第58話 「まっちゃんのことが、――好きだった!」
「私……私は別に、月本さんと松尾のこといじめているつもりはなくて――なかったの」
「えっ。本当に? 自覚なかったの?」
「……ご、ごめんなさい」
「だから、私は謝られても別に嬉しくないんだよ、伊勢さん。謝る気持ちがあるんなら私の質問に答えてほしいな。こういう心境を聞くチャンスって、中々ないと思うから。――じゃあ、質問を変えようか。どうして私とまっちゃんを標的にしたの?」
伊勢は、俯いたままハンカチでまた額の汗を拭った。
これほど弱り切った彼女を、俺は見たことがない。
このままではまた伊勢が黙りこくる時間が発生しそうだったので、
「月本。それは、なんというか、説明できるほどの理由はないんじゃないか? 子供の頃って、なんとなくで行動すること結構あるだろ」と、助け船のようなものを出す。
ところが月本は手強いのである。
「別にそれならそれで良いんだけど、納得いかないんだよね。だって、私はともかくなんでまっちゃんも? 結構スクールカースト上の方だったし、人気者だった気がするんだけど。それに、伊勢さんが態度を豹変したのって結構急だったでしょう。何か理由があるはずだよ。そう思わない?」
「それは……ううん……」
「私、一度疑問に思ったことは納得するまで調べ尽くさないと気が済まないタチなんだ。特に、人間関係って私の不得意な分野だから、今後の教訓にしたいの。ねえ伊勢さん。教えてくれない?」
伊勢は、汗を拭うのに使っていた皺一つないハンカチをそっと握ったまま太ももに置いた。俺の席からは、彼女が段々それを強く握りしめて、皺まみれにする様がありありと見えた。
「――まっちゃんとつきもんが仲良くしてたからっ!!」
と、唾を吐き出す勢いで言い切る。
月本は伊勢の方に身を乗り出して、闇の底のような黒目を近づける。
「どうして私とまっちゃんが仲良くしていたから、いじめをしようと思ったの?」
「……二人の仲が、悪くなったら良いなって思って……それで……」
俺の目は、握り込む余り指先が白くなり始めている彼女の手に停まったままだった。肩を震わせているらしかった。
「うん。続けて?」
「それで……私……」手の中でぐしゃぐしゃに丸まったハンカチを、そのまま顔の方に持ち上げて、すぐに元の位置に戻す。「まっちゃんのことが、――好きだった!」
視線を上げると、伊勢の顎から蜘蛛の糸のようなものが伸びている。何かと思ってその先を追うとニスの塗られた円卓の上でそれは砕けて、足跡のような水滴を残した。それがまた、一線、二線と砕けて、割れて、ぽたぽたと雨のような調子で伊勢の顔から降りしきる。
それは彼女の涙だった。
顔を真っ赤にして俯いている伊勢の目から、次々と涙が伝っている。直ちに鼻呼吸に支障を来したらしく、「はぁあぁっ」と口から滞っていた息を吐いた。
俺は、つい一ヶ月半ほど前に彼女と出会った教室のことをフラッシュバックする。あの時、教室の窓のサッシには上がった雨が足跡を残すみたいに水滴を残していたのだった。記憶と今の光景で、奇妙なことにその水滴の部分だけが目の前で重なった。
それからは、殆ど伊勢の独白だ。
「私、小さい頃っ、から――集団下校でっ! 傘を貸してくれた、あの日から――まっちゃんのことが好きだった! うっ! ぐうう、う!」鼻水を啜る音が大きく、低く響いた。それからまた口呼吸をし始める。「はあっ、子供の頃から好きで――! わ、忘れられなくてえっ。えっ。うっ。大人になった、今もお! とっ、と、東京に、行って欲しくっ……ないっ!! うっ! ううう! ずっと傍にっいっ……うええええぇぇ……」
そこからの言葉は聞き取れない。隣の月本に目を移すと、眼をまん丸に見開いて、大口を開けて静止しているではないか。
これ程感情露わに驚愕した月本も、俺は見たことがない。
「ま、まっちゃん」
「……何?」
「凄いことになっちゃった!」
「お前が言うな!!」という言葉をすんでの所で押しとどめて、カウンターの奥で、こちらも大口を開けているおばちゃん店主にティッシュを貰いに行った。
*
貰ったボックスティッシュを広い円卓に置いて、濡れそぼったちり紙が伊勢の前で山を作り始めている。なんとか鼻水の勢いは止まったらしい。だが、嗚咽は止みそうにない。
息の切れ間に吐き出すうめき声を拾い上げて構築すると、どうやら彼女は昔の自分に呪詛を吐いているらしかった。「キモい」「はんかくさい」という言葉を、小学生の頃の伊勢里映にはき続けているのだ。
流石に月本は予想だにしない(月本だけが)感情の発露に、黙りこくったままマンデリンを飲み干していたらしい。
その内、何も喋らないまま腕を組んで、解いてテーブルの上に置き、また腕を組んで、「ごめん。私、そろそろ帰らないと」と立ち上がった。
「あっ。そうか」
「まっちゃん、ついでに私の家寄ってく? お昼ご飯でも」
「……あ?……えーと……そうだな……」
俺も俺で、結構呆気に取られていたらしい。
本当に自分でも「馬鹿かお前は?」と言いたいんだが、何故か俺は月本に言われるがまま席を立った。
彼女がそうしたように自分の分の料金を円卓に置いて、泣いている伊勢をそのままに、出入り口横の傘立てから傘を抜いて、月本と一緒に店を出る。
店を出るとき、カウンター奥のおばちゃん店主が「あんたっ!」という表情で俺を見つめている、気がした。伊勢は俯いて嗚咽したままだ。
そのまま、ビルの階段を地上へ降りていく。豪雨は降りしきっていた。カッパのフードを被った月本が外に出て、俺も続いて傘を開いた。そこで――
「あっ」と、ようやく気がついた。
「どうしたの?」
「……忘れてた。これ、エビの傘なんだ」
「あ、そうなの? まっちゃんの傘は?」
「いや。俺の傘は無くて……つまり……俺は、エビと一緒に、この傘を差して、ここまで歩いてきたんだ」
「そうなの」
「つまり……だから……。俺がこの傘を持って行ってしまうと、伊勢がびしょ濡れになる……ということなんだ」
「――相合い傘を、してきたわけだ」
「そうだ」と、短く答えた俺の口が硬く強ばる。突如、とんでもなく強い感情が俺の魂にぶつかってきて、火が噴くような赤面をしたらしい。「……そ、そうなんだ」
「それじゃあ、まっちゃんは伊勢さんと一緒に帰らないといけないんだね」
「うん……」
すると、月本は軽い足取りで豪雨の中を歩き始めた。特にこれといった感情は引きずっていない様に見える。
「それじゃ、次は東京で会うことになるかな。先に帰るんでしょ? 東京着いたら連絡するから、飲みに行こうね」
「……ああ。そうだな。待ってる」
それ以上の会話はなく、月本はあっさりと去って行った。
*
店に戻ると、おばちゃん店主がカウンターから出てきていて、伊勢の背中をさすっていた。店先に現れた俺に目を留めると、「あんた……!」という顔で俺を見つめる。
「ここ、タバコ吸えますか?」と聞くと、おばちゃん店主は何故かむすっとした顔をする。だが、カウンターの端に積んであった灰皿を円卓にボンとおいて、ぷりぷりと台所仕事をしにカウンターへ戻っていった。
あと山場三つくらいしかないんで是非評価のほどおねがいします




