第57話 「なんで私たちをいじめようと思ったの?」
「エビ」
後ろめたさを感じつつも、首すらも赤く染めた伊勢に声を掛けた。視線は月本が置いた六花亭の袋にピタリと停まっていて、額からは傍から見て分かるほど滴が浮かんでいる。
あの時、俺の机にチョコを入れたのは、伊勢だった。
――なんてことは流石の俺でも分かる。
つまり、この六花亭のバターサンドを受け取るべきなのは伊勢であり、彼女が名乗り出しさえすれば、俺もすんなりと伊勢に渡すことが出来るはずだ。
だが、伊勢は顔を真っ赤にしたまま袋を見つめるだけだった。
「…………」
「エビって」
「……あっ、あっ、何っ?」
我に返って、自分で自分の汗の量にびっくりしたんだろう。鞄からハンカチを取り出して、額をポンポンたたき出す。
こういう状況を作り出した一因に俺の愚かさがあるということは重く自覚している。だからといって伊勢を励ましたりすることが出来ない。……月本の手前だ。
「だから、話を始めてくれと」
「あっ。ああ。話ね。うん……」伊勢は、どちらかと言えば月本の方に体を向けた。月本は俺の方に体を向けたままでいるが。「松尾から聞いていると思うけど、私たち、同窓会を開催するために昔のクラスメイトに声を掛けているの」
「うん。ついこの前聞いた。……で、私にもってこと? 一応、まっちゃんには既に誘われているつもりだったんだけどね」
「……それもあるんだけど――その前に――私、月本さんに――じゃなくってっ!……月本さんと松尾に……」と、ここでまたハンカチで汗を拭う。顔は赤いままで、伊勢の体内に様々な感情が渦巻いているのがわかった。「つ、辛く当たっちゃって!」
「ああ、それって、伊勢さんが私とまっちゃんのこといじめてたこと?」
「いっ――」
月本がさらりと「いじめ」という言葉を使ったことに、大きな衝撃と、少なからずの納得感が身に染みた。だが、……いやいや。それは流石に言葉が強いのではないかと、庇うわけではない、あくまで訂正というスタンスで、
「いや、俺と月本の二人に、勝手にぶつくさ言ってたのがエビ一人だろ? 二対一の構図でいじめ、ってのは……どうなんだ?」
「いじめでしょ? 私たちって常に二人一緒だったわけじゃないし、普通にそういう構図でもあり得ると思うけど。だって、私は伊勢さんのせいで学校行きたくなかったし」
月本は、小説の考察を喋るみたいにつらつらとそう言って、極めて平静な顔でマンデリンに口を付けた。上目遣いでこちらを見つめる彼女の表情からは、怒りのようなものは見られない。あくまで、いつも通りのちょっと変わり者の月本って感じだ。
そんな調子の月本が、音をもなくカップを置いてまた口を開く。
「だから、ちょっとびっくりしたんだ。伊勢さんが小学校の先生になっているなんて……。いじめの加害者が教職に就くのって物語の中だけだと思ってたけど、本当にあるんだね」
「お、おう……?」
俺は、月本の感情を一切読み取れないでいる。
怒っている……わけではないのか?
「それは、何なのかな。ひょっとして、こう、……」と、ここで初めて月本が伊勢の方を向いた。「学校の世界なら何でも自分の思い通りに出来る、っていう無敵感があるってことなの?」
そんな質問を振られて、伊勢はちょっと悲しそうな顔をして手を振る。
「う、ううん。違うよ。お世話になった先生に憧れて――先生になるのが、夢だったから」
「あ、そうなんだ! へえー!」
「…………」
伊勢が、悲しそうな笑顔のまま俯いた。
ここまで話を聞いていて、月本には伊勢の人生を好き勝手に面白がる正当な権利があるように思える。しかし、いたたまれないと感じるのは俺が伊勢とすっかり仲良くなってしまったからだろうか。
伊勢の味方ができない今の状況が、俺にとっても辛い。
「月本」
「ん? 何?」
「伊勢の人生は置いといて、取りあえず話を聞かないか?」
「あっ。そうだったね。で、何?」
「だ、だからね。同窓会に誘う前に、きちんと昔のことを二人に謝りたいと思って。だから――」
言葉尻はフェードアウトするようだった。
「謝るって、私たちに? 何で?」
何で?
……何でとは?
思わず、伊勢と一緒になって月本の顔をまじまじと見る。
「……あっ。そっか。伊勢さんってずっと学校……」と、俺に聞こえる位の声量で――つまりそれは、伊勢の耳にも入る声量なのだが――呟いて、こう続ける。「あのさ、伊勢さん。あなたの謝罪が私たちにとって何の利益も無いってことは分かる?」
「り、利益?」
「そう。利益。……つまりね? 学校の教育、それこそ道徳とかの授業でなら、子供にきちんとした謝り方というのも教えてるよね。あ、中学一年生からの指導要綱だっけ? とにかく、伊勢さんなら知ってると思う。生徒達に友達と口げんかしたシチュエーションでどう謝るか、っていうのを討論させるってやつがあったと思うんだけど」
伊勢は、やや呆然とした表情で首肯した。ということは中学一年の指導要綱にそういう内容があるというのは事実なんだろう。……それにしても、なんで月本はそんなこと知っているんだ? 生き字引にも程があるだろ。
「まあ、小学校でも国語の授業で近い内容を教えていたと思うけど。学校ではとにかく謝る、きちんと謝るのが人間として正しいことっていう風に教えてるよね。けれど、実際の社会じゃそんなことはないんだよ」
「……え?」
伊勢の顔には心の底からの疑問が浮かんでいるように見えた。多分、俺も同じような顔をしている。
「社会で言うところの謝罪っていうのは、例えば取引先と問題が発生したときに、その後も円滑に人間関係を維持して互いの利益を維持するためにするものなの。逆に言えば、それきりの関係だったら謝罪なんてものは全く意味がないってことだよね。分かる?」
「…………」
「伊勢さんが、今更昔のことを私たちに謝罪してどうなるの? 私もまっちゃんも、これからあなたと円滑な人間関係を維持しようとは思っていないと思うけど。学校の先生なら、それで自分だけ気分がすっきりしたりするのかなあ……?」
「…………」
伊勢は、何も言えないでいる。
確かに謝罪をする、という人間に正面きってその心境を問われては言葉をなくしてしまうだろう。
伊勢の返答がないまま、暫くの時間が過ぎた。
……と言っても会話がなかったわけではない。黙りこくった伊勢を前に、月本が全く関係ない最近の映画の話を俺に振ってきたのである。空気を読んでいないとか、伊勢を恨んでいるとかそういう雰囲気ではなくて、単純に伊勢の返事を待つまでの時間を雑談で潰した、という感じだった。
「あのねっ」と、俺たちの会話の切れ目に伊勢の声が挟まる。「私、二人との関係をこれきりにしようとは思ってないの。同窓会をきっかけに、仲良くできたらって思ってるんだけど」
「えっ!? そうなの? でも、私同窓会に参加するつもりないからなあ……」
いよいよ伊勢が悲惨な表情を俺に向けてきた。だから――
「俺は、参加しようと思ってるよ」
と、思わず言ってしまった。伊勢の黒目に店内の照明が反射して光る。
「あ、そうなんだ。じゃあ、まっちゃんにとっては意味があるんだ」
「そうなるかな」
東京から北海道となると飛行機代だけで一体幾ら掛かる?……あまり考えたくない。
「ふーん。なるほどね……。それじゃあ、せっかくだから聞いておきたいんだけどさ」
「……なに?」
「なんで私たちをいじめようと思ったの?」
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