだったんだけど……」
「くるみちゃんの?」
なんで今、くるみちゃんが話に登場するんだろう。
――そうだった。伊勢は小学校の先生で、トラブルがあれば休日に保護者から電話が掛かってくることもあるんだ。くるみちゃんは不登校予備軍という話だし、私用携帯で連絡を取り合っていたのか。
「……くるみ、家にいないんですけど、って……」
「何だと?」
「くるみちゃん、お家に帰っていないみたいなの。それで今、くるみちゃんのお母さんから、そっちにくるみ行ってませんか? って。そういう電話」
「はっ……!?」纏わり付いてきた伊勢の目をまじまじと見つめる。目をそらされた。「大変じゃないか!」
今、電話が来たということは現時点の話か? 現時点の話か。時刻は深夜零時を回ろうというところだ。すぐに緊急事態だということを理解して、さっそく行動しようとベッドから立ち上がろうとした。が、伊勢が俺に体重を乗せて引き留めてくる。
「おい!」
「今の私たちには関係ない話でしょ!?」
何故か彼女の方が逆ギレしてきた。
「え? あるだろ! お前のクラスの生徒が夜中に行方不明なんだぞ!?」
「――私は今!! 勤務時間外ですっ!!」
耳がきいんとした。
……そりゃ職務として考えれば、今の彼女は勤務時間外ということになるわけで、勿論、通常の小学校の連絡窓口も閉じている。だからくるみちゃんの母親も直接伊勢に連絡をしてきたんだろう。しかし、だからといって――
反論しかけた俺の口を、伊勢が口で塞ぐ。大胆なやり方に呼吸が自由になった後も呆気にとられてしまった。そのまま、もぞもぞと動く伊勢が俺に跨がる格好になり、どういうことになっているのかよく分からないが、腰の辺りで俺の体の何処かしらに、自分の体の何処かしらを擦りつける努力をしているらしい。
ソファのクッションに腰を振るラブラドールレトリバーの面白動画が頭の中で流れ始める。すぐに思考の彼方にうちやる。
なんにしても、伊勢のしていることは性行為とは言い難たい。互いがどうなるわけでもない、意味の無い行為だった。
というか、今夜のことは俺の中ではとっくにご破算になっているし。くるみちゃんが、こんな雨の夜に行方不明になってしまったのだ。誘拐、家出、行方不明と不吉なワードが頭を飛び交う中で、目の前の女性との時間に集中できるわけが無い。
「あっ」
起き上がると、彼女はころんと後ろに倒れた。ずり下がって、再び体を起こす。
「エビ、早く探しに行かないと。くるみちゃんが今も危ない目に遭っているのかも知れないんだぞ。仕事がどうとか言っている場合じゃないこと、分かるだろ」
「……。本当は、分かってるんだから。私だって。それは」
「そうだろ? とにかく、今すぐ電話を折り返して、詳しい状況を聞くんだ。しかし、一体何でこんな時間までその母親も――」
さっさとやるべきことを整理しようとすると、伊勢は頑なな様子で首を振った。目はギュッと瞑っていて、額に浮かんだ汗に彼女の中で烈しく葛藤が起こっていることが見て取れた。
「そうじゃなくって! 私だって……本当は、知ってるの」
「な、何を」
「私が、他の人のために、自分のやりたいこととか、幸せを諦める義務なんて無いこと――本当は知ってる。知って、た」その時、一瞬だが伊勢の目線が今は伏せっている祖母の写った写真に向けられた。写真の中の祖母は笑っていたと思う。「私が本当にその気になれば北広島から出て行けたの。生徒のことなんて放っておいて、東京行くことだってできる……今だって、くるみちゃんのことを放っておけば、松尾と……私の人生ってこんなのばっかりじゃん! こんな深夜に、私に家出した生徒を探す義務なんてある!? いや、あるけど!!……あるけど!! けれど、それは努力義務でしょ!? 私が幸せになれるわけじゃないでしょ!? 私が誰かを扶けたとして、誰が私を幸せにしてくれたことがあったの!? 私はずッ――と! 一人で生きているじゃん!!」
火の付いたような勢いだった。
「人生には、努力次第でどうにかる部分と、どうにもならない、運命みたいな部分が……ある。あるんだよ」今まで目の前で見てきた、様々な人間の不幸を思い出した。「エビの不幸のどこまでが運命なのかは分からないけど、大事なのは、エビは自分の人生の中で、他人をどうにか幸せにしようとしてきた、ということなんじゃないかな。多分それは、他人の人生のどうにもならない部分を救う行いなんじゃないかな」
「……」
「俺は、そういう人間のことを一番尊敬しているよ。そして、俺はエビのことをこれからも尊敬したいと思っている。だから――そうだな」
あまり上手な励ましではない気がしたが、目の前の顔には生気が戻ってきたように見えた。一つ手を打って、ベッドから立ち上がる。
「こうしよう。早いとこくるみちゃんを見つける。で、帰ってセックスをする。いいな?」
伊勢は、俯いて首の裏を撫でると、自分を納得させたように顔を上げた。すぐに立ち上がって、ブラの上から胸の位置を直す。
「どうするつもり? 私たち、探す当てなんてないよ」
「……ああ。そういえば、調査員としての名刺を渡してなかったな」
俺は、様々な業種を名乗る名刺を常に持ち歩いている。スマホのケースから一枚取り出したそれは、元々渋谷の事務所で使っていた、本来の俺の名刺だ。……そういえば、くるみちゃんに渡した名刺もこれだったな。
伊勢は不思議そうに裏面にひっくり返すと、おぼろげな灯りに照らして読みだした。
「依頼はWeb受付可能! 浮気調査、婚前調査、素行調査……家出、調査……」驚いた顔で、俺を見つめた。「忘れてた! 松尾って探偵だったんじゃん!」
「いや、だから俺は探偵じゃなくて調査員。もっと正確に言えば、今は調査員ですらないただの派遣事務で」
「でも、明日からは渋谷の事務所に戻って――あ。もう、今日だ」
「あ。……じゃあ、調査員なのか。俺。改めまして、探偵じゃなくて調査員です」
「もう探偵でよくない!?」




