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第56話 「バレンタインデー?」

 特にそう言ったわけではないが、月本に会う前日は当然のように伊勢の家で寝ることになった。明日の予定を前にして、互いのテンションが低調のまま夜は過ぎていく。


 いちゃつくようなことは、当然無い。


 会話も、あまりしていない。


 伊勢と話すべきことが思いつかなかった。


 ただ、際どいような瞬間があった。晩飯のカレーを作り出した伊勢の横に立って、手伝い始めた時のことだ。野菜を切る彼女の横で、俺が米を研ぐ。その間、彼女の方から体を押しつけてきた。腰の辺りを擦りつけるような感じで、だからといって手元を狂わせるような雰囲気でもない。


 だから、これは完全に俺の妄想だが、そこで俺が彼女をゆっくりと抱きしめて、そのまま愛し合うことになって、翌日の月本との予定を二人ですっぽかす、みたいな選択肢もあったわけだ。


 勿論、そんな妄想は実現しなかったが。……しなかったが、暫く体を寄せたままの時間は、間違いなくあった。


 で、結局――それが、伊勢とセックスをする最後のチャンスだったということになる。


 *


 翌日、準備を済ませてから家を出ると、本当に二日くらい前みたいな酷い雨模様となっていた。こうして庇の下から見る光景でさえ数メートル先が大玉の雨粒に乱反射して煙っている。


「わーっ!」


 伊勢が針山のような雨模様を前にして少女のような歓声を挙げた。


「また今日は酷い雨だ」


 前のように伊勢を運転席に乗せてから助手席に乗る。昨日洗濯して乾燥させた服の肩部分がもう濡れてやがる。


「今日はどうするの? 一旦すすきののマンションに戻るんでしょ?」


「ん?……いや、その予定はないけど。夜はけいちゃん家に行かないとだし」


「えっ。荷物とか、ご挨拶とかは?」


「うーん」


 部屋に置いている荷物ってなんだろう。着替えのアロハシャツと、下着と、……携帯の充電器くらいか。札幌に持ってきた鞄ですら大して物は入れていない。タバコの予備がないのはちょっと困るかもしれないが、誉美が吸うはずだ。それが挨拶代わりということで良いだろう。


「大丈夫だ。それより、ちょっと六花亭に寄ってくれないかな」


「六花亭? 珍しい! 何買うの? いちご大福?」


「別に大した物じゃないよ」


 車のダッシュボードに入れたままの報酬金のことを思い出した。それを取り出して、札の枚数をきちんと数えて、半分をダッシュボードに、半分を俺の財布に入れる。すると財布が大分が膨らんでしまったので、財布から十数枚を取り出し、またダッシュボードに突っ込む。


 そういう俺の動作を、伊勢は見ていなかった。前方の雨景色を注意深く眺めていたのだ。


 基本的に俺はあまり金がないが、病気・入院・転居・その他何かしらのピンチ、これらのどれか一つに即応できる程度の預金は残してある。よく考えたら綱渡りしているような気分になるので、よく考えないようにしている。


 ……大丈夫なのかなあ、俺。


 *


 月本と待ち合わせをしている喫茶店は、俺たちからすれば馴染みの薄い北二十四条の一角だった。北広島からならまず札幌駅付近まで行って、そこから碁盤目状の街を暫く北に行ったあたりに位置する。基本的に住宅街だが、駅に近いエリアにはちらほらと飲食店が建ち並んでいる。


 恐らく、彼女の実家が近辺にあるんだろう。勿論、自分の家の近くに俺たちを呼び出すというのは当然の権利だ。


 一階に洋菓子店、二階に不動産屋というビルがあり、月本の指定した喫茶店というのはそこの三階に位置していた。北海道らしく大きく開けた木造風の店内にはテーブル席が四、通りを見下ろせるカウンター席が六くらい。


 品の良い喫茶店だった。


 ところどころに額縁入りの絵が飾られていて、これはきっと土地の人々が描いたものだと思われる。席は全て同じ椅子だが、敷かれたクッションの柄は全て違う。手作りの物もあるようだ。


 俺の知らない、札幌での月本の生活が想像ついた。きっと、彼女はこういう喫茶店で買いあさった本を読み進める日常を送っていたのだろう。すると、東京ではどういう生活なんだろう、と頭の奥で疑問が湧いた。


 この天気ということもあってか、店内に客はいない。


 テーブル席は円卓のような感じなので、俺と伊勢が並んで座っても俺たちが特別仲良しというようには見えない。隣の伊勢の表情を伺うと、「大丈夫か!」と、声を掛けそうになるくらい緊張している様子。口元に力を入れているから頬が盛り上がっているし、虚空に留めたまなざしは動かず、全然瞬きをしない。


 だが、この場はあくまで謝罪を受ける立場として居ることに決めていた。


 ……卓についたアイスコーヒーに手を付けないまま暫くじっとしていたら、新たに客が階段を上がってくる。それが月本で、彼女の姿を視界に入れた瞬間俺はすっかり感心してしまった。


 彼女はカッパに、長靴を履いていたのだ。


 なるほど。これが月本だ。


 月本はカッパを入り口近くのハンガーに掛けると、長靴のゴム底をギュウギュウ鳴らして席に着いた。俺たちの位置関係は、円の外周を丁度三等分した感じになった。


「ちょっと前振り。まっちゃん」


「おう。……髪、凄いことになってるけど平気か?」


 月本は、いつにも増して曲がりくねっている前髪を摘まんで笑った。


「あ、これ? 湿気った日はこうなっちゃうんだ。天然パーマ」


 俺の認識からすると、それはパーマというよりアフロだ。……ま、それは良いとして。


「……で。前に話したと思うんだけど、こいつがエビ。伊勢、里映な」


「うん。どうも、お久しぶりです。伊勢里映さん。私は月本瞳」


「……久しぶり」


「それで、今日はどうしたの?」


 月本は、どうしてここにいるのか分からない伊勢のことはひとまず認識の外に置くことにしたらしい。体ごと俺の方に向けて、ほぼ一対一のスタンスで話してくる。


「前に話した同窓会の件で。エビの方から、誘う前に済ませておきたい話があるんだと。……で、その前に俺から……」


 俺は、机の下に置いておいた六花亭の紙袋を月本に手渡した。


「ん? 何これ?」


「バターサンド。……東京帰ってから、とも思ったんだけど、俺のことだからまた忘れそうだから。一応、バレンタインデーのお返しのつもりなんだ。滅茶苦茶遅くなって申し訳ないと思ってる」


「バレンタインデー?」


「ほら。昔の話だけど、月本、俺にチョコくれただろ」自分が赤面しているのを自覚した。この年になってバレンタインデーのお返しなんて、何とも小っ恥ずかしい。だが、こういうのもやっておかないと悔いが残りそうな気がした。「栞と一緒に、いつの間にか机に入れてただろ。俺も照れちゃって、お礼言えなかったんだけど……ありがとな」


「栞と一緒に? 机の中に?」


 月本は、六花亭の紙袋を持ったまま新たな謎に出会ったように首を傾げる。


「……それ、多分私じゃないと思うな。うん。きっと別の人だと思う」


「はっ? でも、栞を一緒に……」


「私は、本を読む人に栞なんてプレゼントしないからね。普通そうじゃない? 何を栞にするかって結構人それぞれでしょ。ブックカバーを使う人は付属のものを使うし、帯を保管するついでに畳んで使う人もいるし、レシートとか、書店で貰うやつとか。私がそういうタイプだから」


「…………」


「というか私、まっちゃんにチョコあげたことないから。あげようと思ったことはあるんだけど、なんか照れちゃって……」


「はっ」


 俺は、もの凄く、馬鹿だ。


 ――ということに、伊勢の表情を見て気付いた。顔を真っ赤にして、口を半開きにしたままこちらを見つめる彼女。それに、小樽への道中でこの話をしたときの彼女の態度、委員長の話……。


 月本は、六花亭の袋が立つように、丁寧にテーブルの上に置いた。偶々かもしれないが、それは伊勢の横だった。


「とにかく、これは私が受け取るべきじゃないのは確かみたい。……それで、伊勢さんの話って?」

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