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第61話 「……ん?」

 雨の中での食事ってのもおかしなもんだが、やってみれば普通に楽しいジンギスカンパーティーだった。


 そういえば、こういうのって普通バーベキューじゃないか? という何気ない俺の一言には道民全員の視線が突き刺さり、「バーベキューって、ジンギスカンはバーベキューじゃないのか?」「北海道じゃ、確かに七輪囲うわね」「子供のころはやったけど……」と、何となく都民と道民の不和をかき立ててしまったりもしたが。


 しかし、そのことを切っ掛けに話題が東京に転がった。この中で東京の地に立ったことがあるのは、当然俺は含めて、委員長も大学の頃は大学の研究発表で来たことがあるらしい。


 ぼちぼち鍋の外縁にもやしと羊肉の滓が溜まったところである。ジンギスカンは、味が濃くて美味しかった。


「あんまり楽しいことなかったけどね。空気臭いし」


「そりゃ、こっちに比べればな。やっぱり人が多いから」


「まっちゃん、新宿とか行くの?」


「新宿……? あるよ。飲みに行くこともあるし、仕事で行くこともあるし」


 ありのままの事実を伝えると、けいちゃんは眼を丸く開いて感心する。


「じゃあ、歌舞伎町とかも?」


「そりゃ、あるよ。……まあ、あの辺の店を自分で選ぶことはあまり無いけどな」


 また、ほ~! と、感心する。知っている地名を実際に行ったことがある人間を偉いとでも思っているのだろうか。


「じゃあ、スカイツリーとか登った?」今度は伊勢が聞いてきた。素面の筈だが、急に食い付いてきたような勢いだった。「浅草寺とか、上野動物園とかは?」


「いや、その辺りは結構遠いから――てか、何だ? そのチョイス」


「全部デートで行くところでしょ。滅茶苦茶分かりやすい探り方するじゃない」


「…………」


 俺と伊勢の沈黙が混じり合った空気の中で、


「良いな~! 東京!」とけいちゃんが鍋の滓をかき集めながら吞気な声を挙げた。


「そんなに興味があるなら今度遊びに来れば良いんだよ」


「俺、飛行機乗ったことないし……」


「じゃあ、今度一緒に行こうか?」と、委員長が提案する。「一緒に」に伊勢が含まれているかどうかは微妙なところだった。


「良いね。まっちゃんに東京案内させるべ」


「仕事が暇だったらな……。伊勢は?」


「私は、仕事が忙しいから」やや苦い表情で呻いた。確かに、教師が授業を放って東京旅行なんてのは中々難しいだろう。何より生真面目な彼女のことだし。


「それもそうよね。社会人だもの」


「……」


 今度はけいちゃんが苦い表情をする番だった。


 話は纏まらなかったが、何となく委員長とけいちゃんの二人が近々東京に遊びに行くという方針で固まった雰囲気がある。――これは、委員長の策謀だろうか?


 ともかく、和やかな食事だった。あんまりこれきりの別れ、という雰囲気が無かったのは、委員長もけいちゃんもその気になれば東京に来られる、というところがあったからかもしれない。


 *


 十時を回ったあたりでぼちぼちお開きという雰囲気になった。会話に夢中であまり気にしなかった雨脚は、来たときと比べて強くなっているのか弱くなっているのかよく分からない。


 ただ、雨で煙った向こうの世界では、何か事態が蠢いている気配がしていた。虫の知らせという程でもないが、何か、やらなければならないことが――それも、今すぐに――あるような。


 後から考えれば、それは今までの出来事を論理的に整理すれば予知できるようなことだったのかもしれない。


 しかし、このときの俺は違和感を感じつつも不思議な気分でカーポートの端でタバコを吸っているのみだった。隣に委員長がやってきて、特に許可もなく、俺が持っている携帯灰皿にタバコの先を落とした。


「……で、結局同窓会来るの?」


 雨音に紛れてか、伊勢には聞こえないであろう声量で尋ねてくる。


「行くとはいったよ。実際行くつもり」


「どうかしらねえ。変に気を持たせるのは良くないと思うけど」


「別にそんなつもりじゃ……」


「東京には、魔力があるから。私の知り合いでもよくいるのよ。散々地元帰ってくるって言っておきながら、いざ上京したらすっかり――っていう人。別に悪いとは思っていないわよ。ただ、向こうとこっちじゃ時間の進む早さは明確に違うようね」


「それは、そうだな」


 背後の素面二人が、急に動き出した気配があった。振り向くと、テキパキと片付けを始めている。


「それじゃあ、まっちゃんが来るのかどうか楽しみにしてるわ。東京行くときはよろしくね」


「ああ」


 *


 素面の伊勢に運転して貰って、再び彼女の家でゆっくりすることとなった。ここまで来れば今晩お互い好きなようにする、というのはもはや共通の認識なので、


「あのさ、風呂一緒に入らない」


 めげずに些細な夢を叶えようとしたら――


「だから、二人で入るのは狭いでしょって」と、そんな変態趣味に付き合うつもりは毛頭ない、という感じで断られてしまう。


 ところが、伊勢の後に風呂に入って、しんみりと酔いが醒めてきた頃合いに急に彼女が浴室の扉を開いてきたのである。


 ただし、シャツは着たままで。下半身は下着だが。


「……!?」


 風呂場の湿気で、たちまち彼女の肌にはTシャツが張り付いた。驚愕している俺に眼を合わせないまま、「……背中を流すくらいなら、してあげても良いけど」と、乾いたボディタオルを畳むのと開くのを同時に行いながら言い出すので、興奮よりも疑問が勝ってしまった。


「……へっ? 背中を流す?」


 女性にそういうことをさせる価値観が過去にあったことは承知しているが、何で現代の若者である伊勢がそういうことを言い出すのかが分からない。……何年前の価値観なんだろう。ひょっとしたら、彼女の上司や親世代の風習じゃないのか。


「なんだよ。そんな古風な趣向だったのかよ」


「だって、男の人はそういうの喜ぶってネットに書いてたし。松尾が何度も言うから……」乾いたボディタオルをわしゃわしゃさせて、顔を赤らめた。「良いから、早く上がれば良いじゃんっ!」


「えっと、それじゃ……」


 おもむろに湯船から立ち上がると、彼女の目線がぴたりと俺の下半身に張り付いた。急に恥ずかしくなって、両手で股間を隠し、風呂椅子に腰掛ける。――自分で一緒に入りたいと言っておきながら、まさかこんな展開になるとは思わない。非常に赤面した自分の顔が目の前の鏡に映った。


 それから、驚いたことに一切の触り合いもないまま伊勢が俺の背中を擦る時間が続いた。指すら俺の肌に触れないようにしていて、ボディタオルを媒介に一生懸命体重を乗せて俺の背中を擦る感じだ。


「……気持ち良い?」と、薄眼で鏡を覗く伊勢。正直、気持ちよくない。普通に痛い。しかし、そんな感想をありのまま伝えるのはどうだ。


「あ。うん。気持ち良い」


「でしょー!? おばあちゃんによく褒められたんだよね!」


「あ。そうなんだ」


 それで俺は、呆けて亡くなってしまったという彼女の祖母が、とても優しい人だったと知ったのだった。


 *


 風呂から上がると、結構自然な流れで伊勢のベッドに向かった。腰掛けるなり彼女は唯一の上着であるTシャツを臍まで捲り、そこで一旦脱衣を中止してサイドテーブルに飾っている写真立てを静かに倒す。彼女の祖母、生徒の視線が一斉に地に伏せた。そして、シャツを脱いでブラジャー、ショーツという格好になる。灰色のカルバンクラインは体のあらゆる谷の汗か何かで黒く染まっていた。


「……そういえば、伊勢が泣いてるところ初めて見た」


「やだっ」


「やっぱり、生徒の卒業式とかも泣いたりすんの?」


 ふと気になって尋ねると、伊勢は淫らな格好だというのにしっかりと小学校教師の顔付きになった。


「うん。今まで六年生のクラスを担当したのは二回だけなんだけど……やっぱり、泣いちゃうね。ちょっと演出臭くなっちゃうから我慢するんだけど、北方先生に卒業証書を貰う生徒の後ろ姿を見たら、ああ、皆立派に中学校に行くんだなって、これから私と同じように大人の仲間入りしていくんだなって感極まっちゃって。特に、この年代は児童のトラブルに休日まで振り回されたりするから。そういう子達も、これから大人になっていくんだなって」


 そんな話を聞いてしまうと、北広島で一人で頑張っていた彼女の今までが愛おしくなる。俺という人間が、彼女の慰みになる存在になればと本気で願ってしまう。ゆるりと彼女の肩に腕を絡めて、唇を重ねたまま枕に向けて頭を押し倒した。


「……あっ、あっ。待って待って」


「ん?」


「ご、ゴムあるからっ」


「……ん?」


 ベッドのサイドテーブルには引き出しがあって、俺は当然その中にゴムを保管しているのだと思っていた。ところが、ベッドから立ち上がった伊勢は「ちょっとだけ待ってて」と仕切りの向こうに姿を消して、「すぐ戻るからっ」と頭だけ出して早口で言い、ぱたぱたと寝室の空間から出て行った。どうやら、扉で隔たれた仕事部屋の何処かしらに隠していたらしい。


 そのとき、閉められた仕事部屋の中からスマホの着信音がくぐもって聞こえた。


 こんな時間に電話? と思ってサイドテーブルの目覚まし時計を見ると十一時四十八分を指し示している。


 嫌な予感がした。

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