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第59話 「お達者で」

 コンビニの自動扉を抜けるなり、アルバイター茅森がぶしつけな驚愕の視線を俺に送ってくる。


「……珍し~い!」


「なんだよ」


「え!? 今運転席から出て……あれ!? 免許持ってたんすかあ!?」


「ペーパーだけどな。一応運転出来るんだ。俺は」


 とはいえ、札幌北二十四条から北広島までは決して容易な道中ではなかった。豪雨の中だと流石に走行車両は少ないとはいえ、赤信号の光は曇り、一時停止のマーキングはまるで見えず、なにより俺の四肢がやたらと暴力的に伊勢の軽を操っていた。かといって、窓に額をことんと押しつけた彼女に運転を頼めるわけもなく、助言を求められるわけでもない。


 とにかく、大変な道中だったのだ。


 ……だけど、とにかく。どうにかこうにか事故も起こさず、車も擦らず、多分交通法規は犯さないまま、汗だくで、北広島のこのコンビニまでは来られたわけだ。


「こんな大雨なのに、何でバイトなんかしているんだ?」


「そりゃコンビニですから。庶民生活のインフラですもん」


「立派なもんだな。……そういえばお前、就活は?」


「ああ。私は取りあえず就活のことは考えないようにしているので、二度とその話振らないでください」


「あ、そう……」


「ところで、伊勢先生は?」


 俺は雨に煙った駐車場をちらりと見た。流石に助手席の伊勢の様子は見えないが、きっと今も窓に頭を預けて、ぼうっと外の景色を見つめているんだろう。


「あいつは、ちょっと体調が悪いんだ」


「えー!」


 ちょっと目の前の少女の将来を本気で心配しかけたが、よく考えたら俺も他人の心配をできるほど立派な生活を送っていなかった。


 そのまま、真っ直ぐドリンクコーナーに行って、缶コーヒーを一本手に取る。


 それをレジに置いて、手早く会計を済ませた。そして、そのコーヒーを摘まんで茅森の前に置く。


「……ん?」


「いつもおつかれさん。奢ってやるよ」


「えっ!!」と、茅森は大げさに驚いて、おずおずとコーヒーを手に取り、にんまりとした顔を俺に向けた。「なんすか~!? 珍し~い!」


「いや……。約束しただろ、この間裏口使わせて貰ったとき」


「嬉し~い!!」


 茅森はにこにこ笑いながら、両手でコーヒーを回しだした。


 一本、約百円。


 こいつはこんなもんでこれほど機嫌を取れる奴だったのか……。


「まあ、明日には俺も北海道を発つしな。できるだけ思い残しが無いようにしているんだよ」


「あ、そうなんすか? そうなんすか……」


 茅森は俺の出立を残念がる、というよりは北広島に残される伊勢を気の毒に思ったように駐車場へ目を向けた。


「まあ。そうなんだよ。……それで、どうなのかな」


「はいっ?」


「つまりな。……まあ……俺の知り合いにだな、こういう奴がいるわけだよ。そいつは東京に住んでいるんだけど、この間故郷に帰ったときに、実は自分の人生が都会にのみあるわけじゃない、ということに気がついたらしいんだけど」


「はあ」


「やっぱり、最近で言うところのUターンとか、Jターンとかって……多いのかな? お前って多分そういうの詳しいだろ? たしか、人間科学専攻の地域科学と社会学を反復横跳びしているんだろ」


「まあ、そうなんすけど」茅森は、少し困ったように眉を潜めて缶コーヒーをハンドリングする手元を見つめた。「そうすねえ、まあ、一般論として道全体ではそういった若者の移住は増加傾向にあるようですね。やっぱり自然豊かでご飯が美味しいし、何より家賃が低いという事情もありまして……なんか、ラボの発表会みたいすね!?」


「知らねえよ。それで、北広島に関しては?」


「北広島の統計は公開されていないんすよ。確実に言えるのは道全体として、の話なんで。まあ、一応私なりの調査で人口動態の小さ~い数字にそれなりの意味を見いだしてはいるんですが、ちょっと確実に言えないところなんで」


 なるほど。


 ……とすると、移住先の殆どは札幌市、少なくとも近郊ということで結論づけられるのではないだろうか。北広島は、感覚としてはちょっと遠い。


 仮に俺が、北海道のどこかしらに移住したとして……その先の人生は一体どうなるんだろう。


 なんてことを、真面目に考えてしまった。当然のように伊勢と一緒の未来が思い浮かんでいるけど、まあ妄想だしな。


 伊勢は小学校の先生をするとして、俺は真面目な企業勤めをしてということになわけか?――正直、真昼に見る夢に近い未来予想図だ。まともな勤務形態を定年まで続ける、ということは将来的に俺は発狂するということだ。それに俺は、基本的に困っている人間が世の中に溢れているほど仕事に困らないという職業だ。こんな平和な土地で定住なんて……。


 目の前の茅森が急ににこにこし始めた。


「聞かないんすか?」


「……何を」


「俺はどうしたらいい? って」


「いや、だからこれは友人の話で――というか、何で俺がそんなことをお前に聞く?」


「いつも聞いてたくせに〜! その度、私が当意即妙なことを言って、今まで上手くやってこられたんじゃないすか〜!」


 そうだっけ? まあ、そういうことにしておくか。


「はあ。じゃあ、何かアイデアがあるのかよ」


「帰札しない方が良いと思うすね。まだ」


「ほう。……まだ?」


「まず、札幌市のUIJに対する支援金の対象から外れる可能性があるんで。少なくとも帰札の直近一年は東京勤めをした方が無難です。あと、二十代で地方移住っていうのは、キャリア的に損しそうですし。……と、こういう事情を前提に考えれば、まあ、三十くらいが良いタイミングなんじゃないですかね」


「なるほどな。三十か」


 まさかこいつの口からまともなアドバイスを賜るとは。


 ……支援金が出るとは、普通に知らなかった。キャリアに関しても真っ当な意見だ。どう考えても札幌よりは東京の方が仕事があるし、金も稼げると思う。


 店から出る時、「お達者で」と、キャラに似合わぬ古風な挨拶を茅森は言った。


 「お前もな」と答えて、雨の中に傘を広げる。


 そういえば、茅森にはまともに名乗っていないままだ。次俺が札幌に来ることがあったとして、彼女はまだバイトを続けているんだろうか?……まさかな。


 *


 車に戻ると、やはり冷えた表情の伊勢が窓側に側頭部を倒していた。喫茶店を出てから口を結んだままで、まだ赤い左の眦を雨に冷えたガラスに接している。


 会話もないまま車を出して、また、じわりと俺の額に汗が広がる。他に客のいないコンビニの駐車場ならなんとか枠の中に車を停めることはできた。しかし、伊勢の家の前は……。


「ちょっと待って。車停めて」


「ん?」


 伊勢に言われたとおり、一旦車を停める。すると、伊勢は濡れるのも構わず助手席から降りてこちら側に回ってきた。慌てて席を交代すると、「やっぱり、ペーパードライバーに車を任せるのは怖いし」と、頼もしくハンドルを握り込む。


「そうか」


「あと、松尾が運転していたら気を遣って話もできないし」


「……そ、そうか」


 久しぶりに運転して分かったが、彼女が普段何気なくやっている運転しながら会話をする、というのは非常に高等なスキルなんだな。


「どうして、月本さんと一緒にいかなかったの?」


「俺が傘持ってったらエビが濡れるだろ」


「そんなの気にしなくて良かったのに」


 伊勢の声が低かったんで、答えを間違えたと悟った。


「……お前を放っておけなかった」


「ん。……」


 短い相づちにシンクロするように、車が紳士的に発進する。俺の場合こうはいかない。どっかしらのタイミングで、何故か車体が縦に揺れるのだ。


「嬉しかった」さらりと言って、それで当座の気分を切り替えたらしい。「ね、お昼どうしよっか?」と聞いてきた。


「そういえば食べてないな」


「お蕎麦にしよっか? 夜はけいちゃん家でジンギスカン食べるんだっけ?」


「そうだな。札幌最後の飯は、やっぱジンギスカンか……」


「でも、大体コンプしたでしょ?」


 ……家までの会話はそんな調子で、何となく互いの好意に確信を持っていながらも、目の前の別れの気配に喜びきれない、微妙な空気だった。月本との面会が終わり、ようやく仕事を完遂できたような晴れの気はある。


 けいちゃん家で食事をして、伊勢の家に帰り、明日は六時の始発に乗るとして、――夜に肌を合わせる位の時間は、十分ある。これからのことは分からないけど、まずは今の気持ちを楽しく探り合って、喜び合う。その時間は、きちんと確保されている。


 このときは、そう思ってたのだが。

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